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#自分探し #自分らしさ #何者

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#自分らしく生きる

"焦燥"というエンジンに頼りたくない

何かを始める、何かを頑張る、いつだって自分を衝き動かしてきたのは「焦燥感」だった。 絶妙なタイミングで湧き上がったあの焦燥感がなければ、今の自分はなかったのかもしれないけれど、僕には焦燥感というエンジンしか搭載されていない。 そんな焦燥感と切っても切り離せないのが、他者との比較だ。 「他者」 一体、誰を思い浮かべているのだろう。誰とそんなに競い合っているのだろう。 不幸中の幸いと言って良いのか分からないけれど、他者と自分を比較しても劣等感は感じない。もちろん、他者を

すでに自分らしいはずなのに、それでも探す"らしさ"ってなんだ

“自分らしく生きよう” まるで、僕らが自分らしく生きることができていないみたいな言い方だ。 確かに、「自分らしく生きることができている」と胸を張って言えたもんじゃない。 けれど、同時に「自分らしくいられていない」と思う理由や要素を説明することもできない。 漠然としたモヤモヤに、漠然としたキャッコピーが刺さり、漠然とした思考と行動のまま、僕らは明日からも漠然とした日々を過ごす。 “自分らしさ”ってなんだ。 自分探しをしたら見つかるのだろうか。 それっぽいものは見つ

重なる矛盾、矛盾にまみれた自分

「自己矛盾」は辛い。 いわゆる真面目な人であればあるほど、自己矛盾はひどく苦しい。 「迷っているなら一歩踏み出してみなよ」 「人と同じは嫌なんだよね」 自分が一歩踏み出せていない時に他人にアドバイスしてみたり、人と同じは嫌と思いながら、誰かの敷いたレールから外れないよう必死な自分。 言動と行動、思いと現状、それらが噛み合わなくなってくると、正確には、噛み合っていないことを自覚してしまうと、自己矛盾にばかり意識が向いてしまう。 僕自身も、矛盾してばかりだ。 じっくり

自分らしさだと思ったら、ただの憧れだった

自分が思い描いている“自分らしさ”は、結局誰かに対しての憧れだ。 SNSで見かけた他人の“その人らしさ”を、自分らしさに重ね合わせているだけかもしれない。 「パソコン1つで時間や場所に囚われない生き方をしたい」 「自分の好きなことで、趣味の延長のような感覚で、お金を稼ぎたい」 ありのままの、自然体の、そんな自分でいたい。それが、今自分が抱える生きづらさとの決別だ。 自分の望む生き方、あり方、それらを体現した姿は、本当の自分の姿なのだろうか。 今、自分の好きを片っ端か

自分探しって、結局何を探しているのだろうか

自分探しとは、何を探す行為なんだろうか。 “自分”ならそこにいるはずだけれど、それでも何かを探し続けている。 何が見つかったら、自分探しの旅は終わったと言えるだろうか。 “何を探しているのか”を知るところが、自分探しの始まりだ。 もしかしたら、“何を探しているのか”が分かったら、自分探しの半分くらいは完了しているのかもしれない。 「らしさ」、「生き方」、「やりたいこと」、どれを探すかによって探し方や必要な道具は異なる。 漠然としたモヤモヤに流されて漠然とした自分探

ありのままで、本当に良いのだろうか

「ありのままで良い」 「あなたは、あなたらしくいれば良い」 すごく聴き心地の良い言葉。 実際、それらの言葉に救われたこともあったし、一歩踏み出せたこともあった。苦悩を抱える人に、そっと投げかけたこともあった。 けれど、常々思う。 「ありのままって、何だろう」 「私って今、ありのままでいられているのかな」 そもそも、本当にありのままでいて良いのだろうか。 ありのままでいることが、今の自分にとって本当に必要なことなのだろうか。 一歩踏み出せない自分、何かを変えたくて

本当の自分は、決して1つじゃない

「あんまり素でいられてないな」 「ありのままの自分が分からなくなった」 「自分自身が何者であるか知りたい」というのは、「素の自分とはどんな自分なのか知りたい」という欲求に近いのかもしれない。 地元の友人に見せる自分、高校時代の友人に見せる自分、親に見せる自分、上司に見せる自分、部下に見せる自分、恋人に見せる自分。 どれも違う。 そう感じる度に、「本当の自分って何なのだろう」とモヤモヤする。 けれど、実際はどれも本当の自分だ。 「自分はこういう人間だ」 どうも、一

ずっと変わらないものが、自分らしさだった

仕事も、やりたいことも、生き方も、変わっていく。 僕らは、変わっていくものばかりに気を取られてしまう。 ・自分のやりたいことは何なのだろうか ・このままの生き方で良いのだろうか 不確実な時代を生きているからこそ、不確実なものに囚われてしまうのだろうか。 確実な未来を自分で創るために、不確実なものをはっきりさせたくなるのだろうか。 - 自分のビジョンとか、価値観とか、どうせ変わっていくのに、確固たる自分の意思を見つけ出そうと自己分析に必死になる。 そうして疲れて、

流れゆく日々の傍観者、変わらない何かを探そうとする僕ら

友人の幸せに対して、喜びよりも先に焦りや嫉妬を感じるようになることが、「大人になる」ということかもしれない。 転職、独立、結婚。 人生の転機を迎える、新しいステージへ進む、そんな変化の真っ只中にいる友人の“変わらない何か”を探そうとする。 「昔からこういう人好きだったもんな」 「昔からこういうノリで生きてたもんな」 「相変わらず、我が道を行くタイプだな」 それもまた、「大人になる」ということかもしれない。 - 僕らは、日々変化にさらされている。 「自分は傍観者で

万人受けしようとすると、誰にも受けなくなる

マーケティングやブランディングといったビジネスに限らず、人間関係や生き方にも同様のことが言える。 みんなに好かれようとすると、広く浅い関係値になってしまうかもしれないし、ツッコミどころのない生き方をしようとすると、無難になってしまうかもしれない。 自分が周りに合わせていくことも大事だけれど、どこかで“わがまま”にならなければいけない。 誰にだって、譲れない何かが一つや二つある。 それを譲ってまで維持したい人間関係、生き方、果たしてそれは本当に自分が欲しいものなのだろう

答えられないアイツを見て、安心したいだけなんだよな

「お前は何がしたいの?」 「将来のビジョンはありますか?」 友人からも、企業の人事からも、自己啓発本からも、散々浴びせられた。 「分からない」 分かろうとしても、結局やってみないと分からない。 あれだけ「やりたい」と思って始めた習い事も、蓋を開けてみたら大してのめり込めなかったし、反面、やりたくなかったけど引き受けた「リーダー」は案外楽しかった。 「結局、やらなきゃ気づけない」ということだけが、唯一分かっていることだ。 - 僕は就活生ということもあり、周りからの

結局、自分のことを一番よく分かっているのは誰なんだ

過大評価されても何だかモヤモヤするし、かといって、過小評価されてもそれはそれでモヤモヤする。 私のモヤモヤは… 公私ともに、周りからの評価と自分自身での認識の噛み違い です!よろしくお願いします! (たんせんさん) 「公」の話で言えば、評価者と被評価者の構図が存在する以上、ギャップを埋められるよう努力するしかないと思う。 ギャップを感じるなら、「ギャップを感じていること」を評価者に具体的に伝えて、擦り合わせる必要がある。 評価の仕組みそのものに不満があったり折り合い

誰か、私に私らしさを教えてくれ

どうやら自己分析には限界があるらしい。 今までで一番頑張ったことは受験勉強くらいしかないし、その受験勉強ですら、人より頑張ったかと言われればそうは言い切れない。 だいたい、大学生までの人生の中で「最も頑張ったこと」なんて受験勉強か部活動くらいしかないのではないか。 企業の人事はきっともう聞き飽きているんでしょ。似たり寄ったりのアピールポイントに。 そんな屁理屈を並べてしまうほど、自己分析で行き詰まっている。 自分のことは自分が一番分かっていると思っていた。 確かに

ギャップに隠れた"自分らしさ"

「どうして、あの時ああしたのだろう」 ふとそう思うことがある。 それは、決して過去に対する後悔ではなく、自分自身の意外性に対しての懐古。 とても同じ自分がしたとは思えない決断をしていたり、臆病な自分からは想像もできないくらい大胆な行動を取っていたり、そんな過去が1つや2つくらいある。 あの時の自分を突き動かしたものは一体何だったのだろう。 今の自分もあの時の自分も同じ「自分」であるはずなのに、当時を振り返ると全く違う存在のように思えてくる。 表の自分を「臆病」とす