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いつかのために、下手ながら言葉にしたっていいじゃない

悲しいや嬉しいといった途端にそこにある感情が悲しさや嬉しさのラッピングがなされる。
今、確かに感じているこの感情を言葉にした時点で削ぎ落とされてしまうものがある。
だから、言葉にはしたくない。

そんなふうに思ったことは自分だけじゃないはずだ。

コーチングやカウンセリング、ダイアログの場面では、あえて言葉にせず、ただただそれを味わうことに時間を使うことがある。そのことが「あえて言葉にしない」ということをさらに良しとさせる。

もちろん、言葉にすることが入り口となって、浮上している感情の奥に隠れている感情、あるいはいわゆる本当の願いといったものに出会うこともある。あるいは、これまで感じてきたよくわからない感情に名前がつくことで、人生の物語が再構築され、それが救いとなることもある。自分も何度もあった。

要は、言葉にしようがしなかろうがどっちもありなのだ。

だけど今日は言葉にしてみようと思う。

今体験しているこの不思議な感覚を、いつでも思い出せるように。
今は受け取れきれていないものたちをいつか受け取れるように。


8月中旬 「人と出会うって何?」

大好きな人生の先輩に飛行機で会いに行ったのだが、その頃から「この人と今本当に今出会えているのだろうか?」という問いが立つようになった。

確かに、目の前にいる。テラス席で一緒に食事をとり、あたたかいお茶を片手に、自然豊かな景色を眺めながら、他愛のないおしゃべりに興じる。つい身体の姿勢や目線の動きを目で追い、声色や呼吸の音に耳を澄ませ、その人の存在を肌で感じようとしてしまう。

でも、会っている感覚がない。「いや、何ごちゃごちゃ言ってんだ。今現実に会っているだろ」というセルフツッコミを素っ気なく振り払いながら、その感覚がないことに困惑している。

というかそもそも会っている感覚って何だ?

わからない。そして、わかってどうしたいかもわからない。

こういう時のために本があると思う。
敬愛しているマルティン・ブーバーは次のようにいう。

すべての真実なる生とは、まさに出会いである

マルティン・ブーバー「我と汝」(野口啓祐訳)

生きるとは出会うこと。これがイコールな関係を示しているのであれば、出会うことは生きることとなる。

会っている感覚がわからないということは、生きている感覚がわからないということなのだろうか。

なんだか話が大きくなってしまった。

これは困った。でも、4日間もこの人と一緒に過ごすのだ。頭で理解できなくともそのうちわかるだろう。

***

気がついたら帰りの飛行機の中だった。結局わからないままだ。
振り返って出てきた言葉は「幻想のような4日間を願ったが、ただの日常だった」というものだった。
大好きな人に出会うから、きっと濃厚な体験をしたかったのだろう。残念でしたね。

9月上旬 「余白をつくって何をしたいの?」

9月上旬、大切な友人と湘南の海で焚き火をした。
過去のあれこれを振り返りながら多くの握りしめていた思い出を、昇華していく時間となった。9月に入ったこともあってか、平日の夜だったからか、人は少なく、ただ振り返って昇華していくことのみに集中することができた。

海風の心地よさと秋の始まりを感じさせるほんの少しの肌寒さが火のあたたかさをより実感させた。

その友人とはある講座で一緒になってから定期的に対話をする仲だった。
僕はその友人のことがずっと羨ましかった。
仕事ができて、情熱があって、自分の純粋さを大事にしていて、感性が豊かで、何よりセンスがいい。
自分と比較して、その友人のいわば人間力の高さに嫉妬していた。

そんな友人と喋っている時は追っかけしているアイドルと喋っていたような感覚だった。

ただ、いつからかアイドル的な存在として見ることをやめていた。

きっとこれから何度も会うだろう。そしてお互いのことを聴き合い語りながら、人生を織り成していくのだろう。そんな友人となっていた。

その友人が焚き火を目の前にしながら聞いてきた。

「たくやは結局何をしたいの?あのnoteを読んだけど、正直ピンと来なかった」

ぎくりとした。痛いところを突かれてしまったなんていうレベルではなく、何が何だかわからなすぎて少しの間かたまった。とりあえず沈黙を埋めるように言葉にしてみるもなんだか的を射ていない。

でも、友人の助けもあって言葉にするうちに次の言葉が口から出ていた。

「ただひとりであることを感じたいのかもしれない」

それを聞いた友人は「たくやの魅力はたくやの人生そのもの。そして、今言ってくれた言葉の質感は何だかめちゃくちゃくるものがある」なんて言葉をそっと置いてくれた。

波風の音が強くなっていることに気がついた。

9月下旬 「あぁ、出会うってこんな感覚かも」

9月下旬はたくさんの人と会った。
箱根温泉、オンラインヘラヘラ会、銀座ゲシュタルト療法トレーニング。
奥多摩散策、浅草ごはんもあったのだが、今回の書きたいテーマと少し逸れるのでまたどこかで書こう。

箱根温泉
箱根温泉からの帰り道、これまでにたったの数回しか経験していない「ただ共にいること」を経験した。車の中だった。すごく不思議なこの感覚。まだまだ言葉にすることは叶わないが、思い出そうと思えばすぐ思い出せるあの時のこと。

確かに感じていたのは、暗闇の中を静かに深く潜っていくような感覚。同時に、いつでも浮上することができるという自己信頼感。思わず手を伸ばして「俺はここにいるぞ」と相手に触れたくなる感覚(実際そうした)。自分はここにいるという感覚。

別れ際、思わずハグをした。

これは後から教えてくれたことだが、どうやら自分は相当エネルギーを使って消耗していたらしい。

全く気が付かなかった。
でも、きっとそうだったのだろう。
触れるってすごい。

ヘラヘラ会
ヘラヘラ会とは、ヘラヘラしながらヘラヘラについて語る会である。(説明が難しい)
ゲシュタルト療法学びの仲間から喋ろうと声をかけてくれたことをきっかけに定期的に喋っている。(というかヘラヘラしている)

ヘラヘラしているだけなので、振り返ることがない。(というかあまり覚えていない)

しかし、今回の会はいつもと違った。ヘラヘラしながら同時にヘラヘラしていない部分を見つめる時間だった。そして、それもまた先日経験した「ただ共にいること」に近い感覚だった。

ただ、箱根温泉の時は目の前の相手だったのに対し、今回は自分の中に息づく複数の自分とという違いはあったように思う。

相手がどう感じているかはわからないが、ヘラヘラしながらもすごく大事な部分を見続けていたのかもしれない。ありがとう、ヘラヘラくん。

ゲシュタルト療法トレーニング
最後はゲシュタルト療法トレーニングだ。といっても学びの場のことではない。もちろん講座における学びや体験があったことの影響は大いにあるが、残しておきたいのは1日目の飲み会後の雑談のことだ。

飲み会終わりに池袋駅でただ喋る。深夜23時過ぎだっただろうか。池袋駅の改札へと向かう人たち、これから池袋へと繰り出していく人たちが、そそくさと歩いていく様を横目にみながら、ただそこに立ち止まっている。それは先述した「ただ共にいる」だったかもしれない。

でも、どちらともまた違った感覚でもあった。「共にいる」というよりは「共に観る」という言葉の感じに近い。目の前の人が今そこで感じている感覚、見ている世界、聞こえている音がす〜っと自分に溶け混んで、そして目の前に出現するような感覚。目の前の相手とも、自分の中に息づく複数の自分とも共にいる以上の何かを感じていた。

本当はしばらくそこにいたかったのだが、翌日も講座のために睡眠を確保したい自分がいて、ギリギリ終電を逃すくらいの時間で解散した。実を言えばちょっとだけ後悔している。終電逃したということもあるが、もう少しその感覚に漂ってもよかったのではないかと。

翌朝、昨日の体験を振り返りながら思い出したことがあった。何かの本で「共感には、情動的共感と認知的共感があって、後者を共観と呼ぶのはどうだろうか」というような言葉を見たことだ。だが今回の「共に観る」というのは、その共観とは違うような気がする。その言葉を採用するなら、情動的共感も認知的共感も起こっていたように思う。

そして、やはりその「共感」という言葉におさまらないものを感じている。

そんなことをあれこれ考えているうちに、2日目の講座が始まって終わり、サウナとご飯に行って家に帰ってきた。予定していた講座の前日の宿泊と予定外の宿泊(終電逃す)により、2日ぶりの自宅だった。

最近出迎えた観葉植物たちは丸々3日お世話をしなくとも元気だった。少しだけ寂しさを感じつつも、疲れていたのか安心したのか、その日はなんだかぼーっとしてすぐ床に着いた。

翌日、午後からの予定の場所へと向かうため、駅のホームで電車を待っていた。それは突然のことだった。

人と出会うってこんな感覚なのかもしれない

8月の時に「人と会うって何だ?」という問いに対するアンサーが急に現れた。

びっくりした。両腕に鳥肌が立ち、頭に血がものすごい勢いで上っていくのを感じる。

思わず、ブーバーの文脈を共有できている人にシェアした。これがブーバーの言っていた「我-汝」なのかもしれないと。そしたら、「お酒飲んでたからじゃない?笑」みたいなことが返ってきて「確かに笑」ともなった。

いつものごとくヘラヘラした。でも、先日のヘラヘラ会でヘラヘラしながらも核心に迫ることができるようになった自分はちゃんと考えていた。


「共にいる」からこそ「共に観る」ことができる。そして、それは生きていることの実感でもあるかもしれない。

だから、ブーバーは生きるとは出会うことと言ったのだろうか。

いま

久しぶりに書きたいように、自分のためだけに書いた。言葉にした。いつかこれを読んだ自分が何を思うだろうか。

書きながら思ったことは、時間が経つにつれてその時の感覚は消えていくという当たり前のことだった。

確かに、言葉にすることで削ぎ落とされてしまうものがある。でも言葉にしないとその入り口さえ見失ってしまうこともある。この記事を書く際も、XやInstagramに書き散らかしたものたちを頼りに思い出した部分が多くあった。

そして、書き終えるまでに随分と時間がかかったなとも思う。日数だけで言えば、書き始めてから2日間も経った。東京の自宅で書き始めた言葉は、所用で訪れた佐賀県で書き終えようとしている。時間も経てば感覚どころか、場所さえも変わっている。時間のせいか場所のせいかはわからないが、何度か読み直した時に、あまりの恥ずかしさから文章を直し、いくつかカットもした。

最初は、言葉にしようがしなかろうがどっちもありだと思っていた。

でも今はこう思っている。

いつかのために、下手ながら言葉にしたっていいじゃない、と。

ひとによってはそれが言葉ではなく、写真だったり、絵だったり、何かだったりするのだろう。

どんな形であれ、残しておくのは悪くないかもしれない。


長くなった。
読んでくれてありがとう。
今、何を感じていますか?


自分は今「決めにいったなこいつ」と思っています。

どれも自分です。

2024年10月2日(水)12時14分




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