見出し画像

全国思春期探訪Vol.1 岡山県津山市加茂町

「昔の日本人は○○だった」という話を耳にすることがある。昔の日本人は価値観も生活スタイルも今とは異なっていた、という話だ。昔話には、平安時代とか戦国時代といった遠い昔の話もあれば、あるいは本人の体験談として語られる昔話もある。私は本人が語る昔話を聞くのが結構好きだ。

つい最近も、実家の愛媛に帰省の折、祖母から色々な昔話を聞いた。
両親が定年後、祖母の暮らす愛媛に移住して、母の実家は私にとっての実家ともなった。この町は海と山に囲まれた陸の孤島と言われるような土地で、今は過疎化も進んでいる状況だが、祖母の話によると、昔は港を中心に大変活気があり、当時は芝居小屋もあったそうだ。その小屋でよく行われたのが町発祥の「朝日文楽」という人形芝居で、県の無形民俗文化財に指定されている。祖母も一時期人形遣いをしていた、ということは知っていたのだが、祖父も、舞台を建てる裏方として文楽に関わっていたということを、今回初めて知った。この朝日文楽、どうやら明治時代初期に始まったらしい。

この文楽は、明治12年(1879)ころ朝立村(現西予市三瓶町)の井上伊助が手造りの人形で始めた人形芝居が源である。明治22年(1889)東宇和郡山田村平松六之丞座を購入して文楽熱が高まり、明治25年(1892)ころ師匠を招いて人形や浄瑠璃の技能習得に励む。明治40年(1907)吉村源之丞座(上浮穴郡柳井川村)及び釜の倉座(双岩村)を購入併合して「朝日座」となった。明治44年(1911)劇場朝日座を建築して保管及び公演の場とし、大正時代中期から維持伝承が青年団員に移譲され、大正時代末期の旧正月連続5日間の公演も満員の盛況であった。
昭和4年(1929)に「朝日文楽」と改名、昭和12年(1937)より主戦までやむなく中断したが、昭和21年(1946)に師を招いて青年団員が再興、淡路系から大阪文楽系に転化した。
昭和36年(1961)に朝日文楽保存会を設立、現在30名の会員が週1回の定期練習を積み、春の定期公演、合同公演等に活躍している。

Photo・文:「西予市の文化財 県指定 朝日文楽/西予市」
https://www.city.seiyo.ehime.jp/miryoku/seiyoshibunkazai/bunkazai/ken/kminzoku/4254.html


明治期に始まった朝日文楽。100年くらい前に芝居小屋ができ、満員御礼となるまでになったその背景には、当時の町の発展が関係しているようだ。地形の特性上この町は、海運が発達した。今はみかんの生産が盛んな土地だが、当時は陸地で生産されたあらゆるものが、この港から各地へ運ばれた。

江戸時代には平地の乏しさを克服しようと盛んに新田開発が行われ、また塩田も開かれた。明治になるとその土地を利用して紡績工場が建設され、昭和10年代には千人以上の工女を擁していたという。戦後になって綿業は衰退し、交通条件に恵まれない三瓶はいち早くその影響を受け次々と閉鎖されていった。
 漁業、そして海運業も盛んに行われた。宇和島藩の木材を中心とする産物の集散地で、ここから海路に委ねられており、また干鰯などを大坂と取引する者もあり、商業も発達した。

「三瓶の郷愁風景」
http://www.kyoshu-komichi.com/iyomikame.html
三瓶港の景色

みかん畑で一色のこの町も、当時の人はあの手この手で産業を興し、海路を使い発展した時代もあったようだ。この頃に生まれた人形芝居も、発展にともなって増した娯楽の需要が少なからず影響していたことだろう。文楽は今でも定期公演が行われているが、60年代には早くも保存会が設立されている。戦後の経済成長や陸路の発達により物の移動速度や経路が大きく変わったことで、町自体も徐々に衰退していったようだ。こうした町の発展と衰退が、近代化と工業化の大きな波に合わせるようにして起こったことが、町の歴史や祖母の話からは感じられる。

祖母の町、三瓶町はその昔、朝立村と呼ばれていた。(「あさだつ」と読みます。念のため)上記のような発展の歴史から、当時は多くの人が山を越え、海を渡って、村に出入りしていたと思われる。話は別の村に飛んでしまうが、宮本常一の著書『忘れられた日本人』に、名倉という地方で行われた村人の談話に、こんな話がある。

昔から、こういう山の中の在所でもちょいちょい旅からやって来て、住みつく者もありました。この家にも吉川弥兵衛という人が来ておりました。古い戸籍を見ますと大阪府島上郡宮田村の人で、明治十一年にここへ来て住み、松沢米作付籍となっております。全くの遍路姿で、易をたてることが上手でありましたが、ここへおちついたとき、もうよほどの老人であったようであります。私の家へ荷をおろして何となくそのままおちついて、年はとっておりますし、わたしの家でもこの家のまえの屋敷に小さい家をつくって、そこに住まわせました。別にたのまれておいたのでもなくたのんでおいたのでもありませんが、もとはそういうことが多かったのであります。

宮本常一『忘れられた日本人』

旅人の交通だけでなく、よそから来た人を家においてしまう、それどころか、家まで建てて住まわせることが結構あったとは、かなり寛大というか、ユルいというか、それこそ現代の価値観では、理解するのが難しい話かもしれない。本書では、昔の日本人の様々な生き方、暮らしぶり、共同体としてのありようが紹介されているが、登場する人々は全体的にどこか間の抜けた感じというか、朗らかで開放的な印象がある。その印象は、祖母の町での私の個人的な体験、特に幼少の頃の(ノスタルジーも大分あるが)暖かな思い出と重なるものがあった。

私自身は千葉のベッドタウンで生まれ育ったのだが、幼少期の夏は、父の故郷である秋田と母の故郷である愛媛で過ごすことが多かった。祖母の町というのは、ここでは愛媛の方を指しているが、子供心になんとなく昔から祖母の家で過ごす感じが、千葉や秋田で過ごすのとはちょっと違うなあと思っていた。祖母の家には近所の親戚が毎晩風呂へ入りに来ていたし(祖父が薪を割って風呂釜を焚いていた)、妹と二人で町を歩けば必ず誰かが声をかけてきて、ジュースやらアイスを私たちにくれた。近所の人たちは年齢に関係なくお互いを、ちゃん付け、くん付けで呼び合っていた(ちなみに祖母はアヤちゃんである)。いつも誰かが家に出入りしていて、人との距離が近かったのだ。

こうしたことが、祖母の家だけのことなのか、愛媛の県民性なのか、ずっとよく分からないでいたのだが、『忘れられた日本人』を読んで、どうやらこれは、昔の日本人らしさみたいなものだったのかもしれないなと思うようになった。

本書が発行されたのは1960年なのだが、60年においてすでに『忘れられた日本人』というのだから、その内容が発行当時既に当たり前でなくなっていたのだろうことが分かる。時代背景的には、高度経済成長期の流れに対する動きというのか、先ほどの朝日文楽保存会が1961年に発足されていたことと重なるような気がしないでもない。

名倉談義では、村が変わったのは、明治25年(1892年)に村に道ができはじめてからだという話から始まるが、朝日文楽が生まれたのもやはりそのあたりの時代だ。当時あちこちに近代化の波が届いていたようだ。宮本の着眼点は、近代化する前の日本にあると思われる。そして『忘れられた日本人』の中で宮本は、近代化後の社会の側に立つものが、近代化前の社会を画一的に捉え、後進的であるかのように取り扱うことに対して、そうではないのではないかと問いかける。

その苛立ちは主に日本の村落共同体が封建的で閉鎖的な縦社会であると一括りに扱われてしまっていることに向けられている。その矛先はまた、農村をフィールドとする研究者たちにも向かい、封建的な縦の構造をもつ村落ばかりをことさら取り上げ、村落共同体をめぐる偏見を再生産していることへの強い批判となって文章のなかに立ち現れる。「家父長制」や「老害」といった言葉が、日本の後進性の核心にあって唾棄すべきものとして使われる現代を宮本常一が生きていたなら、あるいは苛立ちはさらに募ったかもしれない。
 といって、そうした「後進性」を擁護しようというわけではない。『忘れられた日本人』の戦略は一貫して、家父長制に基づいた「縦の原理」によって形づくられた村落共同体のカウンターとして、「横の原理」でつながった村落共同体の水平性を多面的に紹介していくやり方をとる。血縁でつながっていない他人同士が平和裡に共存できるよう育まれた「横の原理」が、かつての日本や農村や漁村には存在した。なんならそっちのほうがデフォルトなのではないか。『忘れられた日本人』は、ほとんど全ページを使って、そう問いかける。『忘れられた日本人』は、その意味で、はなから「デモグラフィック」な本として構想されている。

若林恵・畑中章宏「『忘れられた日本人』をひらく 宮本常一と「世間」のデモクラシー」

60年代の日本が、戦後の復興の必要性もあり勢いを増した社会の再構築によって、近代化のその後の世界へとすっかり生まれ変わったのだとして、忘れられた日本人や、保存会といった動きは、当時の日本の様相を危惧する意識の現れ、運動だったのではないかと思う。

「100年前って、全然昔じゃないですよね」


吉岡雅哉は、岡山県津山市加茂町へ向かう車中、そう言った。
実はこの記事で書いていることは、吉岡との旅の車中で話したことをまとめたような内容だ。我々は、100年ほど前に起こったある事件をめぐって、残された資料から分かる範囲で当時の状況を知り、そのうえで実際に現地へ行ってみることにしたのだった。ある事件とは、1938年に起きた「津山事件」のことで、「都井睦雄事件」と呼ばれることもある。一人の青年が一夜にして三十もの人を殺害した、戦前の一大事件だ。
吉岡は過去に現地へ行ったことがあり、その話を私は彼から聞いていた。100年前の日本についてここのところ知ることが多かった私も事件についてまとめられた本を読み、一緒に現場へ足を運んでみることにしたのだった。

吉岡雅哉の絵画作品を見ていると、昔の日本人はこうだったんだろうなと思うことがある。例えば、吉岡の作品には日本家屋がよく描かれる。その空間の庭先、あるいは室内で、男女が交わっている、そんな作品がある。昔の日本人は性に開放的だったという話を聞くことがあるが、吉岡作品の場合、たとえ舞台が現代のコンビニに移っても、やはり男女は入り乱れている。

吉岡雅哉「お月見」2023年 / F4 (333×242mm) / Oil on canvas
吉岡雅哉「庭いじり」 2023年 / F6 (410×318mm) / Oil on canvas
吉岡雅哉「海開き」2023年 / F4 (333×242mm) / Oil on canvas / 個人蔵


その光景は、異質なものとして、妄想あるいは夢のような世界に見えるかもしれない。だがもしも100年前の日本人が彼の絵を見たら、その描写が異質なものとは思わないのではないだろうか。
100年前の村人のたのしみについて、名倉談義ではこう語っている。

今の言葉でいうとスリルというものがないと、昔でもおもしろうなかった。はァ、女と仲ようなるのは何でもない事で、通りあわせて娘に声をかけて、冗談の二つ三つも言うて、相手がうけ答えをすれば気のある証拠で、夜になれば押かけていけばよい。こばむもんではありません。親のやかましい家ならこっそりはいればよい。親は大てい納戸へねています。(中略)みなそうして遊うだもんであります。ほかにたのしみというものがないんだから。そりゃァ時に悲劇というようなものもおこりますよの、しかしそれは昔も今もかわりのない事で……。

宮本常一『忘れられた日本人』

吉岡は、「田舎民が愛しているのはコンビニと外食チェーン店」であるという。これら現代人の発明品が無くなってしまえば、案外今でも人はスリリングな楽しみを求めて、100年前と変わらずに夜這いをするかものしれない。

津山事件の資料を読むと、都井が現代的な人物であったことが分かるのだが、そんな都井にしても、村では夜這いをしていた。津山事件も、背景には村の夜這いの風習が関係している。事件の調べに対して当初村人は、この集落に夜這いなど存在しないと否定していたが、後に村で夜這いがあったことが明らかになっている。都井もまた、周囲のその様子を見ながら、自分でも夜這いを決行したりした。金銭を与えて関係を持ったりもしていた。やがて関係した女との間に問題が起こってしまうのだが、その恨みが遺書には書かれており、これが事件の動機になったのではないかという説が多い。

都井睦雄は大正6年(1917年)岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現津山市加茂町倉見)に生まれた。二歳、三歳の時に両親を亡くし、残された祖母と姉の三人で暮らしていた。今でいう小中学校時代の成績は大変優秀で、毎年級長に選任された。一方で、欠席の多い子供でもあった。祖母が都井を可愛さのあまり自分の傍から離したくないことから、小学校も一年遅れで入学している。少しの雨でも欠席したそうだが、祖母はそれをむしろ喜んだ。そのような家庭事情があったにもかかわらず、成績は常にトップだったため、学校からは、旧制中学(今でいう高校)への進学を勧められた。都井も進学を希望したが、祖母がこれに大変落胆したため、祖母と離れることはできないことを理由に進学を断念した。

学校を卒業してから都井は、次第に家に引きこもるようになる。自分は小説家になると話し、周りの子どもたちを天井裏を改造した自室に集めては、自作の物語を読み聞かせていた。この頃、内山という男との交友が始まる。内山は大阪の賤娼街で見張り仕事をしており、都井に対して、女の経験がないなら大阪の自分のところへ遊びに来いと誘った。都井はその誘いに乗った。当時19歳。この年に都井は体調を崩し、肺尖カタル(肺結核の初期症状)と診断される。都井の両親は二人とも肺結核で亡くなっていた。気を病んだ都井はますます引きこもるようになる。この翌年に起きた「阿部定事件」に興味を示した都井は、その後内山にそそのかされ村の女性に対して次々と関係を迫るようになる。

21歳の5月になると、都井は徴兵適齢届を受付初日に提出した。徴兵検査の結果、結核が理由で不合格となる。かねてより地元の医者の診断に疑問を抱いていた都井は、このときの軍医に結核と診断され大変ショックを受ける。「わしはやっぱり結核じゃった。田舎のヤブ医者の診立てちがいで、ほんまは結核やない思うとったんじゃが、やっぱり結核じゃったけん。肺病じゃったけん……」
同年6月、都井は関係を持った女性から、都井のみに非があるような悪口を部落中に言いふらされてしまう。同年7月、都井は津山市内で猟銃を入手する。

22歳になると都井は、村中に悪い噂を広められたことへの復讐を計画するようになる。借金をして、武器を調達する様子などが目撃された。不安を募らせた村人の通達によって一度はそれらの武器を警察によって没収されることになったが、その後も計画準備は進められた。
事件の前日、都井は村の電線を切断した。ちょうど部落一帯だけが停電するような箇所が切断されていたという。素人にはできない手口とされた。部落は夜間の電光を失った。そうして、事件当日の夜を迎えた。


一人の青年が、一夜にして三十人を殺害した。
事件の猟奇性だとか、「八つ墓村」のモデルといった情報から、事件が起こった場所というのは、今は人の手が離れ、荒れ果ててしまっているのだろうか、などと私は勝手な想像をして、現地へ向かった。岡山駅から津山線に乗り換え、津山駅で吉岡と合流した。そこから加茂町へ向かい、車で30分ほどで町内に入った。町の中心には加茂川が流れており、川と並行するようにして、JR西日本因美線が走っている。1928年前に開業したという美作加茂駅に降り立つと、そこから町が広角に一望できた。奥に山が、手前に街並みが広がる、美しい景色だった。事件があった部落は、駅からは見えない、奥まった山の方にあったのだが、かえってそのことが、遠くの方から都井が自転車に乗っている姿とか、駅に向かって歩いてくる姿を想像させた。

加茂駅から事件のあった地区へと向かった。その一帯は、小高い山間の傾斜地を切り開いたような所だった。加茂駅周辺とは雰囲気が違って、周囲は木々に囲まれ、高地から流れる水音や、鳥の鳴き声が方々から聞こえる、静かで空気の澄んだところだった。綺麗な段々畑も見える。昔から変わらぬ土地なのだろう。
都井の家があったであろう場所は空き地になっていた。その土地の一段低い所に、慰霊のためだろうか、囲いをされた地蔵菩薩が立っていた。地区を歩いていると、所々廃屋も見えた。荒れ果ててはいるが、草木と一体化して、自然と共にあるような姿に見えた。
過去の出来事を知らなければ、まさに美しい日本の農村地とだけ思うような所だった。この景観、地形は、資料からも全く分からなかったところで、実際に歩いてみると、この傾斜地を一人の肺を患った青年が重装備で真夜中を駆け回り、衝撃的な犯行をごく短時間のうちに行ったとはとても思えなかった。そんな印象を抱いて、我々は地区を出た。

次に向かった都井の出生地である倉見周辺は、
集落が見当たらず、どことなく寂しい通りが続いた。


此の度の病気は以前のよりはずっと重く真の肺結核であろう。痰はどんどん出る、血線はまじる、床につきながらとても再起は出来ぬかも知れんと考えた。こうしたことから自棄的気分も手伝いふとした事から西川とめの奴に大きな恥辱を受けたのだった。病気の為心の弱りしところにかような恥辱を受け心にとりかえしのつかぬ痛手を受けたのであった。それは僕も悪かった。だから僕はあやまった。両手をついて涙をだして。けれどかやつは僕を憎んだ。事々に僕につらくあたった。僕のあらゆる事について事実のない事まで造り出してののしった。
 僕はそれが為世間の笑われ者になった。僕の信用と言うかはた徳と言うかとにかく人に敬せられていた点はことごとく消滅した。顔をよごされてしまった。僕はそれがため此の世に生きて行くべき希望を次第に失う様になった。

筑波昭『津山三十人殺し』

病気四年間の社会の冷胆(ママ)、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。

筑波昭『津山三十人殺し』

移動の車中、やはり私と吉岡は長いこと語り合った。犯行の動機、原因については、当時各界からさまざまな説が出ている。だが結局のところ、都井の肺病の具合や、女性関係にしても、それが犯行とどう結びつき、あれほどまでの犯行に至ったのか、都井が犯行後自殺する前に残された遺書、その他資料から全て分かるわけではない。上記は都井本人の書いた文からの抜粋だが、一つ目は犯行前に、二つ目は犯行後自殺する直前に書かれたものだ。

この文章を読んでいて気になったことがある。都井が「世間」と「社会」という言葉を使い分けていることだ。現地を訪れた実感としては、この遺書でいうところの「世間」の範囲とは、かなり限定的な領域で、つまりは犯行に及んだ、部落内の範囲を指しているように思った。これに対して、「社会」について都井はより広い世界を認識していたのではないかと思った。事件の4年前、都井が18歳のとき、家でごろごろしていることを姉みな子にたしなめられて、都井はこう言ったという。

「わしはもともと百姓は好かんじゃった。じゃから上の学校に進んで、勉強して、官吏か会社勤めをしよう思ったんや。そやけどおばやんが岡山の学校へ行くのはいけんいうて、許してくれんかった。上の学校へ行っとけばいまごろはもう卒業や。なんにでもなれたんや。みんなおばやんがいけんのや」

筑波昭『津山三十人殺し』


学校へは祖母のせいで行けなかった。だから役人にも会社員にもなれなかった。ならばと軍の入隊を志願したが、肺病が理由でその道を閉ざされた。小中の成績優秀者だった都井が、その先の「社会」において、会社員、官僚、あるいは軍人としての自分があることは想像できただろう。彼はなんにでもなれたのだ。社会へ出ることは都井にとって村を出ることを意味したが、その道は祖母の反対、あるいは病気によって絶たれ、村を出ることができなかった。彼が住む小さな世間の中では、学校の成績が優秀であったことはほとんど役に立つことがなかった。少なくとも本人はそれを世間の中で活かそうとはしなかった。活かせるとは思えなかった。

この時代、世間と社会は、どう認識されていたのだろうか。若林恵・畑中章宏の共著「『忘れられた日本人』をひらく」という本で、明治期の日本人が「Society」という英語にどんな訳語をあてるかで大変苦労したという話が紹介されている。

畑中 当時の日本人にとって理解が難しかったのは、「社会」というものを、「社会一般」といったときのような統一的な概念として理解することだったと言います。つまり、わたしたちが「社会に出ていく」といったとき、そこで想定されている社会は、ひとつのものですよね。

若林 抽象的な、いわば観念上にしかない概念だということですよね。

畑中 ところが『忘れられた日本人』でも見てとることができるように、ここに描かれている人びとは、統一した観念としての「社会」はもっていません。ここに登場する人びとは「世間」というものを通して世界を理解しているわけですが、「世間」というものの最大の特徴は、それが複数同時に存在するということです。さらにいうと、個々の人は、ひとつの「世間」のなかにしか存在できないわけではなく、折り重なった複数の「世間」のなかに同時に生きていることです。

若林 「女の世間」とか「年寄りの世間」とか「子どもの世間」とか、それぞれに別個の「世間」があると。

若林恵・畑中章宏「『忘れられた日本人』をひらく 宮本常一と「世間」のデモクラシー」

都井は当時、どのような世間を生きていたのだろうかと思う。資料から分かる範囲では、男の世間にはそれほど精通していたわけではなさそうだ。子どものころから都井は、姉みな子と過ごすことが多かったようで、それで女の子の遊びが多くなった。近所の子供たちはそんな二人をからかい、はやし立てた。小学校に上がってからは読書を好んだ。10代になると、悪友の内山から女遊びを覚え、彼の住む賤娼街の世間を知った。一方で、村の女の世間には精通していなかったように思われる。笑われ者になったと彼が恨んだのは、このあたりで流通してしまった話だったのではないだろうか。また、周りのほとんどがそうだったであろう百姓の世間は、本人がこれを拒絶していた。家にこもるようになってからは、子供たちに自作の小説を読み聞かせ、菓子を与え、子供たちも彼によくなついていたというから、子供の世間との関係は良好だったようだ。

そうした複数の世間とのちぐはぐな関係性を別として、都井は統一的な概念としての社会というものを、他の村人とは違って理解をして、そのため社会の構成員たる官吏や会社勤めをしたかったと口にしたのならば、その道筋が部落に存在しないこともまた理解できただろう。

しかしだとすると、学校というものの存在こそが、なんだかちぐはぐなものに思えてくる。この100年前の時代における学校教育とはなんなのだろうか。と、そんなことを思いながら、今回の旅のお供にと、ポケットに入れて読み歩いていた、ウィーン生まれの思想家イヴァン・イリイチ(1926-2002)の著書『コンヴィヴィアリティのための道具』(1989年)に、こんなことが書いてあった。

教育はほんの最近になって今日の意義を獲得したのだということを、私たちは忘れがちだ。子豚やあひるや人間に共通なはじめのしつけという部分を別にすれば、教育は宗教改革以前には知られていなかった。それは若者に必要な訓育や、あるものが生涯でその後たずさわり、そのためには教師が必要とされるような学問とははっきり区別されていた。
(中略)
産業主義的生産様式は"教育"と呼ばれる目に見えない新商品を製造することによって、はじめて十分に合理的根拠を与えられた。教育学は"偉大なる技芸"の歴史で新しい一章を開いた。教育は、科学という魔術によってつくりだされた環境に適応する新しいタイプの人間を生みだす錬金術的過程の探求となった。

イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』

学習を学校化と再定義したことは、単に学校を必要と思わせただけではない。それはまた、学校教育を受けていないものの貧しさを、教養のないものへの差別と結びつけたのである。学校化の階梯を登り終えたものたちは、どこで人々が脱落したか、どれほど彼らが無教育かということを知っている。いったん、人々の知識水準を定義したり計ったりする機関の権威を受けいれると、人々は彼らにかわって適切な健康と移動の水準を定義してくれるほかの機関の権威をも容易に受けいれるようになる。われわれの巨大制度の構造的な腐敗を見さだめるのは、彼らには困難なのだ。

イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』

本書でイリイチがテーマにしているのは、自立共生的な社会における、人と道具のありかただ。かつて人は自立共生的な社会を生きていた(それは社会というよりは世間という方がしっくりくる)。その時代に人は、自らの手で扱うことのできる道具を使って暮らしていた。ところが、社会が産業主義的な方向へ進んでいくと、人は道具を自らの手から離れたところで扱うようになった。そして、人はやがて道具に扱われてしまうようになってしまった。そうして社会は自立共生的ではなくなってしまった、とイリイチは述べている(と私は理解した)。産業主義社会は、道具が人を首尾よく扱うために、人々に学校で教育を施す、ということだろうか。ゾッとするような話だが、なるほどと思うところもある。

と、西洋の思想まで引っ張り出して、かなり混ぜこぜに、これといった主張もなくここまで書いてしまった。とはいえ「忘れられた日本人」や「コンヴィヴィアリティのための道具」読み進めながら、祖母の話を聞き、加茂町を旅して私は、どの話も近代化がもたらした変化の後先に関係した話なのではないかということを思った。学校の成績が優秀だった都井の計画性と実行能力は実際、人並外れて優れていたが、その能力を近代化されていない場所では活かすことができなかった。都井が生きた地域は、世間と社会のバランスでいえば、当時はまだ世間の力学が強く回っていたのではないかと思う。社会の側に移行していきたかった都井は、その社会の側からも不合格を突き付けられてしまったことで、世間と社会の狭間にすっぽりと閉じ込められてしまった。結果として都井は、近代的な社会に向けて得た自らの能力を使い、村に張り巡らされた近代化の象徴のような電線を切断して、近代的でない世間へ狼煙を上げた。そのやはり顛末はやはり、ちぐはぐなものに見えてしまう。

ただ、世間というもののあり方自体は、我々が今思うほどに閉じた空間ではなかったともいわれている。宮本もそのことを『忘れられた日本人』で紹介している。

「はァ、昔にゃァ世間を知らん娘は嫁にもらいてがのうての、あれは竈(かま)の前行儀しか知らんちうて、世間をしておらんとどうしても考えが狭まうなりますけにのう、わしゃ十九の年に四国をまわったことがありました。」
(中略)
娘たちにとって旅はそうした見習いの場であったのだが、それは島の者の持っていない知識をもっている事をほこりにしたのである。そうしてその一つとして他郷の言葉を身につけることであった。

宮本常一『忘れられた日本人』

昔の娘さんたちはみな、若いころに旅をして見聞を広めたらしい。世間が同時複数存在していたとあったように、そこには本来、多様性があったのではないかと思う。そうした世間が折り重なるなかで、人はお互いの世間を荒らさぬよう気を配り、それぞれの道具を手に取って、協力し合って暮らしていた。『忘れられた日本人』ではそのような自立共生的な時代の日本が描かれている。

もしも都井が進学していたら、どこか違う場所へ旅でもしていたら、どうなっていただろうかということを思う。事件の資料を読むとやや言い訳っぽく聞こえるところがあるが、祖母の存在が彼にそれを許さなかったのだ。彼が世間と社会の狭間から、多様な世間を渡り歩くことができなかったことにもやはり事情があったのだと思う。ただそんな彼にも、自らの手で扱うことのできる道具があった。そう聞けばやはりそれは銃刀という道具を思ってしまうけどそうではなくて、彼はその道具、つまり「筆」で、自らの表現として小説を書き、子供たちの世間と触れ合うことができた。犯行後自ら命を断つ前に、遺書を書き残すために筆と紙をもらおうと立ち寄った家は、都井が読み聞かせをしてあげた男の子がいる家だった。都井が最後に言葉を交わした人物がこの子だったようだ。

じいやんと寝ていたら、突然夜中に変な男が入ってきたのでおどろいた。恐ろしくてじいやんにしがみついてふるえていたから、詳しいことは覚えていない。しかし途中でその男が私のことをアッチャンといい、わしじゃがなと懐中電灯で自分の顔を照らしたので、恐る恐る見たら都井だったので、それからこわさが消えた。そして都井にいわれるままに、学校のカバンの中から鉛筆と雑記帖を出してやった。都井はありがとうといい、勉強してえらくなれよといって立ち去った。都井は私たち子供が好きで、私たちを集めてはキャラメルなどをくれたり、自分で書いた物語を読んでくれたりした。しかしこんな夜中に、紙と鉛筆をもらってどうするのかと思ったら、じいやんが遺書を書くつもりじゃろといった。私が遺書とはなんじゃと聞くと、えらいことやらかしたから死ぬ気じゃといった。そのほかのことは、あまり覚えていない。

筑波昭『津山三十人殺し』


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?