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カルロス・ゴーンもネタに・・・若者にもウケる歌舞伎のエンタメ性

先日久しぶりに実家に帰った時、母親が「もしも興味があれば」と歌舞伎のチケットをくれた。これまで見たことはなく、長くて退屈そうなので正直あまり関心がなかったが、スポーツを仕事にしている身としては日本最古のエンターテインメントである(?)歌舞伎を見ておくことは教養として無駄ではないかなと思い、ノロノロとそのチケットを受け取った。

舞台は半蔵門にある国立劇場。由緒正しくもお祭りを思わせる賑やかな面構えで、ちょっと「映え」る感じがする。

いよいよ開演。今回鑑賞したのは「名高大岡越前裁」。ストーリーはググって欲しいが、現代風に説明すると、平凡なサラリーマンの阿部サダヲが、偶然自分と生年月日が同じだった前総理大臣の息子(故人)になりますましてコネで議員になり、そこで出会った遠藤憲一(キレ者だが大臣の親と絶縁状態)や荒川良々(スケべな僧侶)らと画策して大臣になろうとするが、最後は敏腕デカである舘ひろしに逮捕される、みたいな感じ。犯人が最初から明かされた中で謎解きが進む構成は刑事コロンボや古畑任三郎のそれと同じだ。

さて、なぜスマホ世代である自分が日本の伝統芸能である歌舞伎を見ておもしろいと感じたのか。結論を先に書くと、歌舞伎のエンターテインメント性は、「見る」側と「演じる」側の壁が破れる心地よさにあるのだと思う。

たとえば小道具。物語の序盤で、死んだネズミが天井から落ちてくるシーンでは、いかにもトイザらスで売っていますといわんばかりの、ふわふわの可愛いぬいぐるみだったりして(↓こういうやつ)、時代劇風の重々しい雰囲気に滑稽なスパイスとなって笑いを誘う。

ある場面転換の際には、わざわざ幕を開けた後で、舞台袖の黒子が円柱状にぐるぐる巻きになったムシロを、上手から下手へとシャーーーっと器用に投げ転がしてレッドカーペットのように広げ、客席からは歓声と拍手が起きた。

舞台の構造もそうだ。人物の登場や退場に使われる「花道」は、舞台の下手から客席を貫くようにまっすぐ伸びており、物理的にも見る側と演じる側の境界線が曖昧になる。役者がそこを通るときはひとつの見せ場であり、わざとらしいまでにゆっくりと歩くので、客は役者の表情や衣装に目を凝らすことができる。

また、常連のお客さんの中にはお目当の役者がいる人もあって、各シーンの始まりでその役者が登場したときなどには、客席から舞台へ向かって「高嶋屋!」「中村屋!」と、彼らの屋号で呼びかけたりすることがしばしばある。また長いセリフを一息で言い切るなどの見せ場のシーンでは仮に悪役であっても拍手が沸き起こったり、役者もそれを心得ていて、次のセリフをいうのをわざと遅らせたりと、その光景はさながら音楽ライブのコールアンドレスポンスだ。

極め付けは、主人公らが他人を装って城の関門をすり抜けようとしたときに見張り番から検査を受けるこんな場面だ。

見張り「おい、そこのもの、名前を申せ!」
主人公の仲間「へい、あっしはゴン太と申しやす」
見張り「聞きなれぬ名前だな・・・このあたりでゴン、といえば、ゴン之助けとかゴン九郎とか、それかニッサンゴーンくらいしか聞いたことがないぞ」

クソワロタ。人物の取り締まりを行う場面で、昨今の逮捕劇で世間を賑わすカルロス・ゴーンを引き合いに出すとは、なんというブラックジョーク。

このように、歌舞伎では「見る」側と「演じる」側をわける境界線が度々破られ、インタラクティブなコミュニケーションが発生する。こうしたことを演劇用語では「第四の壁を破る」と呼び、僕の好きなハウス・オブ・カードなどでも使われている手法だが、歌舞伎ではそうした昨今の作品と比べても、より立体的にその仕掛けが施されているように感じる。ストーリーやオチ自体は最初からわかっているにもかかわらず、いやそれゆえに一層その魅力は深まるのだと思う。

クラシックを聴きに行ったり、美術館に行ったりという「ちょっと良い日」の選択肢にいかがでしょう?半年に一回くらい来たいな。

そういえばカルロス・ゴーンって歌舞伎の隈取に似てるかもね。


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