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多様性と差別

ここ最近、気分が落ち込んでいる。
自分の生きてる意味って、存在意義って、本当は無いのだろうか?極端ではなく、そう思わされている。知らない誰かの言葉によって。

現在「同性婚」に関する裁判が日本各地で行われている。その大阪での裁判の判決が、今週の月曜日に出た。大阪地方裁判所は「同性婚を認めていないことは、憲法に違反していない」とのことで、原告の訴えを退けた結果になったそうだ。

僕は当事者の1人でありながら、正直この同性婚の是非にまつわる現状を把握しきれていない。公判の内容も全て目を通せているわけでもない。だから今回の結果について、感情的には批判したくないと思っている。してはいけないということではなく、なんとなくである。


それもそうと、判決のニュースを見た時は最初「あ、そっか、大阪の裁判今日だったか…」と、その時になってこの裁判の存在を思い出した。

当事者の中でも同性婚に否定的な意見を持つ人は少なくないけど、僕はどちらかと言うと賛成派だ。日本で結婚ができるいう選択肢が増えてくれたら良いなと思ってるし、今回原告として第一線で戦ってくれている方々には大変頭が下がる思いを抱いている。

そんな自分にとって大事なニュースなはずなのに…支援をしたり、もっと直接的に応援をするべきことなのに、なんで忘れてしまっているのか?

理由はわかっている。このニュースを見るたびに自分の心が壊されていく。じわじわと生きる意味が失われてしまう感覚に陥っていく。だから、自然と見ないようにしてしまっている。

忘れてしまうのではなく、距離を置いてしまう。もっと関わりたいのに。


多様性のある社会とは、
差別を容認するのか?


同性婚に否定的な人の中には「同性婚のことを認められない人のことも認めることが、おたくらの言う多様性ってことじゃないの?」と言う人がいる。それは僕もそう思う。

直感で気持ち悪いって思ってしまったり、価値観の合う合わないは人それぞれあるし、そういう気持ちを否定したいわけではない。そんな人達に対して僕がどんな言葉をかけようと、その思いは簡単に変えられるものじゃないから。

しかし最近はその許容範囲を超えてくるような、目に余る発言をよく見かける。「多様性って言葉は他者を攻撃するためのものなのか?」と。この同性婚にまつわる裁判のニュースを見ていると、多様性っていう言葉を盾に平然と差別発言する人がいるように見えて、正直しんどい。

人それぞれ違った意見があり、それぞれを尊重しあうのが多様性ではないのか?反対の意見を持っているからといって、その人の全てを否定するような発言っていかがなものか?

そのコメント内容を家族や友達に面と向かって言えますか?もしあなたにとって大切な人が当事者だったらどうしますか?そのコメントを見てその人が傷付いている可能性は?

それも多様性だよって言われたら、僕は何も言い返せない。しかしそれって果たして多様性と言っていいものなのか?あの人達にとっては僕のこの苦しむ気持ちさえも、多様性を認めない思想だと思われてしまうだろうか?

10年前に比べたら世の中は変わった。マイノリティに対する理解度も深まってきていると思う。でも、こんなにも差別的なコメントを目にする機会が多いと「普段は理解があるように振る舞っているあの人も、実は心の底では差別しているんだろうか?」とさえ勘ぐってしまう。

こうやってぐるぐると考えてしまうから、この裁判にまつわるニュースとは距離を置いてしまっている。重ね重ねにはなるけれど、原告の方や積極的に発信活動をされている方々には本当に頭が下がる思いで、陰ながら応援することしかできないでいる自分が情けない。


でも、そうじゃないよなと。自分に喝を入れたい。

もうすぐ参院選もあるから投票にいくのはもちろん、団体への寄付とか良いコメントをRTするとか。積極的にはなれないかもしれないし、僕はまだこうやって色んな意見に惑わされて気分が落ち込んでしまっているけれど、自分にできることからやっていこう。

心の中、微かに残っているこの闘心を守り抜いていきながら。


〜元気をもらった大大大好きなやる気あり美の太田さんのツイートを添えて〜

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