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#自分探し #自分らしさ #何者

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#毎日note

自分探しって、結局何を探しているのだろうか

自分探しとは、何を探す行為なんだろうか。 “自分”ならそこにいるはずだけれど、それでも何かを探し続けている。 何が見つかったら、自分探しの旅は終わったと言えるだろうか。 “何を探しているのか”を知るところが、自分探しの始まりだ。 もしかしたら、“何を探しているのか”が分かったら、自分探しの半分くらいは完了しているのかもしれない。 「らしさ」、「生き方」、「やりたいこと」、どれを探すかによって探し方や必要な道具は異なる。 漠然としたモヤモヤに流されて漠然とした自分探

周りの目を気にしているようで、自分の目を気にしているだけだった

「周りの目が気になる」とはどんな状態なのだろうか。 周りの目が気になる時ほど、周りは自分を気にかけていなかったりする。 自分が他人の全てを気にしないように、他人も自分の全てを気にしているわけではない。 周りの目、それはつまり「自分の目」かもしれない。 自分自身の勝手な想像を、自分自身が勝手に気にしているだけだ。 「周りの目」の先に見ていたのは、実は自分自身で、周りの目を気にするということは、実は自分自身と向き合うということだ。 僕らは、周りからどう見られてしまうこ

受信より発信を増やすと、周りが気にならなくなる

周りが気になるからSNSアプリを消す、というのも一定の効果はあるように思うけれど、あまり根本的な解決にはなっていないかもしれない。 周りが気になってしまう状況を取り除くことはできても、周りを気にしてしまう“自分自身”はそのままだ。 もちろん、SNSを一切シャットアウトすることで、時間とともに周りが気にならなくなるのかもしれない。 ただ、結局、手持ち無沙汰な時間があると周りが気になってしまう。 僕らは、手持ち無沙汰な時間があると、どういうわけか「消費」に走ってしまう。

感じてはいけない感情なんてない

喜怒哀楽、どれが良くてどれが悪いなんてない。 怒りも悲しも、誰だって感じるし、感じたくなくても感じてしまう時だってある。 「嫉妬」はどうだろうか。 言葉のイメージとしてはあまり良くない気がするし、感じなくて済むなら感じたくない気もする。 ただ、周りのよく見えるこんな時代に生きていると、日常生活の中で嫉妬を感じずにはいられない。 ・自分より稼いでいる ・自分より友達が多い ・自分よりフォロワーが多い リアル・オンライン共々、嫉妬を感じる様々なシーンがある。 嫉妬は

ありのままで、本当に良いのだろうか

「ありのままで良い」 「あなたは、あなたらしくいれば良い」 すごく聴き心地の良い言葉。 実際、それらの言葉に救われたこともあったし、一歩踏み出せたこともあった。苦悩を抱える人に、そっと投げかけたこともあった。 けれど、常々思う。 「ありのままって、何だろう」 「私って今、ありのままでいられているのかな」 そもそも、本当にありのままでいて良いのだろうか。 ありのままでいることが、今の自分にとって本当に必要なことなのだろうか。 一歩踏み出せない自分、何かを変えたくて

2021年も、出会えなかった

好きな芸能人やYouTuber、久しく会っていない同級生、お世話になった先輩、田舎に住む親族、“今年も会えなかった人”もいれば、“今年はやっと会えた人”もいた。 会いたい人や会ってみたい人はたくさんいるけれど、「会いたい」と思う全ての人に会う前に、どうしても会っておきたいヤツがいる。 自分自身。 今年も会えなかった、いや、出会えなかった。 偶然も必然も、どんな出会いよりも、そろそろ僕は「自分自身」と出会いたい。 「自分はこういう人間だ」 「〇〇で××なのが自分だ」

「何してる時が楽しいの?」に答えられない

おそらく聞く人にとって深い意図はないのだろうし、それほど重たい質問ではない。 「何してる時が楽しいの?」 今まで何度か聞かれたことがあるはずなのに、「出身はどこですか?」みたく反射的に答えられない。聞かれる度にいつも「何してる時が楽しいかな?」と自分自身に問いかけてみる。 「んー、何ですかねぇ」とワンクッション挟んでみるけれど、たいてい、「散歩してる時ですかね」とか「YouTube観てる時ですかね」と答える。 答えた後に、「うわぁ、何かしっくりこない」と一人反省会が始

なりたかった自分に、なれているだろうか

なりたかった自分に、なれているだろうか なりたくなかった自分に、なってはいないだろうか なりたかった自分に「なれていない」と分かった時の悔しさや悲しさよりも、なりたくないと思っていた自分に「なっている」と気づいた時の絶望感の方が大きい。 「毎日疲れた顔して、満員電車に揺られるなんてごめんだ」 ジョッキを片手に吐いたいつかの言葉を、皮肉にも、満員電車の窓に映る自分を見て思い出すんだよな。 「あれ、私ってこんな顔つきだったっけ」 「あれ、俺ってこんなに小さかったっけ」

「普通」じゃ満足できないボクらは

「普通」という言葉に、どれほど振り回されているのだろうか。 「普通で良い」とか「普通じゃ嫌だ」とか、何でもかんでも「普通」が基準になっている。 そもそも、そういう基準になるものが「普通」なんだろうけれど。 「普通でいたくない」という欲求が行動のモチベーションになったり、何かのきっかけにもなってしまうくらい。 「普通」に満足できることなんて、あるのだろうか。 普通でない何かを手に入れたとしても、一度手に入れてしまったら、やがてそれは「普通」になってしまう。 そうして

スタバにいる自分が好き、みたいなやつ

スタバが好きなのではなく(それ以上に)、 ・スタバにいる自分が好き ・スタバを好きな自分が好き のような「〇〇する自分が好き」というものを、色々洗い出してみると自分についてよく分かりそう。 自分の状態や性格など、例えばこんなものが挙げられる。 ・忙しい自分が好き ・××で働く自分が好き ・周りから頼られる自分が好き ・最先端に詳しい自分が好き ・右腕となって誰かを支える自分が好き ナルシシズムのように感じられるかもしれないが、せっかく一度きりの自分の人生を生きるなら、

本当の自分は、決して1つじゃない

「あんまり素でいられてないな」 「ありのままの自分が分からなくなった」 「自分自身が何者であるか知りたい」というのは、「素の自分とはどんな自分なのか知りたい」という欲求に近いのかもしれない。 地元の友人に見せる自分、高校時代の友人に見せる自分、親に見せる自分、上司に見せる自分、部下に見せる自分、恋人に見せる自分。 どれも違う。 そう感じる度に、「本当の自分って何なのだろう」とモヤモヤする。 けれど、実際はどれも本当の自分だ。 「自分はこういう人間だ」 どうも、一

ずっと変わらないものが、自分らしさだった

仕事も、やりたいことも、生き方も、変わっていく。 僕らは、変わっていくものばかりに気を取られてしまう。 ・自分のやりたいことは何なのだろうか ・このままの生き方で良いのだろうか 不確実な時代を生きているからこそ、不確実なものに囚われてしまうのだろうか。 確実な未来を自分で創るために、不確実なものをはっきりさせたくなるのだろうか。 - 自分のビジョンとか、価値観とか、どうせ変わっていくのに、確固たる自分の意思を見つけ出そうと自己分析に必死になる。 そうして疲れて、

自己肯定できるからこそ、自己否定をする

成長とか目標の達成とか、そういうものを追いかけようとすると、自己否定は避けて通れない。 自己否定とまではいかなくても、 ・もっと良くできるはずだ ・本当にこのままでいいのか? と自分自身や現状に対して疑ってかかったり、自己正当化バイアスをメタ認知できるような機会が少なからず必要だと思う。 - 「自己肯定感」は、セーフティネットのようなものだ。 どれだけ苦しく、辛い出来事があっても、最終的には「それでも前に進もう」と思えたり、「自分なら大丈夫だ、何とかなる」と思える

「趣味とかあるの?」に毎回答えられない

趣味を聞かれるのが苦手だ。 聞かれる度に毎回答えが変わるし、自分で答えていてしっくりきたことがない。 休日の過ごし方とか日常的にやっていることを答えておけば良いのだろうけど、どうも厄介な認識や基準があって、うまく答えられない。 ・あまり他の人がやっていないようなものを答えなくちゃ ・ある程度継続的にやっているものを答えなくちゃ ・得意と呼ぶに相応しい何らかの実績があるものを答えなくちゃ これらに当てはまるものがないから、本当は答えたくない。 結局、いつも「文章を書く