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アフリカ|セネガル🇸🇳という、「助け合い」社会に生きる。

アフリカにあるセネガルで暮らす日本人と話していると、セネガルの良いところとして「助け合い」をあげる人が多い。

何のデータか忘れてしまったけど、アフリカ社会について日本人が語るとき、最も象徴的なことに「助け合い」があがっていたデータを見たこともある。

実際に、セネガルないしアフリカで生活をすれば、「助け合い」がいかに社会に深く根付いているかを実感する機会には事欠かないはずだ。そんな「助け合い」のある社会の前提には、人と人との「つながり」がある。そのことについては以前noteに書いた。

そして最近、セネガルに住む日本人と話していて、自分で言葉にしながら改めて気づいたことがある。それは、助け合いが根付く社会を語る上で着目すべきは、「助ける」ことよりも「助けてもらう」側の態度や姿勢ではないか、ということだ。

ここセネガルでは「困っていたら助けてもらって当然」くらいの感覚がある。助けられてお礼を言わないこともあるし、助けた側も当然の行為のごとく振る舞う。そこには「助けられる」とか「助ける」といった概念はたぶん存在していない。「助け合い」という表現が間違っているのかもしれない。

たとえば、バスで席を譲ったとき、重そうな荷物を運ぶのを手伝ったとき、子どもをあやしてもらったとき――。

そんな些細な「助け合い」に、「ありがとう」という言葉は存在しないことが多い。

その度合いにもよるけど、「ありがとう」と言う、そう感じる敷居は、日本人が想定するのよりはるかに高い。僕も最初の頃は、日本人の感覚からして「いや、そこはありがとうじゃないの!?」と思いたくなることがあったりもした。でも、セネガル社会はそうではないらしい。

この1ヶ月だけでも、小銭が足りなかったときに見知らぬ人が払ってくれたり、ちょっと知り合いくらいの人が車に乗せて送ってくたり、子どもが泣いていたら通りかかった人があやしてくれたりと、困ったら(困っていなくても)たいてい誰かが助けてくれる。

そんな些細な助け合いが日常的にあることが、セネガルが暮らしやすい、子育てがしやすいと感じられる理由だ。

翻って日本はどうか。「助け合い」という言葉を考える上で、ずっと記憶に残っている記事がある。

この記事には、国際比較の観点から見れば、平時において「日本人に強い助け合いの精神がある」とは言い難く、むしろ「困っている他者に冷淡な日本人」と言えるかもしれないとまで書かれている。

記事で紹介されているデータからは見えない側面もあるだろうし、この記事をもって一概に「日本には助け合いがない」と言えるわけではないだろうと思う。

ただこの記事で書かれた内容は、自分の実感とも一致する。とくに子育てという文脈において、困ったときの見知らぬ他人の振る舞いを思い出すと、そのことをより一層実感する。

「助けられる」という視点から考えても、他人が何かで助けれてくれたとき、日本ではそこに「申し訳なさ」が存在しているように思う。

他人から親切にされたとき、とっさに「すみません」と言ってしまうこと(僕自身もそうだし、そんな場面を何度も見かけたことがある)が、「申し訳なさ」の存在を象徴しているようにも感じる。

日本では社会保障の文脈で、「公助」「共助」「自助」という言葉が使われることがある。セネガルで生活してみると、社会保障という観点で日本の公助はかなり充実しているように見える。

以前に貧困問題はじめいろんな社会問題を取材していたから、日本の公助における機能の不全や不備、また実態としての問題点が多くあるのはそれなりに認識しているつもりだ。でも社会に実装されている公助そのものは、セネガルとは比較にならないほど充実している。

では、なぜそこまで充実しているのかといえば、その背景には共助が脆弱だからという側面もあるのかなと思う。あるいは、公助が充実したゆえに共助がより脆弱化したのかもしれない。

ところが、公助が充実しているからにもかかわらず、日本には大きな問題がある。それは、「日本人は『公助』による人助けについても、他国に比べれば冷淡な態度をとる人が多い」という先の記事中の指摘のとおりで、それが公助の機能不全・不備、実態問題を引き起こしている。

記事の著者は、日本では「共助」は弱くても「公助」を充実すればそれでよいという考え方が広がりづらいこと、また「共助」も「公助」も控えめでよく、失業や貧困などで困っている人は自分の力でなんとかすべきだといった「自助」と自己責任を強調するのが、日本人の特徴だと主張する。

とはいえ、自分の周りの個々人を思い浮かべても、日本人がたとえばセネガル人と比べて冷淡だとは思わない。「自助」や自己責任を強調する人もそんなにいない。むしろ親切な人が多いと思う。

だけど、記事の著者の以下の主張には、たしかにそうかもしれない、と感じてしまう「何か」があるような気がする。

確かに日本人は、家族・友人・同僚という「内輪」には優しい(=甘えと身内びいきを許す)のかもしれない。しかし、「内輪」の範囲を超えた他者に対しては、結構冷たいのである。国際比較の観点からは、そんな日本人の意外な姿が浮かび上がってくる。

「共助」か「公助」かは択一的なものではないけども、国によってどちらかが重視されるのが実態だという。それは国民性や社会のあり方が背景にあるのだろうし、どちらも一長一短はある。

ただ自分が生活する上では、公助の充実度合いにかかわらず、共助の充実はやはりあってほしいと思う。子育てをしていると、とりわけそのことを強く思う。

僕自身が実感しているセネガル社会の助け合いは、日常の些細なものが多いけど、共助として機能しているセネガル社会の助け合いは、セーフティネットにもなっている。

他のアフリカ諸国同様、貧困問題が蔓延し、失業率も高く、公助が脆弱で社会保障もほとんど機能していないのに、経済的な困窮などで人が亡くなるケースが少ないのは「助け合い」によるところが大きい。

僕はセネガルに来て生活するまで、社会の成り立ちについて認識も理解もほとんどできていなかった。

でも、政治も経済も宗教観も歴史的経緯も、そして社会の成り立ちも全く異なる国に住んでみて、その構造(というより底通している価値観かもしれない)の差異やその是非について、少しずつ気づいたり考えたりする機会が増えてきた。

そして、それはとてつもなく興味深いことのように思える。これからも誰かと話したり、そしてこうして書いたりしながら、ゆっくりと少しずつ考えを広げたり深めたりできたらなと思う。

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