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「多読」によって失われるもの

もともと本が好きだったこともあって、学生時代から人一倍読書をしてきたし、編集者になってからはたくさんの本を読むこと自体が仕事になった。

いま編集の仕事ができていることをはじめ、いわゆる「多読」をしてきて得られたものはたくさんある。

だけど同時に、「多読」によって失ってきたものもある。

読むのが遅いし、読んだことは忘れやすいから、少なくとも膨大な時間を失ってきた。でも、そういう話ではない。

もともと頭の出来が良いとは言えないのもあり、がむしゃらにたくさんの本を読んできたことに比例して、考える力を失ってきた気がしている。

「多読によって考える力を失う」という弊害は、『読書について』という本で、ショウペンハウエルという哲学者が指摘していることでもある。

ショウペンハウエルの主張はとてもシンプルで、主には以下のようなことを言っている。

読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく。

本を読んでいるとき、意識しない限りは「考える」という行為をすることはない。ただただ、他人の考えをなぞっているにすぎない。

漫然とした読書を繰り返すことで「考える力」が奪われ、そのうち何でもかんでも本に答えを求めてしまうような時期が自分にはあった。

とはいえ、読書そのものが悪というのではなく、「読み方」の問題が大きい。同時に、「多読」の是非も問い直す必要があるのかもしれない。

食べ物は食べることによってではなく、消化されることによって栄養になると言われる。

同じように、読書も読むことによってではなく、咀嚼することによって知識になる。

一つの本を丁寧に読み、読んだことについて「考える」時間を持ってみる。まずは、そんなことから始めたいなと思う。

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