ツンデレじゃなくて、ただの職業癖です。

アニメとか映画とか趣味に関することで、盛り上がった気持ちを「分かってほしい」と思うことがある。
分かってくれないと悲しい気持ちや寂しい気持ちになるし、分かってくれると嬉しい。
そもそも他人と共有することに興味のない人もいるだろう。
でも、いつもではないにしろ、自分はそういう気持ちになる。

しかしどうも、同じ「分かる」といっても人によってニュアンスが異なる。
わりと長い間このニュアンスの違いについて考えていた。
分かると言った時に、共感を指しているのか、理解を意味しているのか、人によって違うのだと思う。
数年前に結論が出てそれからは自分はそういうものだと思って暮らしている。
自分は理解してほしい気持ちが強い。
賛同してくれなくてもよいので、話している内容や理屈を「分かって」ほしいと思っている。
たとえ、
「話は分かったけど、そう思う気持ちはぜんぜん分からない」
と言われてもそれはそれで良いし、いくぶんスッキリする。

今現在、『スーパーカブ』というアニメが放映されていて、私はこの作品を素晴らしいと思うし、毎週楽しみに待っている。
感想をツイートしたりYouTubeライブで少し話したりした。
でも、必ずしも「いいよねー」と言われたいわけではない。
言われたら言われたで嬉しいのだけれど、それよりも、自分が『スーパーカブ』のどこに惹かれているのか、なぜ素晴らしいと思っているのか理解してほしいと思う気持ちが強い。
だから話をよく理解しないで「いいよねー」と言われるのと、良さを理解した上で「自分は好きじゃない」と言われるのだったら、後者の方が良いと感じる。

共感と理解のどちらに重きを置くのかが、男女間で違うのかどうか知らないし、どうでもいい。
それよりも、目の前の相手が共感してほしいのか、理解してほしいのか、その違いはコミュニケーションに影響を及ぼすと思う。
理解してほしいと思っている人にいくら共感してみても、肝心のロジックを理解できていないと、相手は分かってくれていないと感じるし、共感してほしいと思っている人に、いかに自分が相手の話のポイントを掴んでいるかを話しても、同じ感覚・感情がともなっている様子を伝えなければ響かない。

少なくとも研究をしているかぎりにおいては理解が優先され、共感はオプションでしかない。
研究者同士であれば、理解をベースに話し合いをしたほうが圧倒的にスムーズで快適だ。
同じ現象に興味を持った研究者たちが、レセプションや飲み会で共感・共鳴している様子を見かけるので、無縁ではないにしても。
もちろん取り組むテーマに興味を持っていることは前提としてとても大事で、興味が続かなければ研究も続かない。
しかし、実験計画を立てたり、論文を書いたりするのに共感や共鳴は役に立たない。
科学は過去に築かれた知識や知見の上に新しいものが積まれていくので、他人の研究を理解することは研究の遂行に必須だ。
共感や共鳴を感じても良いけれど直接意味はなさない。
同じことに興味を持っている人がいる喜びと、その人の研究の質や意味を理解する行為とは別物だからだ。

研究者にも、流派というか思想というか、理性では割り切れない要素はもちろんあるのだけれど、思想が違っても質の高い研究は質の高い研究だし、共感できてもダメなものはダメだ。
そういったことを踏まえて、「どうもこの著者の論文は好きになれない」と思う時、そこには激烈な感情が伴う。
論文の価値を認めつつどうしても受け入れられない。
著者と知り合いだったとして、仲が良かったとしてもそれはそれ。
人格と、科学の好みの合う合わないはまた別で、だからこそ余計に腹が立つことさえある。
特段、具体例を頭に思い浮かべながら書いているわけではない。
そういう感情の記憶だけが自分の脳にしまってあって、これを書いている間にその引き出しが開いてしまった。

それでも、その論文を紹介しろと言われたら良い点と足りない点とを、好き嫌いに関係なく説明できる。
そうじゃないと研究者は名乗れないから。
だから好き嫌いの話をするのが苦手だ。
かなり意識しないと、好悪の感情を脇にどけて、あらゆることの「解説・説明」を始めてしまう。
研究者じゃなくなっても職業癖は簡単には抜けないから、たぶん一生そのままだと思う。

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