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「触れる」ことの意義

この記事はは2024年1月31にインスタグラムに投稿した文章の転載です。

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池袋を中心に活動する『TENOHASHI』というホームレスの方々を支援する団体があって、何度か炊き出しのボランティアに参加したことがあるんです。
お昼から野菜を切ったりご飯を炊いたりして、お味噌汁やおにぎりを作る。それを夕方にサンシャインシティ近くの公園に持っていって、路上生活を余儀なくされている方にお配りする。

炊き出し班は大きく3隊に分かれていて、食事を配る人、心理的または法律的な相談を受けるカウンセラー、そしてマッサージ班。

いるんですよ、マッサージ班。
そりゃ道路に薄い段ボールだけを敷いて寝ているわけだから身体の節々が痛む。でもそういうことじゃなくて、マッサージを受けた人は言うんです。

「人に触れられたことが本当に久しぶりだ」ってね。

食事を配るのだって同じで、日々の食事にありつけるかどうかというギリギリの生活をしているわけだから、飢えているのは間違いない。でもそれ以上に、人の手を伝って食べ物を“手渡される”。そこに大きな意味がある。

「この世で最も重い病は“孤独”である」
というようなことを言ったのは、たしかマザー・テレサであったと記憶しているけど、孤独の定義と範囲は人それぞれで、大勢の人の中にいたって孤独を感じるという人はたくさんいるし、多くの人と関わってきたはずなのに、人に“触れる”という経験を何十年もしていないという人もいる。

マッサージを受けたいと思う契機って、人に触れられたいとか、そんなところからでいいと思うんですよね。
効能だって大事だし、治るか治らないかが重要だっていうのはそれはそう。
でも手と手から、顔と顔から、肌と肌から伝わることってやっぱり特別で、「関わる、接する」と「触れる」の間には大きな違いがある。

痛いところや不調なんてどこにもないから、なんて言われると、いやいや現代社会を生きていてどこにも不調がないなんてことないでしょう、って言いたくなっちゃうのが心情だけど、重要なのはそこじゃない。不調がなくたってマッサージは受けたい。それもいいと思うんです。

この世で最も重い病が孤独なら、孤独でなくなること、それ自体が大きな癒やしだし、べつにマッサージでなくてもいいかもしれないけど、人に“触れる”ということの敷居が、もっともっと低くなればいいな、と思います。

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