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コンビニと週刊誌

夏の高校野球地方大会が始まり、ソワソワしだすこの頃。
今やすっかり運動不足の生活ですが、高校時代は往復2時間かかる道のりを一人自転車で通学し部活の朝練に向かう日々でした。
今とは違い携帯電話の所持は厳罰。川沿いを真っすぐ進み、田んぼや梨畑を抜け、情報と経験が少ない環境の中で、周りに何があるのかも知らずに、ひたすら自転車をこいでいました。その時分というのは、案外一人の時間は少なくて、一人になれるあの通学時間があって良かったよなあと今でも思うことがあります。

さて今回は、吉岡雅哉さんとの対話を通じて浮かんだ景色のようなものを、吉岡さんの作品と共に感じるままに書いてみたいと思います。

私たちが暮らしの上で求めるものが(と思わされているものが?)コンビニには常に最適化した状態でディスプレイされています。それは都会であろうと郊外であろうと基本的には変わりません。

吉岡雅哉「ひかりのあるところへ」2006年 / w.652 × h.803 mm / キャンバスに油彩

夜になれば月明りしかないような土地に、あるときからコンビニの明かりが付くようになりました。周囲の住人からするとそれは異様な明かりでした。以前であればこんなものはすぐに潰されていたのに。反対の声をあげる者もいました。だけどその存在にもやがて人々は慣れていきました。コンビニの明かりは次第に増えていきました。

吉岡雅哉「ひかりのあるところへ」2016年 / w.1303 × h.970 mm / キャンバスに油彩


暮らしに影響が出ない範囲で受ける刺激については、人はむしろ積極的にそれを消費します。例えば週刊誌はその受け皿として存在して、分かりやすい対象となる顔を絶えずそこに掲載します。行き過ぎた報道に対する批判も少なからずあるものの、最適化されたコンビニ空間から週刊誌が姿を消すことはどうやらなさそうです。

吉岡雅哉「囚人ファイル」
吉岡雅哉「囚人ファイル」
吉岡雅哉「人妻ファイル」2010年 / h.530 × w.455 mm / キャンバスに油彩



どれだけ周囲が慣れようと、あるいは忘れようとも、一度そこに感じた違和感を拭うことはできません。見えなくなったとしても、それは消えたわけではないはず。本当は違うのではないか。もっと他の何かがあるんじゃないか。理解したくて、考えずにはいられない。思春期は今でも続いているのでしょうか。

吉岡雅哉「入学式」2020年 / h.803 × w.652 mm / キャンバスに油彩
吉岡雅哉「入学式」(部分)


私たちの日常を、少し違った角度から見てみると、実はすっかり変わってしまったものや、今でも変わらずに取り残されているものが見つかるかもしれません。

ギャラリーでぜひ、そんな体験をしてもらえたらと思います。

24時間営業はしておりませんが、13時~19時で営業しております。
お気軽にお立ち寄りください。

NewChord_#2 - 吉岡雅哉 "コンビニ"
6月27日(月) - 7月16日(土)
13:00-19:00
休廊:日曜日


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