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来訪者【怪談】

 鳴り響く音に、和子は身を固くした。
 枕元の携帯を引き寄せ、時間を見る。午前一時十一分。

 ――また、だ。

 和子は布団を頭上まで引き上げた。

 ――もう、いい加減にして。

 この部屋に越してきて、一週間。必ず、毎晩、この時間に。
 誰かが、インターホンを鳴らすのである。

 和子は今年で大学二年生になる。今までは隣県の実家から学校に通っていたのだが、学年が上がるとともに校舎が変わり、通学に三時間、かかるようになった。
 いちいち通学にそんな時間はかけられないし、交通費も馬鹿にならない。レポートやら課題やらで遅くまで起きていることも多いので、寝不足になることは確定的である。
 それならいっそ社会勉強も兼ねて、ということで、一週間前から一人暮らしを始めたのである。

 正直、和子は嬉しかった。そこはまだ若い学生である。学問に身が入ることを喜ぶよりも、親元を離れる解放感の方が強かった。

 初めて手に入れた自分だけの城は、三階建てマンションの二階。一番奥の角部屋で、窓は南向き。六畳のフローリングと、申し訳程度のキッチン、ユニットバスというシンプルな作りだが、和子はそれこそ天にも舞い上がるかという心持ちであった。
 両親ともに外せない用があり、かといって友人に頼むのも気が引けて、和子は一人で引っ越しを行うことになった。鍵を受け取り、慣れない家具の組み立てに四苦八苦し、ようやく形になってきたところで力尽きた和子は、早々に新品のベッドに潜り込んだのである。

 その日の夜であった。

 ぐっすりと眠っていたはずの和子は、ぱちりと目を開けた。
 妙にぽっかりとした目覚めであった。何かに驚いて、思わず目が開いたような、それくらい、不自然な起き方であった。枕元に置いていた携帯を引き寄せ、時間を確かめる。まだ午前一時を少し回ったくらいであった。もう一度寝ようと、寝返りを打った、その、耳に。
 インターホンの音が、届いたのである。
 一気に目が覚めた。
 こんな時間に、いったい誰が鳴らしているのだろう。
 出るか、否か。

 ――無視しよう。

 考えるまでもない。和子は目を固く瞑った。
 きっと、誰かが部屋を間違えているに違いない。気にしないのが一番だ……。
 しかし、その翌日も。
 そのまた翌日も。
 毎晩同じ時間に、鳴るのである。

 まんじりともせず朝を迎えた和子は、のっそりとベッドから起きあがった。頭が重い。このところ、酷い寝不足なのだ。
 今日は土曜日だ。学校は休みだが、昼からアルバイトが入っている。
 インスタント珈琲をざらりとマグカップに入れ、お湯をポットから直接注いだ。冷凍庫から食パンを取り出し、軽くトーストする。
 ローテーブルにティッシュペーパーを一枚引き、その上にトーストを置いた。皿はまだ段ボールの中である。片づけきれていない荷物が、壁に摘み上がっているさまを見て、和子はまた溜息を吐いた。
 もそもそとしたトーストを齧りながら、和子はぼんやりとあのインターホンのことを考える。

 ――本当に、何とかしないと。

 寝不足解消の為に、引っ越したというのに、これでは本末転倒だ。

 ――何とか、って言ってもなあ。

 喉に詰まるトーストを、珈琲で流し込み、和子はふらつく頭をひとつ振った。何にしても、何かしらの手を打たなければいけない。それだけは、確かなのである。

***
 
「インターホンの電源を切る!」
 そう言い放ったのは三つ歳上の奈津美であった。バイト先の先輩で、少々派手目のメイクが特徴である。
 和子は都心のカフェでアルバイトをしている。時刻は十四時を少し回ったところだ。本来ならばピークタイムのはずであるが、オフィス街という立地のためにこの時間はまだ閑散としていることが多い。
「そうすれば音も聞こえないし、問題ないんじゃない?」
 奈津実はエスプレッソマシーンをダスターで拭きながら、そう言って笑った。
「……それじゃ、何の解決にもなってないですよ」
 思わず呆れた口調になった和子に、奈津実も苦笑し、目線でマグカップの山を指した。

 ――いけない。

 和子はマグを手にとって、磨き始める。この先輩は、見た目に反して仕事に熱心だ。雑談をしている時でも、手は必ず動かすようにと厳しくしつけられている。
「多分、誰かの部屋と、ウチを間違えているんだと思うんですよね」
「でも、一週間、ずっとでしょ? 流石に気付かなすぎだと思うけど。和子自身を訪ねてきてるってことはないの?」
「うーん、家を知ってるの、まだ家族くらいですし。時間が時間なので、配達関係でもないと思いますし」
「そうだよねぇ……」
 そこまで口にして、奈津美はふと顔を曇らせた。
「……あのさ。別にこれ、怖がらせたくて言ってる訳じゃないんだけどね」
 随分と大仰な前置きである。
「和子は引っ越したばっかりで、特に部屋を訪ねてくる人とかもいないわけなんだよね」
「はい」
「だったら……和子が引っ越す前に住んでいた人を訪ねてきてるってこともあるかもしれないよね」
「ああ、なるほど」
 和子は大きく頷いた。確かにそれはありそうである。それならば、きちんとインターホンに出て、説明をすれば分かってもらえるはずだ。
「ありがとうございます。奈津美さん」
「ばか」
 奈津美は顔を顰めた。
「あのさ、もうちょっと考えてよ。もしそうだったとしたら、前に住んでた人はどうして引っ越しのことをその人に教えなかったの?」
「え?」
 和子は考える。引っ越したのに、引っ越したことを教えない、ということは。
「その人と縁を切りたいと思っていたってことですか?」
「それだけじゃないよ。もっと最悪なことだってあるかもしれない。例えば、ストーカーとか……」
 和子は絶句した。確かに、気づかなかったけれど、そういう可能性もあるのだ。前の人がしつこいストーカーに悩まされてこっそり引っ越し、そこに和子が入ってくる。ストーカーは引っ越したことに気づいていない。それで、延々とチャイムを鳴らし続ける……。
 和子の顔色に気づいたのであろう、奈津実は気遣うように和子の肩に手を置いた。
「とにかく、一度警察とかに相談してみたらいいんじゃないかな。何かあってからじゃ遅いんだし」
「ええ……考えてみます」
 曖昧に頷きながら、和子は心の奥に冷たい氷が落ちていくような感覚に襲われた。
 確かに、何かあってからでは遅いのだ。

 アルバイトから帰宅して、和子は携帯を握りしめた。警察署の番号は調べてある。不審者についての相談口があることも確認済みだ。時間を見る。午後八時。まだ相談口は開いている。
 けれど、和子にはどうしても通話ボタンを押すことができなかったのである。
 やはり、大仰すぎる気がする。もう少し様子を見た方がいいのかもしれない。しかし、奈津実の言うことももっともだ。逡巡しているうちに、午後九時を過ぎ、十時を過ぎ、ついに和子は諦めた。

 ――もしかしたら、今日は来ないかもしれないし。

 そんな希望めいたことも脳裏に過ぎった。

 ――もし、来たら、どんな人か先に見ておいた方がいいし。

 半ば自分に言い聞かせるようにして、和子は布団に潜り込んだ。明日は日曜だ。バイトもない。もし今日も来たら、きちんとドアスコープで確認して、それから警察に相談しよう……。
 そして、午前一時十一分。
 鳴り響く音で、和子はぽっかりと目を開けた。微睡みかけていた意識が急速に覚醒する。

 ――来た。

 心臓が一気に鼓動を早める。

 ――見るだけだから。

 和子はそっと身を起こした。明かりはつけない。ドア向こうの人に、起きている事を悟られたくなかった。

 ベッドから降りた。
 床板が軋む。
 インターホンの、チャイムが。もう一度、大きく、間延びして部屋に木霊する。
 息を潜めて、和子は玄関へと向かった。
 三和土に降りる。
 素足の下で、砂がざらりと、鳴いた。
 ドア向こうに、人の気配――居る。
 冷たい鉄の扉に。
 両手を置いて。
 和子は。
 息を詰め。
 そっと。
 ドアスコープに。
 右目を。

 叫ばなかったのではない。
 叫べなかったのだ。 

 初めは、廊下の照明のせいだと思った。やけに眩しい。目を射るような輝きである。その光の束を、黒の手袋が握りしめているのである。
 それが何であるか、理解した途端、和子は全身を貫かれたかのような衝撃を受けた。
 あれは。あの光は……ナイフだ。照明に照らされて、銀色に輝いている。
 チャイムが、鳴った。
 和子は大きく喘いだ。

 ――も、戻って。
 ――警察……。

 震えるからだを叱咤して、一歩後ずさり――和子は目を疑った。

 ――嘘。

 鍵が、開いている。
 確かに閉めたはずだ。閉めたと思っていた。それとも、今日に限って忘れたというのか。
 体の底から這い上がるような恐怖が、和子の体の自由を奪う。

 ――閉めなきゃ。
 ――閉め、て。
 ――それで。

 がちゃり、と、音がした。
 妙にゆっくりと回るドアノブを、和子はただ見つめることしかできなかった。
 じりじりと開いていく。
 四角く切り取られた光の中に、そのシルエットだけが浮かび上がった。
 男だ。黒い服を着ていて、顔は見えない。逆光で影になっているのだ。
 男は一歩、三和土に足を踏み入れた。
 和子はただその様子を、じっと見ていた。
 男が腕を振り上げる。
 光が和子の視界を奪う。

 ――夢。

 綺麗な曲線を描き。

 ――これは夢。

 刃が。

 ――きっと……

 胸を貫くような痛みに、和子は気を失った。

***

 妙に体が痛い。ぎしぎしと鳴るようである。和子は慎重に起きあがって周りを見回した。
 玄関だ。その三和土に倒れ込むようにして、和子は眠っていたのである。
どうやら朝のようだ。カーテンの隙間から零れた陽光が、頼りない光で三和土に影を落としている。
 何故、自分はこんなところで眠っているのだろう。そこまで考えて、和子は目を見開いた。
 刺されたのだ。
 胸を貫かれた。それで気を失って――。
 恐る恐る、自分の胸に手を当てた。痛みは消えている。ドアも閉じたままであるし、しっかりキーチェーンも下ろしてある。

 ――夢?

 でも、それならば何故、自分は玄関にいるのであろうか。
 とにかく立ち上がろうとして、三和土に手をつき、ぎくりとした。手が塗れている。目を近づけてよく見ると、黒ずんだ色である。鉄臭い。
 これは、血ではなかろうか。
 和子は慌てて立ち上がった。三和土一面に広がるようにして、大きな血だまりが出来ている。どこも痛くない。自分はどこも怪我をしていない。では、この血は――。
 絶句している和子の目の前で、赤黒い色が、まるで色を吸い上げるかのように薄れていき、そして――消えてしまったのである。

 引っ越したいと不動産会社に告げると、やけにあっさりと承諾された。
 両親は苦い顔であったが、何とか説き伏せ、和子は別の部屋に引っ越すことになった。
 これでもう大丈夫だ。和子は胸を撫で下ろす。
 自分が見たものが何だったのか、和子には分からなかった。それでも、もうあの部屋で暮すことは考えられなかったのである。
 新しい部屋は、三階建てマンションの二階。一番奥の角部屋で、窓は南向き。六畳のフローリングと、申し訳程度のキッチン、ユニットバス。前と同じような作りだが、そこは気にしないようにする。
 無事に引っ越しも終わり、和子はうん、と伸びをした。随分と遅くまで荷物の整理をしていたのである。そろそろ寝ようかと、ちらりと携帯を見ると、午前一時を少しばかり過ぎている。
 和子はベッドに入り、電気を消した。ゆるゆると眠りに落ちていく。

 その耳に、届いたのである。
 あの、音が。

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