砕かれる波のまにまに
記憶が飛ぶ。私は何かを探している。わからない。わからないまますぐにもう数時間が過ぎている。朝だ、と思うと夜だ。夜だと思うと昼だ。今がいつなのか、だからいつでも私はもぬけの殻だ。
静かで冷たい水。水の中でスツールに座っている。
地下。地下の隔てられた水槽の夢。夢を思い出す。忘れる。忘れている、ということを忘れる。夜が来る。やがて夜が明けて、また夜が来る。まだ生きている。わからない。死んでいるのかもしれない。
いつのことだったか正確には思い出せない。
海に出た、と君が言う。
私は久しぶりに目を覚ます。今は夜、私はそれを思い出す。海の声がする。おそらく誰もいない夜明け前の海。冬のにおい、まだ桜の咲かない、だけど確かに春の海。
それは春だった。
暗い、怖い、落ちそうだ、と君がいう。笑いを含んだ声の向こうに冷たく冴え冴えと死の気配がする。海の声が深まる。
これなんだっけ、テトラポッドのある、突き出していて、と君がいう。名前は思い出さないでおこうと私は思う。そして君が言う。これさ、これの名前を皆知らないんだよ。
そう、だから思い出さない方がいい。思い出してしまった「それ」は簡単に君を連れ去ってしまうはずだ。
「それ」でいいじゃん、と私は必死にふざけて声を潜める。「それ」の方が怖いじゃん。そう思わない?「やめてくれよ」、君が笑う。声のふるえが波にまぎれる。
まだ失うわけにはいかない、と私は思う、強く思う。
そうしてつなぎとめたはずなのに、私はまた朝を奪われていく。
暗い、怖い、落ちそうだ。
暗いよ、怖い。
落ちてしまおうか。
今は春。私はそれを思い出す。
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