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#自分探し #自分らしさ #何者

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#note毎日更新

言えないこと、書けないことこそ向き合ってみる

人に言えること、言えないこと。 noteに書けること、書けないこと。 それらの割合ってどんなもんだろう。 言えなかったり書けなかったりする理由が「本音だから」なのだとしたら、自分の本音こそ向き合ってみる価値があると思う。 言えなかったり書けなかったりする理由が「周りの反応が怖いから」なのだとしたら、“周りを気にする自分”という存在を認識できる。 誰しも言えないことの一つや二つあるだろうし、それをうまく引き出してくれる人もまたいるだろうけれど、表に出せない気持ちや感情は

自分の言葉も、結局誰かの言葉なんだよな

どうあがいても、自分の人生が誰かの人生を後追いするような人生になってしまうのは、他者の影響を少なからず、いや大いに受けているからだ。 突き詰めると、「言葉」だ。 自分の人生も、自分という人間も、言葉によってつくられている。 僕らは言葉を巧みに操っているようで、実は、言葉に操られているとも言える。 文章を書いていると、「結局自分の言葉も、誰かの言葉なんだよな」と卑屈になってしまう時がある。 「結局、誰かの言葉をコピー&ペーストしているだけなのかもしれない。レポートに追

すでに自分らしいはずなのに、それでも探す"らしさ"ってなんだ

“自分らしく生きよう” まるで、僕らが自分らしく生きることができていないみたいな言い方だ。 確かに、「自分らしく生きることができている」と胸を張って言えたもんじゃない。 けれど、同時に「自分らしくいられていない」と思う理由や要素を説明することもできない。 漠然としたモヤモヤに、漠然としたキャッコピーが刺さり、漠然とした思考と行動のまま、僕らは明日からも漠然とした日々を過ごす。 “自分らしさ”ってなんだ。 自分探しをしたら見つかるのだろうか。 それっぽいものは見つ

重なる矛盾、矛盾にまみれた自分

「自己矛盾」は辛い。 いわゆる真面目な人であればあるほど、自己矛盾はひどく苦しい。 「迷っているなら一歩踏み出してみなよ」 「人と同じは嫌なんだよね」 自分が一歩踏み出せていない時に他人にアドバイスしてみたり、人と同じは嫌と思いながら、誰かの敷いたレールから外れないよう必死な自分。 言動と行動、思いと現状、それらが噛み合わなくなってくると、正確には、噛み合っていないことを自覚してしまうと、自己矛盾にばかり意識が向いてしまう。 僕自身も、矛盾してばかりだ。 じっくり

"自分を知る"だけじゃ、足りないんだよな

自己分析、自己理解、自分探し。 “自分を知る”という経験や感覚はすごく大切だ。 けれど、自分を知っただけでは、現状は大きく変わらないかもしれない。 自分の価値観、性格、物事への取り組み方など、あらゆる思考パターンや行動パターンを把握できても、一時の達成感やアハ体験で終わってしまうかもしれない。 “自分に集中する” 自分と向き合うなら、ここまで持っていきたい。 今迷っていること、一歩踏み出せずにいること、曖昧にしていること、それらと一つ一つ向き合って、意思決定をして

自分らしさだと思ったら、ただの憧れだった

自分が思い描いている“自分らしさ”は、結局誰かに対しての憧れだ。 SNSで見かけた他人の“その人らしさ”を、自分らしさに重ね合わせているだけかもしれない。 「パソコン1つで時間や場所に囚われない生き方をしたい」 「自分の好きなことで、趣味の延長のような感覚で、お金を稼ぎたい」 ありのままの、自然体の、そんな自分でいたい。それが、今自分が抱える生きづらさとの決別だ。 自分の望む生き方、あり方、それらを体現した姿は、本当の自分の姿なのだろうか。 今、自分の好きを片っ端か

自分探しって、結局何を探しているのだろうか

自分探しとは、何を探す行為なんだろうか。 “自分”ならそこにいるはずだけれど、それでも何かを探し続けている。 何が見つかったら、自分探しの旅は終わったと言えるだろうか。 “何を探しているのか”を知るところが、自分探しの始まりだ。 もしかしたら、“何を探しているのか”が分かったら、自分探しの半分くらいは完了しているのかもしれない。 「らしさ」、「生き方」、「やりたいこと」、どれを探すかによって探し方や必要な道具は異なる。 漠然としたモヤモヤに流されて漠然とした自分探

周りの目を気にしているようで、自分の目を気にしているだけだった

「周りの目が気になる」とはどんな状態なのだろうか。 周りの目が気になる時ほど、周りは自分を気にかけていなかったりする。 自分が他人の全てを気にしないように、他人も自分の全てを気にしているわけではない。 周りの目、それはつまり「自分の目」かもしれない。 自分自身の勝手な想像を、自分自身が勝手に気にしているだけだ。 「周りの目」の先に見ていたのは、実は自分自身で、周りの目を気にするということは、実は自分自身と向き合うということだ。 僕らは、周りからどう見られてしまうこ

受信より発信を増やすと、周りが気にならなくなる

周りが気になるからSNSアプリを消す、というのも一定の効果はあるように思うけれど、あまり根本的な解決にはなっていないかもしれない。 周りが気になってしまう状況を取り除くことはできても、周りを気にしてしまう“自分自身”はそのままだ。 もちろん、SNSを一切シャットアウトすることで、時間とともに周りが気にならなくなるのかもしれない。 ただ、結局、手持ち無沙汰な時間があると周りが気になってしまう。 僕らは、手持ち無沙汰な時間があると、どういうわけか「消費」に走ってしまう。

感じてはいけない感情なんてない

喜怒哀楽、どれが良くてどれが悪いなんてない。 怒りも悲しも、誰だって感じるし、感じたくなくても感じてしまう時だってある。 「嫉妬」はどうだろうか。 言葉のイメージとしてはあまり良くない気がするし、感じなくて済むなら感じたくない気もする。 ただ、周りのよく見えるこんな時代に生きていると、日常生活の中で嫉妬を感じずにはいられない。 ・自分より稼いでいる ・自分より友達が多い ・自分よりフォロワーが多い リアル・オンライン共々、嫉妬を感じる様々なシーンがある。 嫉妬は

ありのままで、本当に良いのだろうか

「ありのままで良い」 「あなたは、あなたらしくいれば良い」 すごく聴き心地の良い言葉。 実際、それらの言葉に救われたこともあったし、一歩踏み出せたこともあった。苦悩を抱える人に、そっと投げかけたこともあった。 けれど、常々思う。 「ありのままって、何だろう」 「私って今、ありのままでいられているのかな」 そもそも、本当にありのままでいて良いのだろうか。 ありのままでいることが、今の自分にとって本当に必要なことなのだろうか。 一歩踏み出せない自分、何かを変えたくて

2021年も、出会えなかった

好きな芸能人やYouTuber、久しく会っていない同級生、お世話になった先輩、田舎に住む親族、“今年も会えなかった人”もいれば、“今年はやっと会えた人”もいた。 会いたい人や会ってみたい人はたくさんいるけれど、「会いたい」と思う全ての人に会う前に、どうしても会っておきたいヤツがいる。 自分自身。 今年も会えなかった、いや、出会えなかった。 偶然も必然も、どんな出会いよりも、そろそろ僕は「自分自身」と出会いたい。 「自分はこういう人間だ」 「〇〇で××なのが自分だ」

「何してる時が楽しいの?」に答えられない

おそらく聞く人にとって深い意図はないのだろうし、それほど重たい質問ではない。 「何してる時が楽しいの?」 今まで何度か聞かれたことがあるはずなのに、「出身はどこですか?」みたく反射的に答えられない。聞かれる度にいつも「何してる時が楽しいかな?」と自分自身に問いかけてみる。 「んー、何ですかねぇ」とワンクッション挟んでみるけれど、たいてい、「散歩してる時ですかね」とか「YouTube観てる時ですかね」と答える。 答えた後に、「うわぁ、何かしっくりこない」と一人反省会が始

なりたかった自分に、なれているだろうか

なりたかった自分に、なれているだろうか なりたくなかった自分に、なってはいないだろうか なりたかった自分に「なれていない」と分かった時の悔しさや悲しさよりも、なりたくないと思っていた自分に「なっている」と気づいた時の絶望感の方が大きい。 「毎日疲れた顔して、満員電車に揺られるなんてごめんだ」 ジョッキを片手に吐いたいつかの言葉を、皮肉にも、満員電車の窓に映る自分を見て思い出すんだよな。 「あれ、私ってこんな顔つきだったっけ」 「あれ、俺ってこんなに小さかったっけ」