見出し画像

【サイケデリック学探究記】11911-11918:2024年1月20日(土)

⭐️成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスを扱っている「インテグラル·サイケデリックラジオ」の配信をしています。
⭐️サイケデリクスについて多角的に学びを深める「オンライン加藤ゼミナール」を毎週土曜日に開講しております。

*記事のSNSでの共有・引用はご自由に行っていただけると幸いです。

タイトル一覧

11911. 今朝方の夢

11912. 今朝方の夢の続き

11913. イギリスへの密やかな思い

11914. 竜樹の『中論』を読みながら

11915. サイケデリクスに関する情報発信の在り方を見つめ直して

11916. B.K.S.アイアンガー氏が解説をした“Light on the yoga sutras of Patanjali”を読みながら

11917. 瞑想実践の効能を実感して

11918. 『ヨーガ・スートラ』の美しさに触れて

11911. 今朝方の夢

時刻は午前4時半を迎えた。今の気温は1度で、今日は3度まで気温が上がる。氷点下の世界から脱出し、ここから1週間は比較的暖かい日が続く。そのおかげできっと外の世界の雪は溶けていくだろう。明日は気温が高くなおかつ雨なので、明日にはもう雪は溶けてしまうのではないかと思う。

今朝方はいくつか断片的な夢を見ていた。それらについて早速振り返りをしておきたい。

夢の中で私は、小中高時代の親友(SI)が執筆した小論文を添削し、彼に助言を与えていた。私は小論文を書くのが比較的得意で、それを活かして親友の彼の役に少しでも立てればと思って協力していた。彼が執筆した小論文は全体的には良い感じであったが、段落構成を含めて改善の余地があり、それらについて伝えた。すると、最初こそ私の助言に真剣に耳を傾けていた彼が突然機嫌が悪くなり、どうしたものかと思った。改善箇所をあまりにも指摘し過ぎただろうか、あるいは何か言い方がまずかっただろうかと考えた。しかしどちらも当てはまらなさそうだったので、彼に機嫌が悪い理由を尋ねようと思ったがそれもまた火に油を注ぐようなものかもしれないと思ったので黙っておくことにした。そのような場面があった。

この場面を受けて、今度は自分の中で何か2つのものを頭の中で比較して考察する場面があった。確か考察内容は物質と非物質についてだったと思う。この考察内容は、脳と意識の関係性について考える上でも重要で、特に書籍や論文などの文献を参照することなく、純粋に自分の頭の中だけで考え事をしていた。そのときに、日々の瞑想実践が極めて役に立っていると感じた。日々の瞑想実践が間違いなく思考運動を行うための集中力を高めていたし、何よりも瞑想中に時折知覚する内的ビジョンが思考操作の精度を高めているように思えたのである。このように、日々の瞑想実践は思索活動においても非常に有効であることを思い、ゆえにかつての偉大な宗教思想家たちは何かしらの瞑想実践を行っていたのだと思った。

もう1つ覚えているのは、見慣れない外国の街の広い公園のような場所で、今は亡き愛犬と遊んでいた場面である。トイプードルの小さい愛犬が元気一杯に公園内を走り回っている姿は微笑ましく、私も一緒に走り回ることにした。すると、愛犬はそれを喜んでくれ、さらに元気一杯で走り始めた。するとどこからか、2匹の小型犬が走ってきて、愛犬に近づいてきた。特に危害を加える様子はなかったが、愛犬を攻撃してこようとするような雰囲気があったので、私は2匹の犬を追い払おうとした。ところが2匹の犬はなかなか粘り強く、引き続き隙があれば愛犬を襲おうとしていた。そこからは愛犬を抱えて走って逃げることにし、なんとか襲われずにその場を離れることができた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/20(土)04:59

11912. 今朝方の夢の続き   

時刻は午前5時を迎えた。辺りは依然として静寂さに包まれている。というよりも、現在のこの一軒家は通りから離れた場所にあり、隣接する家は全くないので常に静かだと言える。こうした住環境を与えてもらっていることには深く感謝である。こうした静けさのおかげで自分の日々の探究活動が成り立っているのである。今後どのような国に住むことになったとしても、できるだけ静かで落ち着いた場所に居を構えたいと思う。

先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ少し続きがあることを思い出した。覚えている内容は少ないかもしれないが、それについても振り返っておきたい。夢の振り返りの重要性については様々なものがあるが、サイケデリック実践と絡めて言えば、サイケデリック体験中に過去見た夢が思い出されることがあり、それは大抵きちんと振り返りとして夢日記を執筆していたもので、サイケデリック体験中に蘇ってきたその夢がまた新たな気づきや啓示をもたらしてくれることがある。さらには、サイケデリック体験をより深めるきっかけに過去の夢が役割を果たすこともある。そして夢について振り返れば振り返るだけ、夢の意識世界が充実し、夢の意識世界の充実がサイケデリック体験を下支えしていることにも夢日記の執筆の恩恵を感じる。最後にもう1つ挙げるとするならば、夢日記の執筆がサイケデリックセッションで得られた体験事項を咀嚼することに間接的・直接的につながったり、体験後において地に足を着けていくことにもつながるという恩恵がある。そうした諸々の意味からもサイケデリック実践を大切にする自分としては夢日記の振り返りは欠かせない。

そのようなことを考えたところで、夢の続きについても振り返っておくと、夢の中で私は見慣れない外国の街にいた。その街の住宅街とビジネス街のちょうど境目のような場所を歩いていた。すると、背後にある大きな建物からスナイパーが自分を狙っているような気配がした。そのスナイパーは腕利きのようだということもなんとなしに気配から感じ取った。なので尚更自分の身を守る必要があると思い、スナイパーに打たれないように近くにある障害物になりそうな場所に隠れながら移動していった。しばらくそのようにして背中を見せないように移動していると、スナイパーが私を狙う気配が消えた。そのときに、スナイパーが相手を狙うその気配こそがサトルエネルギー的なものであって、それはどうやら空間的制限を受けるのかもしれないと思った。おそらくさらに微細なコーザルエネルギーになってくるとまさに素粒子のように時空間に制限を受けず、まるで瞬間移動するかのような振る舞いを見せると思うが、気配のようなものはある程度の空間までしか範囲がないのだろう思った。もちろん腕利きのスナイパーになればなるほどその射程は伸びるのかもしれないし、相手にそれを感じさせなくなるのかもしれない。幸いにも自分はエネルギーを感知する力が高いこともあって、今回はスナイパーが発するエネルギーとしての気配をうまく感じながら身を守ることができた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/20(土)05:16

11913. イギリスへの密やかな思い

今し方良い香りに包まれながらモーニングコーヒーを淹れた。今日もここから読書に励む。4時間後にゼミナールの第63回のクラスがあり、それまでの時間を読書に打ち込みたいと思う。昨日嬉しいことに、早速インド哲学関係の書籍が3冊届いた。居ても立ってもいられなくなったので、早速昨日よりケンブリッジ大学出版から出版されたインド哲学の入門書の“An introduction to Indian philosophy”を読み始め、今日はその続きから取り掛かる。こうして第一線級の学術書に日々触れていると、出版社ごとに強みがあることが自然とわかってくる。欧米の大学におけるインド哲学の最大の研究機関はおそらくオックスフォード大学で、オックスフォード大学出版からインド哲学に関する優れた書籍が何冊も出ている。一方、上記のケンブリッジ大学出版の書籍はその出版社の特性とは珍しく、オックスフォード大学出版との比較で書籍を読むとまた色々な気づきがある。歴史的に、ケンブリッジ大学はオックスフォード大学に対抗する形でインド研究センターを設立した背景があり、その影響を受けて数は少ないがインド哲学関係の書籍も出版しているのだろう。

これまで欧米のいくつかの大学に所属して研究をしてきたが、やはりオックスフォード大学は他の大学とは格が違う印象で、それは教育の進め方や研究者育成の姿勢に現れている。学部生に施されるチューター制はとても有名なものだが、大学院生も基本的には論文アドバイザーと週に1度ミーティングが行われ、そこで学術研究の手ほどきを受ける。アドバイザーのとの週1回のミーティングは他の大学でも行われているだろうが、とにかくオックスフォード大学の教育・研究水準は他の大学とは一線を画していることがウェブサイトなどの説明からもわかるし、関係者からの話を聞いていてもわかる。これまでイギリスには何度か旅行や学会発表程度しか訪れたことがなく、そこで生活をすることについては今のところ縁がなかった。しかし、インド哲学の研究と意識哲学の研究への目覚めを受けて、いつかオックスフォード大学で研究生活を送ってみたいという思いが沸々と湧き上がってきている。言語の都合上、英語がネイティブの国は自分にとって安心感があり、生活もしやすく適応が速やかなこともあり、イギリスといつか縁が生まれ、イギリスで生活をしてみたいという密やかな思いが芽生えている。オックスフォード大学のインド哲学研究センターや意識哲学研究センターに所属できるような力を今からしっかりと身につけていきたいと思う。今日のここからの読書はそれに向けた鍛錬でもある。フローニンゲン:2024/1/20(土)06:30

11914. 竜樹の『中論』を読みながら     

こうして日々インド哲学の各種経典を読み進めていると、西洋哲学におけるテキストとの興味深い類似に気づく。例えば今読み進めている竜樹(ナーガールジュナ)の“Nagarjuna's Middle Way: The Mulamadhyamakakarika”を読むと、その形式がどこかスピノザの『エチカ』やウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を彷彿させる形式になっていることに気づく。もちろんインド哲学のテキストの中には、そして西洋哲学のテキストの中には長い文書を綴っていく形式のものがあり、西洋哲学の場合においてはむしろそちらの形式が一般的かと思うが、上記の書籍は簡潔に命題を提示し、それに対しての考察を簡潔に示している。そうした共通事項に興味深さを感じながら、“Simple is the best”という標語を思い出す。簡潔さの中に重要な叡智が詰まっているという感触を得ながら引き続きテキストに向かっていきたい。

上記の竜樹の『中論』の中で、因果の根元を1つに特定することはできないことが説かれている。因果関係は縁によって起こり、縁は多様な存在の複雑な関係性によって生じているものだから、因果の根元を1つに辿っていくことの不可能性には納得ができる。しかし、サイケデリック体験の中で、ある出来事にまつわる因果の最重要な根元に触れるような体験をすることがあり、その現象を竜樹の思想から紐解いていくとどのようなことが言えるのかは引き続き考えていきたい。また、早朝に読み進めていたインド哲学の入門書の中で、因果関係の存在をもってそれをリアルとする考えを持つ思想があることを知り、仮にその思想と竜樹の縁起思想を絡めると、ある因果関係を持つある特定の存在は因果関係ゆえにリアルなものとして立ち現れるが、その根幹の因果を1つに特定することはできないゆえに、その存在を支えている基盤が実に複雑で多様なものに立脚していることが見えてくる。私たちの存在は複雑で多様な縁によって支えられ成り立っているということ。私たちの存在は確かに仮の空的存在かもしれないが、同時に縁によって刹那刹那においてリアルとして存在しているということ。そうした意味が汲み取れてくる。次回のシロシビン・セッションでは縁についても何か考察を深めたいと思う。また、インド哲学の中にある豊かな主題に着想を得て、自分なりに考察を深めたいものをいくつか列挙する形で次回のセッションに臨もう。フローニンゲン:2024/1/20(土)07:43

11915. サイケデリクスに関する情報発信の在り方を見つめ直して   

昨日のサイケデリクスに関するメディアの方々とのミーティングを少しばかり振り返っていた。今後そちらのメディアで出演させてもらい、何か情報発信をする際には、情報や知識というものが、そして考察というものが絶えずリビングシステムであることを事前に伝えておいた方が良いかと思った。それは免責事項としても重要な事柄のように思えるし、視聴者の皆さんが自分なりにサイケデリクスについて調査をし、考察を深めていく上でも重要かと思った。端的には、その瞬間の自分が発言する内容は常に部分情報に基づくものであり、完全情報ではなく、正確無比なものではあり得ない点に注意が必要である。それを認識しない形で自分が述べたことを絶対視することを避けてもらう必要があるように思った。また、自分の発言の中の引用情報や知識に関しても自らの誤解に基づく形で数値の誤りや年号の誤り、人物の誤りなども混入している可能性がある。そうした誤りに気づいた都度訂正をしていくという誠実な態度を持ちたいと思っている。またそもそもサイケデリクス業界は現在サイケデリック・ルネサンスの隆盛を受けて、科学的な研究を通じてどんどんと新しい発見事項が生まれているし、法規制も目まぐるしく変化している。さらには、企業の取り組みも活発で、新たな製品やサービスがどんどんとローンチされていくという非常にダイナミックな状況にある。そうした性質を鑑みたときに、その瞬間の自分の発言で引用された事実がすぐに古いものとなり、新たな知識にアップデートされていくことは往々にしてあるだろう。それに加えて、自らがサイケデリック学者として自分のサイケデリック実践を通じて日々考察を深めていく中で、考察というものもまたリビングシステムとして刻一刻と発達の歩みを進めているので、考察そのものもまたどんどんとアップデートされているという点についても事前に伝えておきたいと思う。こうした事柄とインド哲学を絡めると、自分の情報発信は常に仮の空的な存在なのだということを強調しておきたい。提供する事実情報と考察が仮の存在で、移ろいゆくものであることはきちんと伝えておきたいと思う。そうすることによって、自らもまた絶えず新たな知識や情報に開かれ、新たな考察が展開していくである。怖いのは知識も情報も考察も形骸化して固着してしまうことである。リアリティは絶えず変化し、自らの存在も絶えず変化し、サイケデリクスを取り巻く環境もまた絶えず変化しているのだ。とにかくそうしたダイナミックな変化を感じ取ってもらえるような情報発信を心掛け、視聴者の方々が自ら調査し、新たな知識や情報と出会い、自らの考察を深めることを通じて良き人生を送ってもらえるようにしたいと思う。フローニンゲン:2024/1/20(土)08:18

11916. B.K.S.アイアンガー氏が解説をした“Light on the yoga sutras of Patanjali”を読みながら 

インド哲学の各種経典の叡智の広さと深さに驚いてばかりである。旧約聖書や新約聖書と絡めてサイケデリック体験を紐解くような形式のいくつかのサイケデリクス関係の学術書が存在しており、それはキリスト教徒やユダヤ教徒のサイケデリック体験を導く役割を果たし、各人の信奉する宗教の理解を深めることにつながっているように思える。今の自分はインド哲学という非常に多岐にわたる学派を持つ思想体系に取り組んでいるが、日本人に馴染みのある仏教を1つサイケデリック体験を深めていく際の基盤にするのであれば、それに貢献するような仕事をしたいものである。そうした仕事をいつか形として残したいという思いを持ちながら、仏教の経典に書かれている記述を参考にして自らのサイケデリク体験を紐解くことを絶えず行っていこうと思う。そして実際には仏教に限定されず、東西の意識哲学を広く深く修めていく過程の中で、絶えずそれらの思想と自らの直接体験であるサイケデリック体験を紐付けていこうと思う。そうすることによって初めて東西の意識哲学の研究とサイケデリック実践が切り分けられることなく1つの全体としての生態系として進化していくであろう。

今、自らのヨガの伝統であるアイアンガーヨガの創始者のB.K.S.アイアンガー氏が解説をした“Light on the yoga sutras of Patanjali”を読み進めている。パタンジャリが編纂した『ヨーガ・スートラ』はヨーガ探究とその実践においてはバイブルであり、この書籍から意識について、そしてリアリティについて愛ばされることは多いであろう。すでに、“citta”という言葉からもう学びを得ている。その言葉は“consciousness”に対応し、意識を指すのだが、意識の構成要素として、マインド、知性、自我を挙げている。それを見たときに、やはり自分がこれまで研究してきた発達心理学における意識の発達というのは、意識そのものではなく、意識を構成する要素の構造的発達を捉えていたのだということが見えてくる。アイアンガー氏が執筆した本書はヨーガの実践者だけではなく、意識研究者においても重要なテキストであり、意識研究に関する洞察が詰まっている。ここから本書の初読を進めていく中で、1つでも新しい気づきと発見を得て、考察を深めていくことにつなげていきたい。自分がヨーガ学派を含めたインド哲学に敬意を払っているのは、それが単なる哲学的な営みをしているのではなく、身体実践と瞑想実践の双方を含んだ形で人間存在とリアリティの探究をしている点である。今のところ、インド哲学ほどにインテグラルな思想実践体系を見ない。フローニンゲン:2024/1/20(土)08:53

11917. 瞑想実践の効能を実感して

今日は、明日から少し暖かくなることを本当に有り難いと思うような気温が続いている。午前中から正午にかけてのゼミナールのクラスを終えて昼食を摂り、仮眠を取ってから散歩がてら買い物に出かけた。書籍の受け取りを兼ねて外出したところ、今日はまだ道に雪が残っていて、スウェードの靴だと滑りそうになってしまう瞬間が何度かった。冬用のブーツは特に持っていないが、底がツルツルとしたものではなく比較的しっかりしたものなら自宅にあるのでそれを履いていけばよかったと思うぐらいの雪の残り具合いであった。今年はあと何回雪が降るのかわからないが、次回雪が積もることがあって外出をする際には靴を間違えないようにしたいと思う。

今日もまた数冊ほどインド哲学関係の書籍を受け取った。今読み進めているパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』の解説書の初読を読み終えたら、本日受け取った書籍の初読を早速始めたい。以前にサイケデリクス関係の学術書を一気呵成に読み進めていったことと同じことをインド哲学に対しても行う。ただし今回は、イギリスの三大学術出版かそれに匹敵するレベルの学術書を出版している出版社の書籍しか購入しないようにしており、研究レベルの高いものだけを読み進めていくことは今後も継続したい。とりわけインド哲学に関しては、どの出版社から出ているのかを注意深く見て、その書籍の学術的なレベルを吟味した上で購入し、厳選した書籍を通じた文献読解をしていく。学術論文を執筆する際に引用できないものを読むことは単なる趣味や楽しみ程度ならいいが、研究目的で論文を執筆することを念頭に置く場合には、最初から引用に足るレベルの学術書を読むことが重要かと思う。

買い物と書籍の受け取りから帰ってくると、少し休憩がてら瞑想をした。ここ最近は本当に瞑想の効能を改めて実感しており、この数年瞑想を離れていたことが実に惜しいことをしたと思うほどである。だが、この数年間瞑想から離れていたことにより、改めて瞑想をすることによってその本質的な意義と効能を理解したとも言えるので、この数年間の瞑想離れの期間は不可欠だったのかもしれない。こうして改めて瞑想実践の意義を学術研究上における集中力の持続やシロシビン・セッションの体験の深まりに見るにつけ、瞑想実践もまたサイケデリック実践と同じくそれ単体で理解と実践技術を深めていきたいと思う。毎回の瞑想体験がどのようなものであったのかをここで書き留めることをしなかったとしても、絶えず観察と試行錯誤をして、瞑想実践のさらなる深まりを希求したい。そしてそれを通じて涵養された自らの在り方を日々の生活の中により具現化させていきたいと思う。フローニンゲン:2024/1/20(土)15:24

11918. 『ヨーガ・スートラ』の美しさに触れて

午後に買い物がてら散歩をしている最中に、かつてヨガのインストラクターの資格取得に向けて勉強しているときに、そこでヨーガ・スートラを扱い、サンスクリット語にも触れていたが、その時の自分はさほどそのテキストやサンスクリット語の学習には力を入れていなかったことを思い出した。もちろん資格取得に向けてそれらの学習はある程度したのだが、内から湧き上がるような探究意欲に基づいて行われたものでは決してなく、あの時の自分の学習姿勢は外発動機によるものだったと思った次第である。もちろんその時の自分の関心や意識の器の問題と相まって、それはそれでしかなかったことなのだと思う。興味深いのはそこから12年経って再びヨーガ・スートラと出会い、サンスクリット語の学習に意欲的な自分が今ここにいることである。

B.K.S.アイアンガー氏がパタンジャリが編纂したと言われる『ヨーガ・スートラ』に対して解説をした“Light on the yoga sutras of Patanjali”は本当に見事な書籍である。アイアンガー氏のヨーガの実践から獲得された深い洞察を基にした解説は本当に秀逸である。そしてそもそも驚くのが、パタンジャリのこの『ヨーガ・スートラ』の1節1節がまるで詩のような簡潔さと深みを持っていることである。中には詩よりも俳句に近いぐらいの短いものもある。それぐらいのヨーガの思想の本質を突く見事な短文が196ほど収められた本書を引き続き味わっている。パタンジャリの教えとアイアンガー氏の解説が盛り込まれた本書はこれから何度も読み返していくことになるだろう。ウィルバーもインド哲学の用語やサンスクリット語を随所に自らの書籍で引用しているように、インテグラル理論に馴染みのある方であれば、とかくヨーガに関心がなかったとしても深い学びが得られるのではないかと思う。実際のところ、ヨーガの真髄がわかってくると、この世に誰1人としてヨーガに無縁な人はいないし、それぞれが何かしらの形のヨーガを実践していることに気づくだろう。さらには、ヨーガの教えを学ぶことを通じて、今の自分の悩みや苦しみから少しでも解放されるであろうことは多くの人に是非とも知ってもらいたいことである。再び真剣にヨーガの実践と学習をし、ヨギーの意識を持って日々の生活を送ることを通じて、ヨーガの世界に対しても何かしらの貢献をしていきたいと思う次第である。フローニンゲン:2024/1/20(土)15:42

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?