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アフリカで感じる「子育ての心地よさ」の正体は、「つながり」だと気づかせてくれた本。

「ほら、ほら、どんどん食べな」

たぶん、そんなようなことを言っていた。近くでパンの露店を営んでいるおばあさんが、物乞いをしていた子どもたちに、その日に余ったらしきパンをあげていた。

現地語だから何と言っているかわからない。子どもたちはとくにお礼を言うこともなく、その場に座って無表情でパンをほうばっている。

そんな光景が、西アフリカに位置するセネガルには当たり前のように存在する。そのおばあさんが特別やさしいとか、そういうわけではない。やさしさというより、つながりとしてあるものだ。

食べられない子どもや大人に何かを分け与えること、何かに困ったら躊躇なく周囲に頼ること。それらはセネガルという社会に深く根ざしている「助け合い」の一つだ。

そうした光景に日々触れているからか、セネガル社会はいいな、と思うことが多い。

1年半前からセネガルで子育てをしていて、僕自身もさまざまなつながりを日々感じている。ただすれ違った人、なんとなくの顔見知りとも、何気ない言葉を交わす。毎日顔を合わせる人は、子ども様子の違いや変化にも気づいてくれる。

セネガルの公用語であるフランス語があまりできずにコミュニケーションに難を抱える僕ですら、日々多様なつながりを感じることができている。

東京で暮らしていた頃、会社員をしながらも、それなりに子育てをしていたつもりだった。でも、休日の公園でママ友の輪に入って行けず、パパ友と呼べる存在もほぼいなかった。地域の人との関わり合いもあまりなかった。

僕自身がつながりをそこまで必要としていなかったこともある。だけど、それはたまたまその数年、つながりを必要とせずに済んでいただけだったんだなと今は思う。

セネガルで暮らしてからは、主夫になったことも大きいけど、つながりがいかに大事かを認識するようになった。

今はもうママ友やパパ友なしに子育てできないし、地域の人たちが子どもにとてもやさしくしてくれるからストレスを抱えることも少ない。仮に何かあったとき、「助けて」言える人たちが何人もできた。積極的に「つながろう」としている自分自身の変化にも驚く。

いろんなつながりのおかげで、これ以上ないくらい心地よく子育てができている。そんなセネガルでの子育てがどれだけ心地よいかは、他のセネガル在住日本人にも取材して以下のnoteにまとめた。

このnoteでは、セネガルと日本の子育て社会の違いについて、取材した話を交えながら、自分が感じたことを書いた。そして最近また改めて子育て社会のあり方を考えさせられ、感銘を受けた本に出合った。

『つながり続ける こども食堂』という本だ。

この本を読んで、セネガルでの子育ての心地よさの正体は「つながり」だったんだと、改めて気づかされた。

本を読むまで、こども食堂の存在を知ってはいても、それほど関心を持ってはいなかった。でも読んでみると、セネガルの子育て社会と、こども食堂の存在が、どこか通ずるものがあるような感覚を覚えた。

こども食堂は、地域づくり、社会づくりの一環だという。じゃあどんな地域、そして社会をつくるのかと言えば、その目指す先にはここセネガルのような社会があるんじゃないか、とも思う。

それが何かと言えば、やはりつながりに事欠かない社会。つながりは、日本にも以前はあったけど、現代は希薄化している。こども食堂はそれを取り戻す営みでもある。一方、セネガルには人同士のつながりが強くある。

日本とはそもそもの社会のあり方、その前提や背景にあるものも違うから、一概な比較はできない。ただ違いとその比較から、考えさせられることは多い。たとえば、子どもに対する認識や接し方は、その違いを象徴している。

日本、とくに僕が暮らしていた東京では「子どもは親が育てるもの」という認識が強いと感じていた。他人の子はあくまで他人。よほど仲良くない限りは必要以上の関わり合いはないし、関わろうともしない。

見知らぬ人が子どもに優しくしたり怒ったりすれば不審がられ、話しかけるだけでも怪訝な顔をされることもある。そんな空気が、社会の無縁化を加速させ、同時に子育てにおける自己責任論をも強くしてきたように思う。

一方、セネガルでは、「子どもは社会で育てるもの」という認識が強くある。自分の子どもだろうが他人の子どもだろうが、やさしくするし、怒りもする。子どもが何かをしでかしたら親に言うのが日本なら、セネガルでは子どもに直接言う。

そんな「ふつう」が違うからか、子どもも親も周囲を頼るのは当たり前。日本で感じたような子育てにおける自己責任論もないに等しい。日本で言われる無縁社会とは対極な社会がここにはある。

そうした距離感を近すぎるとか遠すぎると感じるのは、人によってさまざまだ。でも、もし何かあったとき、やっぱり平時からつながりのある社会は強い。

子どもが、親や親族以外の人と日常的に話す機会があること。大人も、何かあったときに周囲に頼れること、「助けて」と言えること。その前提にある「つながり」を、日本では今、こども食堂という場が生んでいるのか――。

『つながり続ける こども食堂』は、そんな希望を感じる一冊だった。

つい最近、日本に一時帰国していることもあって、こども食堂に子どもを連れて行ってみた。そこは本に書かれていたとおりのあったかい場所で、子どもたちもとても楽しそうにしていた。

そのことを知り合いに話したら、「え、こども食堂って貧困家庭が行くところなんじゃないの?」と言われた。僕自身も、この本を読むまで、なんとなくそう認識していた。

でも本では「こども食堂は、しばしば『食べられない子が行くところ』と言われるが、そのイメージは誤解を招きやすい、ミスリーディングなものだ」と、明確に否定している。

埼玉県の「子ども食堂」実態調査によれば、 8割のこども食堂が対象となる子どもを限定していない。どんな子が行ってもいいのだ。逆に言えば、 2割は対象を限定している。つまり「食べられない子が行く」こども食堂はゼロではない。ただし少数派だ。しかし世間は、その少数派が「こども食堂の全体」だと思ってしまっている。それは「多世代交流拠点としてのこども食堂」を見えなくする。実際にはそのように運営されているこども食堂のほうが多いのに。

『つながり続ける こども食堂』を読んで、僕は「こども食堂」に対する認識が一変しただけでなく、日本という閉塞感の強い社会に希望を見出せたような気がする。

だから願わくば、こども食堂に行ったことがないとか、そもそも関心がなかったとか、子育てに悩む親、子どもと関わりがなくても日本のあらゆる人に、この本が届いたらなと思う。

最後に、この本で最も好きな箇所を、少し長いけど抜粋してみる。本では「こども食堂は貧困問題におけるイノベーションだ」と書かれている。まさにそうだと思う所以が、この箇所にあるんじゃないかと思う。

「森の玉里子ども食堂」に行ったとき、私が食事したテーブルに、小学2年生の男の子がいた。ひとりだった。今日初めて来たと言う。聞けば、母親に「行っといで」と言われたらしい。「どういう『行っといで』だったんだろう」と私の頭の中はぐるぐるするが、小学2年生に根掘り葉掘り聞くわけにもいかない。とりあえず園田さんに話すにとどめた。片付け時にその子のことを聞いたら、園田さんは「おにぎりを10個くらい持ってってもらいました」と言う。「余っちゃってもったいないから、持ってってくれるとうれしい」と伝えた、と。これなんだよな ~と思った。母親が「行っといで」と言った背景はわからない。楽しそうな場所だからと思ったのかもしれないし、食事をつくるのが面倒だったからかもしれない。その日たまたまそうだったのかもしれないし、この子は毎日そんな感じで接せられているのかもしれない。食に事欠く家庭かもしれない。わからない。わからないからといってスルーするのではない。いきなり家に電話をかけるのでもない。その代わり、おにぎりを持たせる。たくさん。余っちゃったから持ち帰ってくれるとうれしい、と言って。誰の負担にもならないように。でもその子の先にいる家族に「気にかけてますよ」というメッセージを届ける。さりげなく。「貧困対策」というよりは「気遣い」と言ったほうが似つかわしいような行為だ。しかしそれこそが本当に必要とされる貧困対策とも言える。こども食堂は、このような「おせっかい、気遣いという形での貧困対策」が行われている場でもある。

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