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幸せな王子は幸せか? ~自分のなかの井戸の話


ご幼少の砌(みぎり)という言葉には似つかわしくない自分ではあるが、自分の母はいろいろと手をかけて、自分たち3人兄弟を育ててくれた。出産後は看護師のキャリアもしばらく中断し、子供が全員小学生になる頃までは家にいてくれたし、いろいろ手を焼かせる年の近い子どもたちによく付き合ってくれたと思う。

特に、朝な夕なに、絵本を読んでもらったことはよく覚えている。

レオ・レオニの名作「あおくんときいろちゃん」など、デザイン寄りでもあるが幼なごころに合体シーンはけっこう衝撃的だった記憶がある。また、「きかんしゃやえもん」という本もいま思い出した。あれもイライラしながら走ると沿線火災を引き起こす様子が、今の自分と似ていなくもなく、切ない。

三つ子の魂百までというが、エピソード記憶を忘れがちな自分でもこんなふうに覚えているのだから、子供の頃の読み聞かせはすごく大切なのだろうな、と思う。


そして、その中でもざらっとした感触の記憶として、苦みを伴って忘れられない本がある。

オスカー・ワイルド原作、「しあわせなおうじ」だ。
原題が「The Happy Prince」、文章はこちらで読めます。


豪華絢爛な銅像の王子が、存命中には気にもかけたことのなかった民の苦しみを、銅像になって初めて目撃する。貧困に喘ぐ民のために、自らのルビーの刀飾りやサファイアの瞳、そして最後には身体に張られた金箔まで差し出してすっからかんになり、汚い銅像として廃棄物処理されて、でもちゃんと神は見ていたぞと天に召されるみたいな話、ですが。


自分のざらつきポイントは、その配送屋に気の良いツバメ君を使ったところである。最初は一宿一飯の恩で、小物(と言ってもルビー玉だが)を配達したのがツバメ君の運の尽き。冬になるまでに旅立たなければならないところを泣いて引き留めて、それを強く断れずに使役されて、寒さと過労で死んでしまったツバメ君。なんというやりがい搾取、なんというブラック労働。
ツバメもツバメだ、君はやりがいのあまり、そこで鳥生を見失っているぞ。


雪が降り出して寒さに凍えながら、ようやくツバメ君が金箔をみんな配り終わったとき、いまさら南にお帰りとか言ってたしこの王子。ツバメ君はそれを聞いて垂直落下。いやそうなるのくらい気づこうよ。それだからお前は世間知らずの王子なんだよ。

そして、この話で一番やりきれないところは、そのツバメ君の死に気づいた瞬間、心臓麻痺を起こすんですよこの王子。銅像なのに。何という想像力の欠如。それだからお前は世間知らずの王子なんだよ。

また、最後に天使さんたちが尊い…と見つけ出してくれた結果、神に召されて王子とつばめ君は幸せになりましたねHAPPY、という強引極まりないまとめ。これも神の概念になじめない自分の、腑に落ちなすぎるざらつきポイントその2、なのでした。

これでは神を崇めない、持たない民には救いがない、みたいな話ではないか。



ともかく、いま改めて読んでも、感動よりやりきれなさがMAXな物語である。

このように、自己犠牲のありようとか、上下関係とかパワハラとか、神の救いの欺瞞性とか、さまざまな教訓の引き出しになりそうな物語ではありますが、ここではこの話の中に違う教訓を見出したい。

金目のものが突然降ってきた貧しい民の皆さんは、苦しみが減って一時的に幸せとは言えるのだから、それを見ている王子も、ミラーリングと達成感でその時は幸せを感じているだろう。全能感に似た幸せではあるが。

だが、自らのストックを使い果たしたときの王子には、果たして幸せを感じる要素が残っていただろうか。そして自分の幸せコレクションのために命を捧げる羽目になったツバメ君への罪悪感を、最後の瞬間に感じていたとしたら。感じた幸せ総量を上回る、不幸な気持ちになりはしないだろうか。

やはり自分はこの話、今は壮大な皮肉にしか受け取れないのだ。


この話の罠は、王子が動けないことだ。なのでツバメ君は死んだ。ならば、自分が死ぬ前に、動けるうちに気づけ、やれ。そういう教訓と捉えるのはどうだろうか。
死んでから気づいたのでは、自らの財を配ることはできないのだ。


少しづつ世界をマシにしたいと欲するなら、まず、自らがしっかりと生き残ることだ。よく寝て、よく食べ、よく動く。そこからである。
誰かのエネルギーを消費して何かを成そうとしても、その先にある幸せは、たぶん神などの変換装置が必要なやつだ。それでいい人はそれでいいけど、自分はそこまでその装置を信用できない。

だから、自らがガス欠にならないように、簡単に死なないように、できることなら天然核融合炉たる恒星のように光る。それが難しい人でも、その光を反射して照らす月にはなれるかもしれない。それもまたよし。光る人にはそのために触媒が必要だったりするからね。消費される燃料ではなく。

井戸に例えてもいい。すこしづつ世界を良くしようと思って配るものは、減っていく自らの皮膚や身体ではなく、井戸から汲み上げたあたらしい水であるべきだ。

動けなくなり、空を見上げるとひたすら蒼い、そんな状態になる前に、何が自分の心を震わせるのか、探して歩き、ちゃんと自分の井戸を確保しよう。
大きいことを考えてもいい、でもそれを実行する前に大事なのはそこ。それが足元を固めるということ、だと思う。


せっかくなのでそういった歌、置いておきます。
久しぶりに聴くけどやっぱりカッコいいぜ。


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というわけで、水曜日の午後は早仕舞いにして、黄緑色の戦闘服を来て川崎はUvanceとどろきスタジアムに旅立つことにするのである。これが自分の井戸汲みなのである。推しがいる幸せ、というやつである。

上記言い訳かよ、というツッコミはなしでお願いします。一喜一憂どころか、一喜九憂くらいの状況なんですようちのチーム、だからこそ行かねばならないのです。
お仕事関係の方、大変恐縮ですがこういった理由につき、平にご容赦いただきたく。


※参考図書 

思い出したついでに、せっかくなのでご紹介です。

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