実験科学は論理的か?
研究は感覚と経験だ、と言ってみたくなる時がある。
わたしは遺伝子やゲノムを制御する機構を調べている。
調べるための方法が日々、更新され、新たなプロトコールを掲載した論文が雑誌のウェブサイトにアップロードされる。
同じことを目的とした異なる方法も複数、存在するのが普通で、全ての方法の細部を把握するのは容易ではない。
数年経てば、お金と時間のかからない、精度の良い実験技術だけが生き残る。
それはまさに自然淘汰だ。
生き残り確立された方法だけを使っていれば気楽だがそうもいかない。
淘汰される頃には、その方法を使って出せるデータは陳腐化している。
だから新しい技術を半信半疑のまま使ってみなければいけない。
新発売のお菓子がコンビニの陳列棚に並び、やがてほとんどは消えていく。
本来わたしはすっかり定番になった商品を買っていれば気の済むタイプだ。
もちろん、新しい実験手技はこれまでに分からなかったことを明らかにできる可能性に満ちているので、試すときに胸が踊らないこともない。
けれど紆余曲折を経ないとうまく動かないことを経験的に知ってしまっているので、100%ウキウキした気分で取り掛かることはなくなってしまった。
新しい実験方法を紹介する論文を見れば、どのくらいうまく行きそうかわかるんじゃないの? と疑問を持つ向きもあると思うが、そんなことは全くない。
著者たちは当然、自分たちの開発した方法が優れたものであることを主張したいので良いデータを載せる。
もしかしたら何回も試してうまくいったデータだけを見せている可能性もある。
理想をいえば、同じ実験を十回、繰り返したなら十回分すべてのデータを載せるべきだ。
しかし紙幅などの関係でそうはいかない。
長い目で見れば、十回に一回しかうまくいかない手技は淘汰され、その論文を書いた研究室は信用されなくなる。
だから必ずうまくいくようにブラッシュアップしてから世に出すはずだ、という理屈が成り立つ。
しかしそんなこともない。
なぜなら多くの場合、同じような方法を開発している競争相手がいるからだ。
そこそこのところで形にしないと出遅れてしまう。
二番目以降の発表には低いインセンティブしか与えられない科学の世界で出遅れるのは結構、悲惨な経験だ。
実験技術だけではなく、何か新しい現象を見つけたとかメカニズムを明らかにしたといったあらゆる形態の研究結果も同様で、最初に見つけた人、最初に証明した人にしかその栄誉は与えられない。
(同着で複数の「一番」がいることはよくあるし、数週間のずれは同着と見なされることが多い。)
だからみんなPubMedや学会発表などで、同じ研究をやっている人がいないかチェックし続ける。
もし完全に丸かぶりの研究が発表されたりしたら、絶叫する。
せっかくやってきたことの科学的な意味が激減し、掲載される雑誌のグレードが数段、落ちる。
それは本来、得られたかもしれない実績をみすみす逃し、本人のその後の研究人生にも大きな影響を与えてしまうかもしれない。
ポストを得るにも、研究費を得るにも、良い雑誌に論文を載せた実績が必要だからだ。
幸いなことに私には先を越された経験はないけれど、それは単純に競争の激しい分野を避けているからに過ぎない。
そんなわけで、科学的な厳密性を突き詰める前に発表するケースも多い。
どこまで突き詰めるかは、最終的に本人の性格や思想に依拠するのが現実だ。
だから各ラボには信頼性の多寡がある。
同じ研究分野内で、「あのラボの結果は信用できる」「あそこはすごいスピードで論文を出すけど本当かどうかイマイチあやしい」などといった会話が交わされたりする。
新しい実験技術の話に戻る。
とにかく、すごく綺麗な結果が論文内に示されている方法を自分で試すと全然うまくいかない経験を、多くの人がする。
私が新しい実験方法に慣れていないだけで、何回かやるうちにコツを掴み綺麗なデータを出せるようになることもあるし、論文に載っていない細かい実験条件の違いによってうまくいかないこともある。
そもそも論文には料理本のレシピと同じくらいにしか詳しい手順が書かれていない。
経験と知識のある人が読まなければ、どう実験していいかわからない。
これには一応、解決方法が存在していて、研究室のウェブページにいけば詳細な方法を載せてくれていたり、メールで問い合わせればフルバージョンのプロトコールを送ってくれたりする。
あるいはその研究室を訪れて直接、教えてもらうこともできる。
海外のラボだとためらうが、国内ならそんなにハードルは高くない。
もうひとつうまくいかない大きな要因がある。
それは使用するサンプルの違いだ。
上記の話は、同じサンプルを使用することを仮定している。
でも実際は違うことの方が多い。
彼らは肝臓の細胞を使っていたが、自分たちは脳の研究をしているから神経細胞でやりたい、というようなケースの方が自然だ。
それに当たり前だけれど、新しい実験方法を開発しようとする時は使いやすくて結果の出そうなサンプルを使う。
違う細胞を使ってうまくいかなくても、それはもう開発した人の責任ではない。
自分で工夫しながら、開発者に相談しながらフィットさせていくしかない。
こうしてある研究室で生まれたメソッドは世界各所で試されて、少しずつ改良されたりあるいは見向きもされなくなったりする。
10年後くらいには、すっかりおなじみの、なんなら教科書に載っているような一般的な実験方法になり、やがてそこから時代が進むと学生実験に組み込まれたりすることもあるかもしれない。
つまりすっかり陳腐化している。
そういった確立した実験に失敗する学生を横目で見ながら、「自分にもそういう時代があったなあ」と郷愁にひたるようになる。
つまり何が言いたいかというと、今現在、けっこうお金をかけて試薬を買って試した新しい実験がうまくいっていない。
研究は進まないし、別の方法を試すにはまたお金と時間がかかる。
ただひたすらボスに申し訳ないという気分を味わいながらこの文章を書いている。
大学院生になったばかりの頃、研究は論理的で普遍的で抽象的で、要はもっと「かっちり」していると思っていた。
生物系には、わたしみたいに頭でっかちな人と、ひたすら作業が好きといった実践派が混在している。
なにせ数学とかそういうひたすら抽象的で論理性を要求される内容を嫌がる人の多い分野だ。
実践派の人ははなから「かっちり」していることを求めていない。
むしろ中学や高校で数式をぐるぐるさせられたことに嫌気が差している人は、結果がブレたり、論文に載っていることが再現できなかったり、手先の器用さや単純作業の忍耐性を求められたりするほうがずっとイキイキしている。
哲学者の決めた、厳密な科学的手法や科学的認識などというものは、研究者の日常にはそうそう顔を出さない。
結果を解釈するときの研究者たちの細かさは尋常じゃないけれど、それでも作業をするときは経験やら感覚やらが度々、優先される。
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