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【日常系ライトノベル #10】24卓から眺める桜の木

お店の外には幾つかの桜の木がある。ちょうど桜が咲く時期には、店内から満開の桜を見て、食事をしたいというお客様の来店が多い。
 
特に街灯の当たる角度で光の影を創り出し、風情ある桜の見える24卓は人気のテーブルだ。

「本来ならば、母が直接お伺いしてお礼を伝えるべきところを…。本日は私の方からお礼を申し上げるかたちでお許しください。先日は、うちの母が喉につまらせてしまいまして、その節は大変お世話になりました。これはつまらないものですが、どうぞ皆さんで召し上がってください。」

そう言うとクッキーが入っていそうな菓子箱を差し出された。

「あ、いえいえ。大したこと出来ずに申し訳ありません。でも命に別状がなくて本当に良かったです。せっかくなので頂きます。」

ちょうど1週間前のお昼時のことだった。

この日のランチタイムはいつものようにギリギリのスタッフ数でお店を運営していた。だいたい13時過ぎくらいでピークがおさまったこともあり、大きなトラブルも無くスタッフの休憩まわしが出来そうだった。

飲食店のピークというのは、いわば戦場と同じである。一瞬の気の緩みがオペレーションを乱し、その乱れによって最悪はお店がまわらなくなる、いわゆるドハマり状態になることは、お店にとって「死」を意味している。

店長にとって、ピークを無事に乗り切るというのは、戦場から無事に帰還するのと同じくらい嬉しいことでもある。

スタッフの休憩まわしか、ピーク後の2番チェック(トイレチェックのこと)のどちらを先にするか迷ったが、店外の桜の木から落ちた花びらを見て2番チェックにすることを決めた。

「田中さん、2番チェックに行ってきます。2番チェックが終わったらスタッフの休憩をまわそうと思います。少しだけルームのオペレーションをお願いしますね。」
そういうと、2番チェックに向かった。

まずは男子トイレに入る。使用している様子もないので、いつものように「清掃中」の札をドアノブにかけると鏡面の拭き上げ、小便器、大便器、電球のチェック、ペーパータオル、トイレットペーパー、手洗い用の液体洗剤の補充を終えた。その後、女子トイレへ向かった。

「コンコン」

返事がない。使用されていないようだ。

「ギーーーー」

トイレのドアをそおっと半分ほど開けながら中を覗き込む。人の気配がないのを確認して、残りの半分を思いっきり開けた。

「うわあっ」

思わず声を出してしまった。
そこには眠っているかのように顔が半分うなだれて座っているおばあちゃんの姿がある。

(寝てしまっているのか?)
(いや、そんなことはない。)

心臓の音がこんなにも大きく聞こえてくるのが信じられないくらい動揺している。

「バクバクバクバク・・・」
(落ち着け、落ち着け、冷静に…)

「あ、あのう、大丈夫ですか?」
「・・・(沈黙)」

「すいません、大丈夫ですか?」

そう言っておばあちゃんの体を大きく揺らすが全く反応がない。
少しだけ落ち着きを取り戻すと、目の前で何が起こっているのか、ある程度理解することが出来た。

“このおばあちゃんを救わないといけない”、
今はこれが最優先だ。

とにかくルームにいる田中さんに状況を伝えることだと思い、普段は走らないルームを駆け足で田中さんのもとへ。

「田中さん、今さ、トイレでおばあちゃんが倒れていて意識がないみたい。とにかくこっちで対応するから、ルームをまわしてくれるかな?そういう対応をしていることを厨房のスタッフにも伝えてもらっていいかな?」

「えっ、おばあちゃんは大丈夫ですか?わかりました」

「おばあちゃんのお連れ様、それらしきお客様がいないかをルームを見て回ってもらえるかな。もしいたら、今の事情を説明してくれるかな?」

「はい、わかりました」

トイレまで戻る途中、頭の中が真っ白になりそうな気持ちがどっと押し寄せてくる。
(何がベストな対応なのか、ベストではなくても最悪の事態にならなければいい、それって何なのだ…。)

再びおばあちゃんの姿を見るが、先ほどと何も変わっていない。
残念な気持ちで携帯電話を持つと119番コールをした。電話はすぐにつながった。

「あっ、もしもし」

「落ち着いてください。緊急ですか?消防ですか?」

「あ、はい。緊急です。」

「場所はどちらになりますか?」

「はい、出雲市下伊津328のサンフード出雲店になります」

「出雲市にあるサンフード出雲店ですね。どういう状況ですか?」

「トイレで70歳前後と思われるおばあちゃんが便器の上で意識を失っています。」

「呼吸はされていますか?脈はありますか?」

「すみません、そこまではわからないです。確認します。」

(そうだよな、呼吸や脈を調べなきゃだよな。俺って何やってんだよ…)

うなだれた顔を見上げるように頭を入れ込んで口元に耳を近づける。
呼吸している音は…ない。手の平を口元にかざしてみても息が当たる感覚も…、ない。

(呼吸してないよ。やばいよ、やばい。)

次は脈だ。
おばあちゃんの右手をつかむと、手首のところに親指を当てる全く脈の振動を感じることが出来ない。

(呼吸もない。脈もない。死んでいるの?それだけは嫌だよ。どうしよう、どうしよう。)

落ち着いているはずの気持ちが段々と焦りに変わる。
時間が止まって欲しいのか、どこからかお助けマンが来てくれないか、普段は考えもしないようなことが頭の中を浮かんでは消え、消えては浮かび、疲労感を体全体で感じているのが耐えれない。

「もしもし、呼吸はしていないようです。脈も感じないです。よくわからないです。」

「わかりました。いまそちらに救急車が向かっていますので、落ち着いてください。」

電話を切った後、吐き気が襲ってくる。今の状況をとにかくスタッフに共有しないといけないという強い思いがある。
ただそれは気持ちではなく、不思議な見えない糸に引かれているような感覚で操り人形のようなだった。

「田中さん、おばあちゃんは呼吸もしていないし、脈もなかった。とりあえず119番して救急車が来てくれるから、それを待とう。」

「店長、そのおばあちゃんのお連れ様らしき人はいなかったです。ただ、42卓には伝票が残っていて誰も座っていなかったです。」

「そっか、きっとそのテーブルのお客様だね。何を食べられたのだろう。とりあえず、おばあちゃんのところで救急車を待つので、引き続きルームをよろしく頼むよ。」

「はい、わかりました。店長、スーパーバイザーには連絡しておきましょうか?」

「あ、そうだね。スーパーバイザーへの電話報告は厨房のスタッフにお願いして、田中さんはルームを見るようにしてね。伝える内容は簡潔に“お客様がトイレで意識を失ってあり、店長が対応していて、いま救急車が店に向かっています。意識を失った原因はわかっていません”、でいいよ。」

「わかりました。折り返しの連絡は店長の携帯でいいですか?」

「そうだね、それでよろしく。」

救急車のサイレンがお店に近づいてくるのが分かった。

入口玄関のドアが“バン”と開くと、担架を持った数人の隊員がざわざわとした感じで入ってくるのが見えた。

「店長さんですか?電話をした方ですか?」

「はい、女子トイレはこっちになります。」

担架の上におばあちゃんが横たわって運ばれていくのが見えた。
救急車のサイレンが遠ざかっていく。

ホッとした同時に背中にあった重たいものが軽くなった気がした。
(とにかく助かった。良かった。)

レジスターの時刻は13時30分を表示している。
20分くらいの出来事であったが、物凄く時間が経っているような気がした。


「ありがとうございます。伝票をお預かりいたします。」

「あなたが店長さん?」

「はい、そうです。」

「何かあったみたいね。」

「お客様がトイレで意識を失ってまして…」

「そうだったの。そういう時はね、まずは“お客様の中にお医者さんはいませんか?”って大きな声で言うべきよ。これからはそういう対応が出来るようになってね。」

「は、はい。ありがとうございます。以後、気をつけます。スタッフも対応できるように教育しておきます。」

お会計に来たお客様が優しさでくれた言葉は的確だった。
その通りに出来なかった申し訳なさで気持ちがどんよりとしてしまった。

緊急時の対応は普段からシミレーションしておかないといけない。
そうしないと実際にこういう状況に遭遇したとき、頭が真っ白になってうまく対応できないことを体験できた。

まずは周りの人に大きな声で「お医者さんがいなか聞く」ことが大切ということだ。

(それから2週間後)

いつものようにランチタイムのピークを無事に終え、24卓の最終バッシング(片づけ)のときに窓の外の桜の木へ目をやった。

いつもなら窓の外に目をやる余裕なんてないはずなのに…。

桜の花は完全に散っていて、まるで役目を終えた蛍のようなシルエットに見えた。

あのおばあちゃんが自殺をしたことを翌朝の新聞で知ったのだった。

【終わり】

ありがとうございます。気持ちだけを頂いておきます。