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かしづく、手【奇談】

 その手は、公園に生えていた。
 赤ん坊の手のようだった。ふっくらとした指の先はほんのりと赤く、米粒のような爪は斜陽に照らされて、ぴかぴかと光っていた。

 うすら寒い春先の出来事である。

 まだ冬の気配を濃厚に感じる、吹き下ろすような風が、彼のトレンチコートの裾を巻き上げていった。
 河野は、目を細める。
 夕焼けの赤が眩しい。この時間に帰宅するのは久しぶりである。
 家路を急ぐ、という感覚は、彼には分らなかった。もう四十近い年齢であるが、妻も、子どもも、彼にはいない。家に帰っても、待っているのは部屋に敷かれた煎餅布団と、ちゃぶ台の上にちょこんと乗っているカップラーメンのみである。働き盛りの、仕事に追われている身だが、こうやって早くに帰宅する日があると、どことなく心もとない気分になるものだ。

 目の前を、親子連れがゆっくりと散歩していた。よちよち歩きの子どもはしきりに母親に話しかけ、それを受けた親はまなじりを下げて、子を抱き上げ、手を、握った。
 明るい笑い声が、赤く染まった空に響いている。

 河野は自嘲の笑みを浮かべた。

 寒いのは、ビル風のせいだ。いや、夕焼けがいけない。長く伸びる影のように、自分の思いが引き延ばされてしまう。

 その赤に足を取られたのであろう。何となく、帰り難かった。それで、久しぶりに寄り道をしようと思い立ったのである。

 コンビニで肉まんを買ってぶらぶらと歩き、駅にほど近い住宅街の、公園のベンチに腰掛ける。人っ子一人いない公園は、寒風に身を縮ませるようであった。
 袋から肉まんを取り出し、まだほの温かいそれに齧り付こうとしたその時だ。

 その手に、気がついたのは。
 
 ベンチの目の前のブランコ、その下の土から生えている。

 誘われるように近づいた。

 玩具だろうか。だれか子どもが、埋めたまま忘れて帰ってしまったのかもしれない。

 思わず手を伸ばした。河野の指先が、その赤ん坊のような手に触れた瞬間、きゅう、と握られた。温かかった。
 まるきり人間の、赤子の手であった。

 不思議と恐怖は感じなかった。ただ胸を締め付けられるような、甘やかな感情が、彼の心を支配していた。

 感情に従うように、反対の手に持っていた肉まんを、そっと手の前に置く。

 ――もう、大丈夫だからな。

 風が吹いた。もう、寒くはなかった。

 ***

「河野さん、今日、調子いいね」
「そうですか?」
「うん、なんか、生き生きしてる」
 吉高は同僚の女性だった。綺麗に巻かれた髪の毛がデスクの上で揺れている。
 河野は少し眉を寄せた。
 見上げると、彼女はにっこりと微笑んだ。唇に引かれたグロスが、少々派手気味に赤く色づいている。
 河野は彼女が苦手であった。どうにも女を前面に押し出しているその姿が、何となく癇に障るのである。
「はい、これ」
 差し出された栄養ドリンクを、やや呆気に取られて見下ろした。綺麗に伸ばされ、手入れされた爪が、ぴかぴかと光っている。
「頑張って」
 はにかむように笑って、踵を返す彼女の背中で、栗色の髪の毛が揺れていた。
「おい、やるなあ」
 前のデスクで書類とにらめっこをしていたはずの、崎原がひょいと顔を上げた。
「何がだよ」
「吉高さん。あれ、お前に気があるな」
 潜められた声に、河野は眉を顰めた。それを見咎めたのか、崎原は大きくため息をつく。
「おい」
「――なんだよ」
「ちょっとは嬉しそうな顔しろよ」
 嬉しそうな顔、と言われても困ってしまう。押し黙った河野にため息をつき、崎原は笑った。
「シケた面してんなあ。……行くか?」
 崎原は指を輪の形にし、自らの口の前でくっと曲げた。その様子に、河野は顔を緩ませる。何だかんだ言っているが、つまりこの男は。
「飲みたいだけだろ、お前」
「最近ご無沙汰なんだ。付き合えよ」
 是非もなかった。

 会社近くの赤提灯でカウンターに並び、おでんに舌鼓を打つ。以前はよく来ていたが、崎原が所帯を持ち、子どもが生まれてからは足が遠のいていた。ようやく落ち着けるようになった、そういうことなのだろう。
 崎原は、幸せそうであった。
「子どもはいいぞ。手なんかこんなにちいちゃくてな。スーパーボールくらいの大きさしかないんだ。それなのに、ちゃんと爪が生えててなぁ」
 スマートフォンのロック画面を、崎原は自慢げに見せびらかした。
 画面の中の赤ん坊は、はち切れんばかりに笑っていた。まるまるとした指はいかにも柔らかそうで、産着の先をぎゅうと握り締めている。
「夜泣きはひどいし、病気やらなんやらで手がかかる。でもそれが、可愛いんだ」

 あの公園の手を思い出した。
 ふっくりとした、体温の高い赤子の手。きゅうとこちらの指を握り締めてきた。

「お前も、早くいい人見つけろよ」
 肩をばん、と叩かれる。
 何となく指先が寒くなって、河野は御猪口をそっと握った。じんわりとした酒の温かさが、指腹に沁みるようであった。

 しこたま飲まされ店の前で別れると、ビル風がごうと吹く。春とはいえ、まだ少し寒い。トレンチコートの襟を合わせるようにして、河野は駅へ向かう。

 手。
 ふっくらとした子どもの。
 指を握られた感触が、たまらなく懐かしい。

 覚えず、公園への道を歩んでいた。
 夜の二十三時である。駅前ならいざ知らず、住宅街には夜の帳が降りきっているようであった。
 街灯の、頼りないオレンジの光に照らされた公園は、前と変わらず、そこに佇んでいた。
 ブランコの前ににょっきりと生えた手も、そのままである。
 思わず駆け寄り、膝をついた。

 よかった。見間違いじゃ、なかった。

「――ん?」

 違和感を覚え、じっくりと見た。ふっくらとした指も、小さく生えそろっている爪も、そのままだ。しかし。
 成長、している。
 前は赤子の手のようであった。今は、それよりももう少しだけ、大きくなっているような気がするのだ。
 河野は、破顔した。
 それはまさに天啓のようであった。河野の脳裏に稲妻のように走った一つの確信。

 ――子どもだ。これは、俺の。

 ポケットに入っていた栄養ドリンクを取り出す。それを手のひらに振りかけて、彼は笑った。これで、明日にはもっと成長しているに違いない。
「大きくなるんだぞ」
 そっと手のひらを撫でると、きゅうと掴まれる。
 ――温かい。
 人のぬくもりというのは、こんなにも心安らぐものであったのだ。


 その次の夜である。

 そそくさと公園に出向いた河野を出迎えたのは、だらりと垂れた手であった。駆け寄り、跪く。手は、力なく地面に投げ出されていた。恐る恐る手を伸ばすと、弱弱しい力で握り返してくる。
 病気に、なったのだろうか。
「まいったな……」
 とりあえず、と、ミネラルウォーターを手の前に置き、河野は踵を返した。この時間なら、駅前の本屋もぎりぎりやっているだろう。下調べが足りない。子育ての本を買わなくては……。

 ***

「たしかに、子どもというものは、手がかかる」
 そう言うと、崎原は書類から顔を上げ、怪訝な表情をした。
「子ども?」
「ああ。カフェインって駄目だったんだな。俺、知らなくてさ」
 そう、あの時はそれで失敗したのだ。栄養ドリンクには概ねカフェインが入っている。それも知らずに与えてしまったのだから、具合も悪くなるだろう。
「おい、どうしたんだ、急に」
「いや……育てる、というのはいいものだな。その分責任も重いが、うん、悪くない」
「ま、まさかお前」
 目をむいた崎原を先回りするように、河野は手を振った。
「違うぞ。デキ婚とか、そういうんじゃないんだ」
 答えながら、彼は笑う。あのふっくらとした子どもの手を思うと、自然と頬が緩むというものだ。

 あれから毎日、退勤後に、公園に通うようにしている。なるべく柔らかな、消化のいい食べ物を選び、働き蟻よろしくせっせと運ぶ毎日だ。もちろん産地も気を付けるようになった。可愛い我が子に食べさせるのだと考えたら、安売りの品物など怖くて手を出せない。

 最近はすっかり手も育ち、スーパーボールから、野球ボールくらいの大きさになった。女の子の手のようだった。つやつやとした爪の形も良い。手のひらは柔らかいまま、握るとすかさず握り返してくる。

 食べているところも見せてくれるようになったのも、大きな進歩だ。

 その小さな細い指で器用に食べ物を引きちぎり、地中へと引き込んで、しばらくしてまたにょきりと手を伸ばす。その仕草を見るだけで、日頃の疲れなど吹き飛んでしまう。

 視線に気が付き、目を瞬かせると、崎原がじとりとこちらを見ていた。

「なんだ」
「おい……大丈夫か?」
「なにが」
「お前、ちょっとおかしいぞ」
「はっ」
 河野は嘲笑する。
 ――なにが、おかしい。
 自分の子どもを育てることは、いたって普通のことである。それのどこがいけないと言うのだ。
 崎原が何か言いた気に口を開き、そのまま噤むのを、河野はどこか他人事のように見下ろしていた。

 ***

 桜の咲き誇る夜であった。

 河野は公園への道を急いでいた。今日は我が子と出会ってひと月の記念日である。
 手の成長は、目を見張るものがあった。あんなに小さかったのに、今やすっかりレディの手だ。すらりと細い指、ぴかぴかの爪、少しだけ低い体温。最近はおしゃれにも興味が出てきたようで、河野が与えたティーン雑誌をひたすらに繰っている。
 記念日なのだ。たまにはプレゼントしてもいいだろう。
 駅に隣接した百貨店で、店員と相談しつつ購入したマニキュアは、頭上に咲く桜と同じ色であった。あの指には、濃い色のマニキュアは似合わない。この花びらのような、淡い色がいい。

 桜が笑いかけている公園は、時が止まったかのようであった。こぼれるような花びらに埋もれるようにして、手はそろりと生えている。
「よしよし」
 風に揺られて、ブランコが鳴っている。その軋む音に合わせて、踊りを踊るように、五指がゆらゆらと揺らめいていた。
「いい子にしてたか」
 答えるように、指が嬉しそうに地を叩いた。
 河野はそっと手の前に跪くと、鞄の中から薄桃色の小箱を取り出した。「欲しがってただろ」
 嬉しそうにくるりと動く手を見つめながら、彼は小箱からマニキュアを取り出す。五指が波打つように動く。早く欲しいと駄々をこねているようであった。

 河野はそっと手を取った。

 膝を折り、ふっくらとした指を押し抱くようにして、彼はその爪ひとつひとつに手ずから色を乗せていく。揮発性のマニキュアの香りが、蠱惑的に鼻腔をくすぐった。

 全ての爪に色を乗せ終わると、手は嬉しそうにゆらゆらと揺れた。白魚のような手に、桜の花が咲いている。

 どきりとした。

 まだ早いと思っていたが、どうだ。こうしてみると、もうすっかり大人の女性である。

 うっとりと見入っていた時であった。

「河野さん」
 声が、かかった。
 振り返った視線の先に、吉高が、いた。
「ごめん、偶然見かけて。一緒に帰れたらって」
 吉高は、視線を河野の前に落とした。
「何、やってるの?」
「ああ」
 我ながら、気のない返事であった。舌打ちを辛うじてこらえて、河野は立ち上がる。愛娘との甘やかなひと時を邪魔されたような気がして、無性に腹が立った。
「今日は記念日だから」
 そう告げると、吉高は訝し気に眉を寄せた。
「待って、河野さん。……記念日って?」
「今日は子どもの――」
 言いかけて、河野は、目を見開いた。

 先ほどまでそこにあった、手が。愛しい娘が。
 いない。
 どこにも。
 地中に潜ったのか。恥ずかしがり屋だから、気分を害したのかもしれない。
 河野は膝をつき、土をそっと撫でる。
「ああ」
 風が吹いた。桜が、声をあげて嘲笑っている。
「河野さん、大丈夫?」
 吉高が駆け寄った。肩に手がかかる。すらりと細く、ふっくらとした、指先がほの赤いその指――。

「……なんだ」

 桜色に色づいた爪が、街灯に照らされてぴかぴかと光っている。

 なんだ、こんなところにあったのか。

「河野さん……?」
 顔を赤らめる吉高など、河野の視界には入らない。握り締めた手のひらは、春に浮かされたように少し温かかい。
「――まったく、手がかかってしょうがない」
 早く、元の場所に戻してやらねば。

 河野は、朗らかに笑った。

 

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