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正直、すごい研究(推し)はいっぱいあるので、誰がノーベル賞をとっても残念な気持ちにはならない

「研究をするからにはノーベル賞をとる!」といった、少年漫画的でストレートなセリフは実際には聞いたことがない。
かれこれ20年ほど大学で生物研究に携わっていたので、野望として胸に秘めている人は中にはいただろうが、少なくとも目の前で直接言われたことはない。

私にとってノーベル賞受賞者は神話の世界の住人で、アメリカの有名大学ではキャンパスを歩いているとノーベル賞研究者がふらふら歩いている、みたいなエピソードを「へー」と間抜けな相槌とともに聞いていた。

日本国内にも、各分野ごとに研究者に与えられる賞がある。
生命科学系だと、上原賞とか内藤記念賞は、周囲の偉い先生方が毎年のように受賞していたので身近な存在だった。
国内に、芥川賞や直木賞をはじめとするいろいろな文学賞があるように、大小さまざまな賞が研究者に与えられている。
それのどれか一つでももらえたとしたら名誉なことだと思う。
賞を与えられない研究に意味がないわけではなくて、良い研究をした人が受賞して報われることはいいことだ。
しかしそれにしてもノーベル賞は遠い。遠すぎて見えない。

プロの小説家でノーベル文学賞を意識している人ってどのくらいいるのだろう。
文学はドメスティックな要素が科学よりも大きいと思うので、状況がそもそもちがうのだろうけれど、なんかものすごく遠いことには変わりないんじゃないか。

ノーベル賞にたいしての研究者の態度はおおかた、科学に少しでも注目してもらう良い機会だ、とか、自分たちのスーパースターや推しが日の目をみてドヤ顔をしている、のどちらかだ。
そういう意味では他のジャンルとかわらず、適当に責任感があって適当に軽薄なのだと思う。
自分の好きなジャンルにスポットが当たるときのワクワクとソワソワ、あるいはそういう雰囲気が嫌いで静観している、そういう感情をすべてごちゃ混ぜにした気分を、発表直前の今、自分は味わっている。

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