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沸点調整剤

「うちの課長、怒りっぽいのよ」
 庶民的な居酒屋で、美乃花みのかは友人の里美さとみにぼやいた。
「今日も話の途中で、勘違いして1つ下の後輩を叱り倒してたわ」
 里美はそんな課長ネタを一通り聞くと、スマホの画面を見せた。
「これ、私の知り合いが販売してるやつだけど」
 美乃花は何だろう、と身を乗り出して見る。
「怒りやすい人の『沸点』を上げる調合をした粉末。一応医薬品じゃないから、販売に認可とか処方箋は要らないんだって」
 里美の説明に半信半疑だったが、値段も安く、体に害も無いというので、試しにその場で注文してみた。

 数日後、商品が届いた。「沸点調整剤」という名前で、「怒りの沸点」以外にも、「笑いの沸点」「悲しみの沸点」という内容が、ぞれぞれ「沸点上げ」「沸点下げ」と2種類ずつ入っていた。
 笑いとか悲しみは使い道が思い浮かばないなぁ、と美乃花は思いながらも、それらを会社に持ち込むことにした。

 翌日、朝から課長はまた不機嫌だった。美乃花はコーヒーカップに「怒りの沸点下げ」を入れると、いかがですか?と差し出す。お、珍しいね、と言いながらも課長は少し機嫌が良くなり、そのままコーヒーを口にした。
 しばらくして、別の部署の人間が課長に報告に来た。先日の調整依頼案件、先方の都合で断られた、という内容のようだ。
「君、この案件が以下に重要か、おたくの課長も知ってるんだろ?」
 いつもの調子で怒りそうだな、と美乃花が感じた時、コホンと小さく咳払いすると、一瞬黙って、課長が語り始めた。
「しかし、これがその精一杯の交渉の結果だよな。こちらも善後策を考えるから、また相談させてくれ」
 おや、と課員全員が思ったかもしれない。いつになく緩やかな着地だった。美乃花は調整剤の効果を思い知ることになった。

 その日の午後、ある取引先の社長が美乃花のいるフロアを訪問することになった。担当課の情報によると、大変豪快な方で、誰彼構わず話しかけ、あまり面白くない冗談を言っては、自分は盛り上げ上手だ、と満足したいタイプらしい。 正直、面倒なおじさんが来るな、と思った美乃花だったが、自分が沸点調整剤を持っていることを思い出し、この場面だ!と、「笑いの沸点下げ」を飲むことにした。
 やがて、担当と昼食を共にしたらしい社長がオフィスに現れた。
「やー、お初にお目にかかる皆さん、こんにちは」
 入室するなり笑顔で、そう声を張り上げた。
「おや、こちらの方はタレントの◯◯さんの弟さんですか? いつも弊社のCMに出演いただきありがとうございます」
 近くで目についたらしい、男性社員の肩を掴んで、そんなことを言い始めた。タレントの◯◯とはただ目が細い、という程度の共通点しかない。
「あ、そう言えば、御社の社長さんも俳優の△△さんに似て男前でいらっしゃる。あ、でも彼は不倫の噂がありましたな、あ、彼というのは△△さんの方ですよ」
 課内ではどう反応して良いかわからない、といった微妙な空気が流れた。
「いや、さすが業績の良い会社さんは違う。皆さん、私の戯言など気にせず、仕事に集中してらっしゃる。あ、もしかして、私がずっと滑ってるだけですか?」
 そんな社長の言葉に、また周囲がダンマリしているところで、美乃花が大声で笑い出した。
「す、すみません、仕事に集中しようと思ってたんですけど、お話が面白くてつい」
 アテンドの担当は、ほっとしたような顔で、美乃花を見ながら言った。
「社長のジョークは真面目な社員も我慢できなかったようです。いつも勉強になります。それでは、上の会議室で打ち合わせの時間ですので…」
先方の社長は満足げな顔で、部屋の外に出ていった。

 その夜、美乃花は以前から誘われていた気になる男性と初デートだった。といっても、夕食を共にする約束をしただけだが、お互い気があるのは分かっていた。
「ごめん、待った?」
予定より数分早いのに、彼はそんなことを言った。
「全然。ちょっと前に来たとこ」
 実は10分前に来ていた美乃花は笑顔で返す。
「じゃぁ、予約してる店があるから」
 彼は美乃花を誘導して、繁華街へと歩き出した。
 おしゃれなレストランに着くと、彼がトイレに行く間、美乃花は沸点調整剤を取り出した。彼が話を盛り上げた時に、笑ってあげたい、という気持ちだった。「笑いの沸点下げ」を取り出して水と一緒に飲む。すぐに戻ってきた彼が席につく。
「ところでさ、うちの会社の話なんだけど…」
 彼がそんな感じで面白い話をしてくれるのだが、なかなか笑いたくならない。おかしいな、と美乃花が感じていると、どうやら話がオチに近づいいてきた。
「でさ、まさかと思ったけど、その花の名前を間違えて書いたの、あの博識の部長だったんだよ」
 ここで笑わなきゃ、と思っても、顔がひきつって笑顔にならない、目の前で彼が自信を無くしたような表情になったのに気づいて、美乃花は涙が出てきた。
「あ、どうしたの? 大丈夫?」
 彼がそう言うが、どんどん涙が止まらなくなってきた。
「あ、何でもないです。ただ、なぜか悲しくなってきて」
 彼女はもしや、と思いながら言った。
「もしかして、何か辛いことあった? ごめんね。こんなくだらない話ばかりして」
 彼は優しくそう言った。
「いえ、本当に大丈夫なんです。でも、そんな言葉かけてくれて、また涙がでるじゃないですか…」
 美乃花は、この人、本当に優しい、と思い、嬉しくなった。そして、自分が沸点調整剤を間違えて「悲しみの沸点下げ」を飲んだのだろうと、気づいていた。
「あ、普段はこんなに泣き上戸じゃないですからね。今日はたまたまです」
「そうなんだ。そんな日もあるよ。お酒、何か注文する?」
 彼がドリンクメニューを出すので、2人でワインを注文することにした。そしてすかさず、「笑いの沸点下げ」を確認して取り出すと、ちょっとお酒の前に、と断って口に入れた。
「ところでさ、食事の後なんだけど」
 あらたまった感じで彼が言う。
「少し気持ちも落ち着くように、どこか静かな所で休憩とかしない?」
 美乃花は、急に感情が動くのを感じた。
「うっそー、ハッハッハ、ごめん、おかしー」
 彼はあっけに取られた顔をしていた。
「ごめんなさーい、でも笑いが止まらなくて」
 涙を流しながら笑う彼女を見て、彼は何かまた自信を失ったような顔になった。
「いや、こっちこそ、このタイミングで変なこと言ってごめん」
 そして、その後は寡黙になってしまった。
 失敗した、美乃花は、そう思ったものの、二重の調整剤による影響か、もはやニヤケ顔が止まらなくなってしまい、この恋はこれで終わるのか、と複雑な気持ちで笑いの感情を必死にこらえていた。

*この物語はフィクションです。