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#自分探し #自分らしさ #何者

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#自分探し

「あの頃に戻りたい」と思えるほどの素敵な人生とか

夏なんてとっくに過ぎたはずなのに、両耳には容赦なく夏の定番ソングが流し込まれていく。 季節に合わせてプレイリストを更新するような丁寧な暮らしはできていなくて、というより、そもそもプレイリストを作成するようなまめなタイプではない。 季節の変わり目では決まって体調を崩すタイプで、特に夏から秋に変わるタイミングにはめっぽう弱い。今年も案の定、つまらない風邪を引いた。 「去年の今頃も風邪引いてたっけ」なんてことを思い出しながら、「ちょうどあの人と出会った頃だよな」とか、「あそこ

"焦燥"というエンジンに頼りたくない

何かを始める、何かを頑張る、いつだって自分を衝き動かしてきたのは「焦燥感」だった。 絶妙なタイミングで湧き上がったあの焦燥感がなければ、今の自分はなかったのかもしれないけれど、僕には焦燥感というエンジンしか搭載されていない。 そんな焦燥感と切っても切り離せないのが、他者との比較だ。 「他者」 一体、誰を思い浮かべているのだろう。誰とそんなに競い合っているのだろう。 不幸中の幸いと言って良いのか分からないけれど、他者と自分を比較しても劣等感は感じない。もちろん、他者を

すでに自分らしいはずなのに、それでも探す"らしさ"ってなんだ

“自分らしく生きよう” まるで、僕らが自分らしく生きることができていないみたいな言い方だ。 確かに、「自分らしく生きることができている」と胸を張って言えたもんじゃない。 けれど、同時に「自分らしくいられていない」と思う理由や要素を説明することもできない。 漠然としたモヤモヤに、漠然としたキャッコピーが刺さり、漠然とした思考と行動のまま、僕らは明日からも漠然とした日々を過ごす。 “自分らしさ”ってなんだ。 自分探しをしたら見つかるのだろうか。 それっぽいものは見つ

"自分を知る"だけじゃ、足りないんだよな

自己分析、自己理解、自分探し。 “自分を知る”という経験や感覚はすごく大切だ。 けれど、自分を知っただけでは、現状は大きく変わらないかもしれない。 自分の価値観、性格、物事への取り組み方など、あらゆる思考パターンや行動パターンを把握できても、一時の達成感やアハ体験で終わってしまうかもしれない。 “自分に集中する” 自分と向き合うなら、ここまで持っていきたい。 今迷っていること、一歩踏み出せずにいること、曖昧にしていること、それらと一つ一つ向き合って、意思決定をして

自分らしさだと思ったら、ただの憧れだった

自分が思い描いている“自分らしさ”は、結局誰かに対しての憧れだ。 SNSで見かけた他人の“その人らしさ”を、自分らしさに重ね合わせているだけかもしれない。 「パソコン1つで時間や場所に囚われない生き方をしたい」 「自分の好きなことで、趣味の延長のような感覚で、お金を稼ぎたい」 ありのままの、自然体の、そんな自分でいたい。それが、今自分が抱える生きづらさとの決別だ。 自分の望む生き方、あり方、それらを体現した姿は、本当の自分の姿なのだろうか。 今、自分の好きを片っ端か

自分探しって、結局何を探しているのだろうか

自分探しとは、何を探す行為なんだろうか。 “自分”ならそこにいるはずだけれど、それでも何かを探し続けている。 何が見つかったら、自分探しの旅は終わったと言えるだろうか。 “何を探しているのか”を知るところが、自分探しの始まりだ。 もしかしたら、“何を探しているのか”が分かったら、自分探しの半分くらいは完了しているのかもしれない。 「らしさ」、「生き方」、「やりたいこと」、どれを探すかによって探し方や必要な道具は異なる。 漠然としたモヤモヤに流されて漠然とした自分探

周りの目を気にしているようで、自分の目を気にしているだけだった

「周りの目が気になる」とはどんな状態なのだろうか。 周りの目が気になる時ほど、周りは自分を気にかけていなかったりする。 自分が他人の全てを気にしないように、他人も自分の全てを気にしているわけではない。 周りの目、それはつまり「自分の目」かもしれない。 自分自身の勝手な想像を、自分自身が勝手に気にしているだけだ。 「周りの目」の先に見ていたのは、実は自分自身で、周りの目を気にするということは、実は自分自身と向き合うということだ。 僕らは、周りからどう見られてしまうこ

ありのままで、本当に良いのだろうか

「ありのままで良い」 「あなたは、あなたらしくいれば良い」 すごく聴き心地の良い言葉。 実際、それらの言葉に救われたこともあったし、一歩踏み出せたこともあった。苦悩を抱える人に、そっと投げかけたこともあった。 けれど、常々思う。 「ありのままって、何だろう」 「私って今、ありのままでいられているのかな」 そもそも、本当にありのままでいて良いのだろうか。 ありのままでいることが、今の自分にとって本当に必要なことなのだろうか。 一歩踏み出せない自分、何かを変えたくて

2021年も、出会えなかった

好きな芸能人やYouTuber、久しく会っていない同級生、お世話になった先輩、田舎に住む親族、“今年も会えなかった人”もいれば、“今年はやっと会えた人”もいた。 会いたい人や会ってみたい人はたくさんいるけれど、「会いたい」と思う全ての人に会う前に、どうしても会っておきたいヤツがいる。 自分自身。 今年も会えなかった、いや、出会えなかった。 偶然も必然も、どんな出会いよりも、そろそろ僕は「自分自身」と出会いたい。 「自分はこういう人間だ」 「〇〇で××なのが自分だ」

「何してる時が楽しいの?」に答えられない

おそらく聞く人にとって深い意図はないのだろうし、それほど重たい質問ではない。 「何してる時が楽しいの?」 今まで何度か聞かれたことがあるはずなのに、「出身はどこですか?」みたく反射的に答えられない。聞かれる度にいつも「何してる時が楽しいかな?」と自分自身に問いかけてみる。 「んー、何ですかねぇ」とワンクッション挟んでみるけれど、たいてい、「散歩してる時ですかね」とか「YouTube観てる時ですかね」と答える。 答えた後に、「うわぁ、何かしっくりこない」と一人反省会が始

なりたかった自分に、なれているだろうか

なりたかった自分に、なれているだろうか なりたくなかった自分に、なってはいないだろうか なりたかった自分に「なれていない」と分かった時の悔しさや悲しさよりも、なりたくないと思っていた自分に「なっている」と気づいた時の絶望感の方が大きい。 「毎日疲れた顔して、満員電車に揺られるなんてごめんだ」 ジョッキを片手に吐いたいつかの言葉を、皮肉にも、満員電車の窓に映る自分を見て思い出すんだよな。 「あれ、私ってこんな顔つきだったっけ」 「あれ、俺ってこんなに小さかったっけ」

スタバにいる自分が好き、みたいなやつ

スタバが好きなのではなく(それ以上に)、 ・スタバにいる自分が好き ・スタバを好きな自分が好き のような「〇〇する自分が好き」というものを、色々洗い出してみると自分についてよく分かりそう。 自分の状態や性格など、例えばこんなものが挙げられる。 ・忙しい自分が好き ・××で働く自分が好き ・周りから頼られる自分が好き ・最先端に詳しい自分が好き ・右腕となって誰かを支える自分が好き ナルシシズムのように感じられるかもしれないが、せっかく一度きりの自分の人生を生きるなら、

本当の自分は、決して1つじゃない

「あんまり素でいられてないな」 「ありのままの自分が分からなくなった」 「自分自身が何者であるか知りたい」というのは、「素の自分とはどんな自分なのか知りたい」という欲求に近いのかもしれない。 地元の友人に見せる自分、高校時代の友人に見せる自分、親に見せる自分、上司に見せる自分、部下に見せる自分、恋人に見せる自分。 どれも違う。 そう感じる度に、「本当の自分って何なのだろう」とモヤモヤする。 けれど、実際はどれも本当の自分だ。 「自分はこういう人間だ」 どうも、一

「趣味とかあるの?」に毎回答えられない

趣味を聞かれるのが苦手だ。 聞かれる度に毎回答えが変わるし、自分で答えていてしっくりきたことがない。 休日の過ごし方とか日常的にやっていることを答えておけば良いのだろうけど、どうも厄介な認識や基準があって、うまく答えられない。 ・あまり他の人がやっていないようなものを答えなくちゃ ・ある程度継続的にやっているものを答えなくちゃ ・得意と呼ぶに相応しい何らかの実績があるものを答えなくちゃ これらに当てはまるものがないから、本当は答えたくない。 結局、いつも「文章を書く