6042.【アテネ旅行記】Go Toキャンペーンに見る国家のシャドー

時刻は午前4時を迎えた。昨日アテネに到着し、今日からアテネ滞在の2日目が始まり、本格的に観光をするのは本日からである。

今、アテネ時間で4時ということは、フローニンゲン時間で3時ということになる。一応昨夜からアテネ時間に合わせて、いつもと同じように午後10時前に就寝をした。

一度3時前に目が覚め、そこから再度睡眠を取ろうと思ったのだが、うまく寝付くことができなかった。というのも、あるテーマについて突如として考え出す自分がいたからである。

アテネ旅行の前日に、協働者の方の後援で対談講演会をさせていただいた。そのときに協働者の方が、「加藤さんはご存知ないかもしれませんが、日本ではGo Toキャンペーンについて今問題になっているんですよ」と述べた。

そのキャンペーンについては名前だけ耳にしたことがあったので、その内容について簡単に聞き、その場においてはそのような問題があるのかと思った程度だった。それがなぜか、つい数時間前にベッドの上でその問題について考えている自分がいた。

協働者の方からGo Toキャンペーンについて説明を受けたのは数十秒ほどであり、そこから何か自分で調べたわけでは決してないのだが、「またしても国はそうした問題解決策を打つことにしたのか」という言葉が自ずから漏れた。

そのキャンペーンは国内の観光需要を喚起させることが目的とのことだったが、その根幹には経済を刺激し、経済を立て直すという目的があるように思える。確かに、今回のコロナで国として経済的な打撃を受けたことは間違いないだろうし、現代国家の運営上、経済は重要な要素なのだが、1つの問題は「経済だけが国の運営で重要だ」という発想に陥っていないかということである。

これは集合規模でのシャドーなのかもしれない。国の運営上、経済というのは重要な要素の1つなのだが、決してそれだけが重要なのではない。

先日の対談講演会でも話題に挙がった「真善美」の観点で言えば、経済というのも当然ながら真善美の観点で考えていくべきものなのだが、それを真の領域だけを通じて、しかもそれがいまだ合理性段階の発想を通じて扱われている点にも大きな問題意識を持つ。

そこから考えていたのは、確かに経済が本当に危機的な状況になっていて、それに対して緊急の措置を施す必要がある場合には、経済だけに焦点を絞って手を打つことは自然であり、むしろそれが喫緊の課題であればあるほどに、それをする必要がある。例えば、目の前で火事が起こっているのであれば、一刻も早く家事を消すことが先決である。

しかしながら問題は、火事を消して終わりにするのではなく、そもそも火事がいかなる発想と行動から生み出されたのかを改めて検証することが重要なのではないだろうか。今回のコロナの件で言えば、コロナが要因になって経済が打撃を受けたという構図が見えるが、重要なことは単なる要因分析ではない。

「そもそも経済一辺倒の発想で運営していた国家のあり方がおかしかったのではないか?」というような、大前提を問うような考え方が重要だと思うのだが、そうした考え方はGo Toキャンペーンの背後にあったのだろうか?

「コロナによって観光需要が打撃を受けました。だから観光需要を増加させるための打ち手を打ちました」だけで発想が終わってしまっているのであれば、「ニキビができました。だからクレアラシルを塗りました」程度の次元の発想なのではないかと思う。学習理論の観点で言えば、こうした発想はシングルループラーニングの問題解決姿勢だと言えるだろう。

そこでは目の前に起こった現象にしか着目せず、その現象に対して打ち手を打つことはするものの、そもそもその現象がいかなる複合的な要因で生じたのかに対する考察はほとんどなされず、また打ち手の背景にある自身の発想の枠組みや前提を問うようなあり方はない。

複雑な要因を分析していく前者の姿勢も当然ながら重要なのだが、とりわけ後者が重要であり、それができるかどうかがダブルループラーニングの鍵を握る。協働者の方の説明を聞いている限りだと、今回のGo Toキャンペーンというのは、シングルループラーニングの発想で生み出された施策のようにしか思えなかった。

そこからさらに考えていたことは、おそらくこうした問題解決の姿勢というのは、何も今回のコロナの件だけで見られたものではなく、国家規模で以前から慢性的に見られていたものなのではないかということである。さらには、上記で述べたように、依然として金銭にばかり着目してしまう発想のあり方が個人や社会全体に見られ、それは個人と社会の双方の根深いシャドーなのではないかということについても考えていた。

おそらく、この根深いシャドーに個人と社会の双方が光を当てていかなければ、個人も社会も何も変わらないのではないかと思う。とりわけ、社会の変容において、社会のシャドーを浮き彫りにし、社会全体としてそれに真摯に向き合っていくことが不可欠なのだが、依然としてシャドーは隠蔽されたままである。

この点に対する具体的な関与の方法について模索を続けている自分がいる。今少しばかりその道が見えて来ており、その道を歩むことが1つ自分に課せられた重要な役割なのだろう。アテネ:2020/7/24(金)04:48

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