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【雑文】 オジサン、オバサン

眠いぞ、昼寝しそこねた与井です。

オジサン、オバサンという呼称の話。
世の中から、おじさんとおばさんが激減している気がします。

私が子どもの頃、30歳以上は「おじさん」と思っていました。
しかし、自分が大人になると、その感覚はなくなり、次第に年齢が後ろにシフトしていきます。やがてその境目が40歳になり、それもぼやけてくると、もはや年齢で区切ることは無理とわかり、今では「心の中にあるもの」という、ガンダーラかユートピアのような存在になっています。

実際、定義次第では、おじさんもおばさんも存在し、また以前より激減したとはいえ、見た目と雰囲気と言動が、あの懐かしい「おじさん」「おばさん」を再現(?)している方も見受けられます。しかし、以前のように年齢を重ねると自然と変貌し、誰もが通過点として過ごしていたはずの、おじさん、おばさんは、過去のものになっている気がします。

かつて「私がオバさんになっても」と歌った森高千里さんがいつまでもオバさんにならない説が言われて久しいですが、見た目や考え方の若さを継続している人が増えた、というのが大きな要因と思います。さらには、精神年齢が(良くも悪くも)若い人が多いのかもしれません。おそらく40代以上の方で自分をおじさん(おばさん)と本心から思っている人は以前と比較したら激減しているでしょう。

結果、他人に対しておじさん(おばさん)と呼ぶこと自体がちょっと失礼なように感じられ、あるいは自分自身を「おじさん(おばさん)」と呼ぶ場合も少し自嘲気味な気配もあり、なんとなくヒトの正常値として存在していた「おじさん(おばさん)」という名称は、使用機会がフェードアウトし、やがては差別用語のような扱いになるのでは、とすら思います。

この駄文の趣旨は、おじさん(おばさん)という呼称は昔のように使っても良いんだよ、ということではなく、みんな若作りしておじさん(おばさん)と言われないようにしましょう、言われたら負けです、ということでも、森高千里さんは永遠にオバさんにならないのになぜあのようなアリもしない未来を歌ったのか、ということでもありません。ヒトはいつの間にか、型にはまった年齢による制限から開放され、精神も姿も人によってそれぞれ好きなだけ持続したり、シフトチェンジしたり、自由に決められるようになったのだなぁ、という感想です。

やがて絶滅危惧種になりそうな「オジサン」「オバサン」。なるのも自由、ならずにスキップするのも自由。(その先がおじいさん、おばあさん、なのか、そこにも到達しないのか) ただ、多様性というのは着実に令和の日本で実現しているように思えてなりません。

まったく、眠いところからの駄文なので、こんな感じのおしまいなのです。