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子育てのアンガーマネジメントについて得た学びと、実践しての気づきを書いてみる。

今日もまた、子どもたちがご飯を食べながらふざけて、スプーンから口に運ばれはずだったご飯が、宙を舞って床に着地する。

「あァアあ゛・・もぉおオオォ!!!」

言葉にならない感情が、言葉にならないまま発散される。上の子はふざけ続けていて、ご飯が床にぶち撒かれたことにさえ気づいていない。

ゲラゲラ笑っている下の子のお茶碗に目を向けると、またもご飯が水浸しになっている・・・。

どうしたら、つい怒ってしまわずに子育てができるのか――。

子育てをして4年、主夫になって四六時中子育てをするようになって半年強が経ち、日々直面する悩みが、育児におけるアンガーマネジメントだ。

子育て自体も大変だけど、それと同じくらい自分の感情をどう処理するかに日々苦心している。

だけど最近、すごい本に出合ってしまった。それがこの本だ。

著者の村中直人さんとは、過去に仕事でご一緒させていただいたことがあり、新著を出されたことを知って読んでみたら、まさに自分が必要としていた本だった。

読んで感じたことを咀嚼するために、また実践しながらの気づきを以下にまとめてみる。

「子どもを叱ること」の何が悪いのか

実は、「叱る」にはそんなに大した効果はありません。少なくとも、「叱る」による人の学びや成長を促進する効果は、世間一般に考えられているほどではないのです。(中略)それどころか、効果よりもはるかに大きな弊害が生じていることが、さまざまな研究により近年盛んに指摘されています。

Kindle版 20ページ

冒頭にあったこの文章を読んで、マジか、と思った。「叱るのも子育ての一環」という無知ゆえの思い込みが180度以上覆された。

「叱る」をできるだけ避けたほうがいい第一の理由も「倫理的、道徳的なものではない」という。

単純に効果がないからです。そして効果がないわりに、副作用としての弊害は大きいのです。

Kindle版 22ページ

この本では、「叱る」について「言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為」と定義している。

「説明する」「注意する」「言い聞かす」などではなく、「叱る」という言葉でしか表現できない行為の本質は、そこに攻撃性なニュアンスが含まれていることだ。

それは、受け手の側の子どもになんらかのネガティブな感情体験が生ずることを意味する。

そして、それこそが「人が叱る理由」でもある。

人は相手に変わってほしいからこそ恐怖や不安、苦痛、悲しみなどのネガティブな感情体験を利用し、変化を促そうとする。

だけど、実際にはそれで相手は変わらることはなく、むしろ副作用が大きい。

頻繁かつ長期間にわたって叱られる苦痛は、その一時だけでなく、その後の人生で長期的に失調を抱える原因にもなる。

場合によってはさまざまな心の病につながるなど、将来的にも悪影響を及ぼすことがある、と村中さんは指摘する。

これらは、心理学や行動科学リテラシーの研究者や支援者の中では反論する人はまずいないくらいの科学的な常識になっているという。

「叱ること」がやめられなくなる……?

「そうは言っても、子どもは叱らないと伝わらない、わからないことも多いのではないか?」

この本を読み進めながら、「なるほど」と思うと同時に、そんな気持ちも同居していた。

子育ては本当に大変だ。「ああ、今日もまた怒ってしまった」と反省する日も多い。

「叱るのはよくない」とわかりつつも、どうしても叱ってしまうことがある。

また叱れば子どもが一時的にでも従ってくれるからか、「やっぱり叱れば学んでくれるんだ」と思い込んでいた。

ところが、子どもが一時的にでも従ってくれるのは「単に恐怖や苦痛から逃れるためだけ」だという。

「叱るのは仕方ないこと」と盲目的に捉えてしまっていると、自分でも気づかないうちに叱ること自体がやめられてなくなっていく。

「叱る」にまつわる最大の問題は、「叱ることがやめられなくなること」だ。『<叱る依存>がとまらない』という書籍名にまでなっている。

叱るから一見飛躍しているように思えるDVや虐待も、実は叱るに依存することと同じ構造だと指摘されている。

それを読んで、以前仕事でDVの元加害者に取材したときのことを思い出した。

「最初は言葉だけだったのが手が出るようになってしまい、それからは暴力で何とかしようとすることをやめられなくなっていたんです」

話を聞いた彼は、DV加害者という字面からイメージされるような残忍さのかけらもない「ごくふつうの男性」で、取材にも終始親切に対応されていた。

叱る依存に陥ってしまう人も、DVや虐待に依存してしまう人も、多くは「ごくふつうの人」だ。

子育てをしていると「一歩間違えたら、虐待してしまうんじゃないか」といったリスクと誰でも隣り合わせになる。

もしかすると僕も叱る依存に近かったのかもしれない。というより、無自覚に叱ることが常態化していた。

それがこの本を読んで叱るにまつわる問題をある程度でも理解できたことで、少しずつ少しずつ、子どもを叱ることはなくなっていった。

だけれども、現実問題として、まったく叱らずに子育てをするのは不可能に近い。

だからこそ、叱ることにおける効果と限界を知ることがまずは必要だ。

「叱ること」における効果と限界

そもそも著者は「叱ること」を全面的に否定しているわけではない。「叱る」を効果的に使える場面が2つほど存在するという。

一つは「危機介入」だ。

してはいけないことや危険なことを速やかにやめてもらう上で、「叱る」ほど手軽で効果的な介入はない。そうした場合には「叱る」には効果があるという。

もう一つは「抑止」。

人は叱られると、その特定の行動とネガティブ感情が結びき、その行動をしなくなる傾向があるとされている。

そうであるがゆえに、叱ることによって苦痛を与える必要はない、とも言える。

抑止効果のメカニズムを用い、「何をどうすれば叱られるのか」を子どもに明確に理解してもらう。そうして「叱る」を抑止力として予防的に用いることが大事なのだという。

こうした「危機介入」と「抑止」において「叱る」は有効な方法である一方、あくまで対症療法でしかない。重要なのは、危険や問題となる状況がなくなった時点ですぐに「叱る」をやめることだ。

また、叱るのはネガティブ感情のメカニズムを利用した行為であって、人の学びを促進する効果がない。

そして、それこそがまさに「叱る」という行為の限界だ。

状況に合わせた適切な行動を学ぶのに「叱る」は役立たないと、この本は何度も強調する

そのメカニズムはこうだ。

子どもは叱られることでネガティブ感情が強く引き出される。苦痛や恐怖で意識が満たされると、その苦痛から逃れるための考えで頭がいっぱいになる。

ここで子どもが学習するのは、「本来はどのように振る舞い、どうすればよかったのか」ではなく、「叱られたときに、どうしたらよいのか」というその場しのぎの対処法だという。

「これ以上叱られたくない」と、都合の悪いことをごまかしたり隠したりするようになりやすくなり、適切な行動を学ぶことにはつながらない。

そして当然ながら、これは「叱る人」の意図とはまったく異なる。

「危機介入」と「抑止」において「叱る」は有効だけど、逆に言えばこの二つにあてはまらない場合は、「叱る」ことの意味はあまりないという。

「つい叱ってしまう」から脱却するには

じゃあ、「つい叱ってしまう」状態、また叱る依存に陥らないようにするには、どうすればいいのか。

〈叱る依存〉の予防に必要なのは、禁止の発想ではなく「徐々に手放していく」発想です。必死に「叱る」を禁止して、言いたいことを我慢してしまうようなやり方はあまりうまくいきません。「叱る」には、やめようと思えば思うほど止まらなくなる悪循環の傾向があるからです。だから「叱る」が自然に減っていくために何ができるかを考えることが必要です。もう少し具体的に言うと、成功イメージは「気がついたらあまり叱らなくなっていた」であって、「叱ることを我慢できるようになった」ではないのです。

Kindle版 136ページ

「叱る」が自然に減っていくためにできることの一つとして、本の中では、なるべく予測して、子どもに予告する癖をつけることが述べられている。

ついつい叱ってしまう子どもに、「何をしてはいけないのか」「どういうことを避けてほしいのか」など、叱られないためのポイントを事前に具体的に伝える。

「叱る」を抑止力として機能させるやり方だ。

そうして「そもそも叱る必要のない状態」を目指すことが、「叱る」を自然に減らしていくことでもあるという。

だけど、子育ては予想外のことの連続だ。子どもの行動は予測するのが難しいことも多い。

また事前に伝えても子どもを制御できなかったり、あるいはダメと伝えたことほど子どもはやりたくなってしまったりもする。

だから個人的な勝手な解釈としては、許容の範囲をいかに広げられるか、だなと思った。「何をしてはいけないのか」を考えるよりも、「子どもなんだからどうあってもいい」といかに思えるか。

それでも叱ってしまいそうになったときは、「それでも叱らないように」と自分を律してみる。

これはこの本の主張に少し反することだけど、「怒ってはいけない」ことをゲーム感覚として捉えて日々過ごしていたら、少しずつ怒らないようになっていっている。

まだまだ実践してみて日が浅いからかもだけど、それで一応はうまくいっている。そして何より「怒らない」ことで気持ちにゆとりができはじめている。

改めて「なぜ叱ってしまうのか」を考える

「叱る」が自然に減っていくためにできることとして、もう一つ深く肯首したのが以下の箇所だ。

程度の差こそあれ、「叱る人」は何がよいとされ、何が望ましいのか、相手に求める「あるべき姿」を決めています。そして「あるべき姿」と現実にズレが生じた際に、そのズレを正そうとして叱りたくなるのです。だから「叱る人」に求められるのは、その「あるべき姿」が本当に適切で妥当なものなのかを自省することです。「叱る」という行為は、どうしても叱られる人が悪いという発想になりやすい。だからこそ、自分が求めていることに本当に意味があるのかを考えることには、大きな価値があるのです。

Kindle版 140ページ

親が子どもに「こうあるべき」「こうしないといけない」という価値観を持っていたら、その分、親もつらくなる。

「価値観」というほどではないにしても、親は無自覚に子どもに願望を抱いてしまっていることも多い。

たとえば、うちであるあるな、食事中にふざけてご飯をこぼしてしまうことも、外でやたら靴を脱いで裸足で駆けずり回ることも、出発しないといけない時間なのにグズグズしていることも、よくよく考えてみると、僕が「こうしてほしい」と思ってしまっていることばかりだ。

そしてなぜそれで怒ってしまうのかを考えると、結局自分がやる事後処理(片付けや掃除、足を洗うなど)が増えるのが面倒くさかったり、時間を守れないことの後ろめたさからだった。

ただそれらは詰まるところ、自分の「余裕のなさ」でもある。そして余裕がないのは、大抵は時間や体力がないときだ。

早く出発しないけないと焦っていたり、睡眠不足などで自分が疲れていたいりするときに、子どもがイタズラやふざけて事が進まないと、ついつい怒ってしまっていた。

それも後から考えると、怒るほどではない小さいことばかりだったりする。だからやっぱり大事なのは、当たり前だけど「余裕」とか「ゆとり」だ。

前々から準備しておくとか、早く寝るとか、そんな単純なことでも多少なりとも余裕をつくることができつつある。

そうして思ったのは、ゆとりを持てたから叱らなくなったのもあるけど、叱らなくなってゆとりを持てたことも大きい、ということだった。

「どう手をかけるか」より「いかに手放すか」

叱ることが子どもに学びや成長を促進する効果がないのなら、逆にどうすることによって子どもは学ぶのか。

そもそも子どもが主体的に学ぶのには「自分で決めた」「自分がしている」という感覚が大事なのだという。

主体的に学んで欲しいなら、これは自分で決めたことだ、とその人が感じられることが大切です。難しく考える必要はありません。その人が「考えて、決める」ことを待って尊重するだけです。逆に言えば、周囲の人ができることは意図や意欲を「邪魔しない」ことだけです。もし、そこまで手放しで任せることに不安を感じるのなら、選択肢を提示してそこから選んでもらう形でもいいかもしれません。簡単な二択や三択であっても、考えて自分で決めたことか、誰かに決められたことかで主観的な体験はまったく違ってきます。

Kindle版 153ページ

これを読んで、叱る云々とは少し違うけど、子育ては「いかに手放すか」が大事なんだと感じた。

僕がそうだったように、親は何かと「手をかけること」に意識を向けがちだ。だけど「どう手放していくか」はもっと大事なのかもしれない。

本当に危なかったりしない限りは、意思を持って放置してみる。それもまた「叱る」を自然に減らしていくことにつながるんじゃないかなと。

主体的な体験を積み重ねていくこと、なんでも自分で決めて自分でやらせてみることで、自己肯定感なんかも上がってくるのかなという気がしている。

この本を読んで、子育てでは「どう手をかけるか」より「いかに手放すか」が親に問われているのだなと、気づくことができた。

このnoteは『<叱る依存>がとまらない』を読んで得た学びに、僕なりの解釈をたぶんに含みながら、実践しての気づきを書いてみた。

だから本の内容を網羅的かつ正確には反映していない。興味がある人はぜひ本を買って読んでもらえたら。

個人的な体験として、本に書かれていることを実践しているうちに「叱ること」は激減した。

それによって子育てが少しだけ楽になった気がする。

僕がこの本に救われたように、願わくば、子育てのアンガーマネジメントに悩むすべての子どもの親に、この本が届いたらなと思う。

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