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高麗郡街道、岩口~赤沢~根岸

【風土記、高麗郡の街道の記述】
郡内に二條の往還あり。その一は秩父郡名栗村辺りよりの通路にて、赤沢村より青木村、中居村辺りまで三里許を経て両岐し南北に分かる。南は一里許を経て根岸村に達す。北も一里余りを経て入間郡岩口村に達す。

現代で言えば、名栗からK70飯能下名栗線を入間川沿いに東進、K28青梅飯能線に引き継ぎ飯能駅前で高麗横丁を北上、中山を経由しK30飯能寄居線へと乗り換え更に北上、宮沢湖のピークを越えたらK262日高狭山線に乗り換え、しかし、狭山には向かわずそのまま北上を続け、高麗川駅、四本木の板石塔婆、南平沢交差点からK74日高川島線に右折し、直ぐ左を採り法雲寺に向かう道筋、これが北と、南は、飯能駅前で高麗横丁を左折せず、そのまま直進し、R299を根岸まで行く道筋です。

出展: 鶴ヶ島町史通史編より。上記、現代の道に置き換えた時、え、ここも高麗郡?!,と、思いました。が、ご覧の通り、グレーの高麗郡は白の入間郡に食い込んだ形です。通史編第三節のタイトルは、高麗郡の膨張発展、です。正にその通り。入間郡の中に高麗郡が出来、東へ東へと膨張したのです。結果、入間郡を、南北に分断してしまいました。これが冒頭の、ここも高麗郡?!, に繋がるわけです。

今回はこの街道を、北から南西、そして折り返して南東へとexploreします。

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高麗川駅まで輪行、北上して法雲寺に向かいます。

法雲寺

入間郡誌によれば、

岩口にあり。文禄三年1594開山と云ふ。

とありまして、風土記の、入間郡岩口とはこの辺りのことのようです。北へ高麗川を渡った先に、その名も岩口神社がありますが、その辺りは小字平であり、該当しないようです。

弓削多醤油、西福寺がある東西の通りの少し南が高麗郡と入間郡の郡境ですから、岩口は入間郡に入って直ぐの所にある、ということになります。高麗郡の街道の記述ですから、入間郡に入って直ぐのここを端点としたのでしょう。

しかし、迅速測図を見ると、岩口の先に続くのは高麗川で、渡河後も然したる街道は見つからず、街道としては、既述の南平沢の交差点を起点として良いように思います。

南平沢の交差点から旧道を選び選び行き、四本木の板石塔婆です。

四本木の板石塔婆、日高市によれば、日高市で最大の規模を誇り、1314年の銘があります。この辺りが鎌倉期から開かれていた証拠ですね。

先を行きましょう、上鹿山の集落に入りまして、高麗川神社です。

高麗川神社、埼玉の神社によれば、日本武尊東征の折、この地に立ち寄ったことから、後に、土地の者が祀るという説と、元亨二年1323, 猿田村の猿田豊前守吉清が勧請という説がある古社です。

日本武尊東征伝承は、律令の時代に遡る古道の周辺で多く見られますが、この高麗川神社がある上鹿山は、入間郡誌によれば、

上鹿山は村の南部に位し、元上信より八王子への運送道に当り、宿駅甚だ隆盛にして、其問屋たりし関戸氏の如きは「金が産(な)る」とまで形容せられたりと云ふ。 以て繁昌の状を知るべし。

と、いうことですから、武州と上州、信州を結ぶ言うなれば国道、四本木の板石塔婆の存在、高麗川神社の縁起も然り、と、思います。

予想外だったのは、ここに、丹生神社があったことです。

丹生宮、とあります。

上鹿山も丹党の勢力下だったのでしょうか。

先を行きまして、宮沢湖の南を抜けますが、この辺りは古道が消失しています。

中居・青木の集落に入りまして、まず、八高線の向こうになるんですが、白子神社があります。

白子神社

創建詳らかならずも、霊亀2年716, 高麗郡成立時に、高麗人が入植した土地に祀った白髪明神社28社の内の一社とされ、天平勝宝3年751の創立と伝わります。

今回のexploreのキーワードの一つ、高麗渡来人の痕跡です。

このテーマは、渡来の道シリーズで取り上げ、この白子神社含め訪問、実走しています。

この白子神社、丹党青木氏居城の鬼門除けとして建立という伝承もあります。確かに、南西に、青木氏居城泉ヶ城があります。

二つ目のキーワードです、青梅街道シリーズでも登場した丹党です。

この街道を挟んで北側が中居の集落ですが、少し西に行くと中山の集落で、ここは、丹党加治氏・中山氏の集落です。

宝蔵寺、風土記によれば、加治文吾新左衛門尉丹氏朝臣貞継(応永3年1396卒)が開基。手前の草むらは嘗て田圃だったんでしょうね。
加治神社、風土記、埼玉の神社、明細帳、飯能市史を総合すると、この地には元々天神社が鎮座していて(神紋は梅ですね。), その天神社は、天文一五年1546, 河越夜戦に敗れた中山家勝が、その帰り、入間川の増水に遭い、難儀していたところに一人の老人が現れ、家勝を対岸に無事渡した。家勝が名を問うと、「我は鎮守十二社の吾妻天神なり」と答え姿を消したと言い、家勝は、“導の天神” と崇め、元々館(智観寺の北)の北、勘解由山に祀られていた天神社を現社地裏に当たる御伊勢山へ遷座したといいます。そこに、明治40年1907, 加治神社(風土記では聖天社)を合祀しますが、その聖天社は、中山家勝の嫡子家範(1548 - 90)の遺命に依り、家臣中山四天王本橋備後守新左衛門尉貞潔が1596年創建ということです。同じく明治40年に合祀した丹生神社は、丹治武信が、氏神であった紀州の丹生都比賣神社を、智観寺開創と共にその北隣、館敷地内と思われますがそこに、元慶年中(877 - 885)に勧請し、中山氏の氏神として祀ったと言います。
智観寺、上記加治神社に記載の通り、丹治武信が元慶年間(877-885)創建。丹治武信から八代目の高麗経家が加治に土着し加治氏を名乗り、更に十二代後の家勝が中山に移り中山氏を名乗り、その嫡男が家範です。家範は秀吉小田原攻めの際、八王子城を守り奮戦、戦死し、武名を残しました。
中山家範館跡

道は南南西に向かい飯能駅前に至ります。K28青梅飯能線、K70飯能下名栗線を西へ行くとそこに諏訪八幡神社と飯能恵比寿神社が鎮座しています。

諏訪八幡神社、社伝詳らかならず、が、棟札は二通写しがあり、一つには、永正13年1516, 大檀那加治菊房丸助、願檀那平重清(畠山重清), 同菊房丸祖母昌忠、永正13丙子初春11日とあり、1516年創建と思われますが、時期的に、この加治氏は家勝の前、氏季でしょうか。あるいは、名前に、丸、が、付いてますから、大檀那は子供で、だとすると、家勝の可能性もあります。もう一つは、諏訪宮再興之事、とあって、天正12年1584, 本願智観寺住僧法印慶賢、大檀那加治勘解由左衛門吉範(中山家範)云々とあります。
飯能恵比寿神社、家範の霊夢によって恵比寿大神を勧請し、裏鬼門に当たる諏訪神社境内に祀ったと言います。
丹生神社、境内掲示によれば、中山直張の三男、黒田直邦が1706年に能仁寺を菩提寺とし、改築した際、智観寺にあった丹生社をここに分祀しました。

更にこの2社の北側山裾には能仁寺。

さすがは禅宗、きれいに整ってます。能仁寺、文亀年間1501-1503, 家勝が開き、嫡男家範が整えたといいます。

ということで中山集落から飯能集落(飯能駅前)までは、丹党中山氏支配地の中心部でした。

先を行きます、先と言っても直ぐ、岩根橋の袂に十六天神社があり、ここの板石塔婆は、なんと、畠山重忠の墓だという伝承があります。

伝畠山重忠墓板石塔婆

武将の墓は幾つもあるものですが、実際に葬られているのは二俣川と言われています。

ここは伝承が興味深いのです。

元久2年1205, 二俣川で討死した重忠の遺骸を一族縁の地、秩父に返そうとしていた道すがら、この地で車が動かなくなり、重忠の霊がここに留まりたいのだろうと察し、ここに葬ったというのです。

似たような話を聞いたことがあります。

  • 府中市白糸台本願寺の車返地名由来、奥州藤原征伐の際、頼朝が畠山重忠に命じて、藤原秀衡の持仏薬師如来を鎌倉へ移送中、この地で野営をしたところ、夢告によってこの地に薬師如来を安置し、薬師如来を運んだ車は奥州へ返したことに由来する。

  • 所沢市山口来迎寺、上記府中市白糸台本願寺の話の続きのような内容で、車返で動かなくなったので、これは奥州に戻すべき、と、ここ山口までは戻ったものの、ここで動かなくなったので、阿弥陀三尊をここに祀った。

畠山重忠の伝承には、どうも、動かなくなって、だからとって返す、という伝承が多いようですね。

先を行きましょう、ここからは入間川沿いです。大河原の集落に入りますと、丹党、あるいは児玉党大河原氏の痕跡が残っています。

金蔵寺、飯能市史によれば、口碑によると建仁年間1201-1204, 大河原四郎の菩提寺として、南方龍崖山麓に創立。こ大河原四郎、鎌倉幕府の旗本で、殿屋敷、篝場、境掘、馬場、鎌倉坂等の地名が残る、ということです。
八耳堂、先程の金蔵寺の仏堂で、太子堂とも。聖徳太子を祀り、保元年間1156-1158に建立ですから、むしろ、金蔵寺より古いです。
軍太利神社、建仁2年1202, 大河原四郎が創建ですから、金蔵寺の守護神として、でしょうか。

先を行きます、永田の集落には、萬福寺と白鬚神社があります。

萬福寺
白鬚神社

ここ永田には興味深い伝承があります。

八王子城代だった横地監物が、落城時、萬福寺に逃げ込んできて、そのまま居座り、細田大膳と名乗り帰農して生き延び、白鬚神社の神主にもなったというのです。

横地監物は檜原に逃げたという伝承もあります。それ程、大きなことだったんでしょう。後北条氏五代百年の平和が、突如、崩れたわけですから。

久須美、小瀬戸と行きますが、この辺りは野口と言い、三田氏家臣野口刑部丞が、1561年辛垣城の戦いで三田氏滅亡後、落ち延び、この地を開墾したという伝承が残ります。野口のタネのサイトには、野口のタネの野口家のご先祖が野口刑部丞と記載されています。

野口のタネ
子安浅間神社、埼玉の神社では、享保五年1720に観音像を入れたのは時の名主安藤某と記載がありますが、名主は野口だという伝承もあります。

横地監物といい、野口刑部丞といい、この辺りは、逃げ落ち延びてくるエリアなんでしょうか。

下赤工、房ヶ谷戸と行きますと、金山で、ここに、叶神社があります。

叶神社

珍しい名前です。読みは、かなう(かのう)神社です。かなう(かのう), は、金生とのことで、金山と合わせ、そうです、産鉄地名なんですね。御祭神は歓喜天で夫婦和合、子宝の神ですが、子ではなく金(鉄)を生むとして信仰されました。この歓喜天、聖天社は、加治神社、諏訪八幡神社にも祀られています。加治氏・中山氏と産鉄の関係性も伺われます。

右の大きな覆屋が加能(かのう)神社

まぁしかし、一山南の成木、直竹は石灰、飯能は鉄ですか。大変重要なエリアということになります。

先を行きましょう、上赤工、原市場と行くとここに原市場白髭神社が鎮座しています。

原市場白髭神社、二度目の訪問

明細帳によれば、霊亀二年716, 高麗人移住、高麗郡成立時に、郡内28ヶ所に祭祀した白鬚大明神の一つということです。白子神社と同じですね。

石倉、中屋敷と来て唐竹の集落に入りますとここにも霊亀二年716, 高麗人移住、高麗郡成立時に、祭祀した白鬚大明神の一つ、唐竹白髭神社が鎮座しています。

唐竹白髭神社、ここも二度目の訪問。

先を行きます、茶内には星宮神社が鎮座しています。

星宮神社、康永二年1343, 秩父の住人畠山駿河守重俊が創建、元亀二年1571, 加治修理大輔、岡部小次郎佐、久林民部少輔らによって現在地奥宮に遷座とのこと。更に元禄一五年1703には現在地に再遷座です。

星宮神社とはつまり妙見、妙見と言えば秩父です。畠山重俊という人が、どういう人か、調べてもなかなか判然としませんが、何れにしろ、だから、秩父の住人が開いたということでしょう。

秩父神社のサイトでは、秩父七妙見社、として、江戸末期に郡境の要所七ヶ所に分社を配す、ということですから、やはりここは秩父郡と高麗郡の境ということで、秩父の影響が強いということでしょうか。

また、加治修理大輔ですからここも丹党加治氏・中山氏ですね。

ほぼ一体であろう、金錫寺にも丹生神社がありました。

金錫寺、貞治5年1366開創
丹生神社

この先、赤沢、鹿戸、黒指、久林と行って秩父郡境に至ります。

その名も堺橋、橋を渡ったら秩父郡

はい、岩口から赤沢まで来ましたので、今度は根岸に向かいます。飯能駅前までは同じ道を戻る格好となります。

飯能駅も過ぎて尚進むと、、、

飯能駅前の街並み、店蔵絹甚、シルク関係の買継問屋
その2, 飯能織物協同組合事務所、飯能を支えた養蚕、織物産業の中心

、、、そこは加治村です。ここに、白髪白山神社が鎮座しています。

白髪白山神社、埼玉の神社によると、創建は霊亀二年716, 風土記では白髭白山唐土明神合社とあり、ここも、白子神社、原市場白鬚神社、唐竹白髭神社同様、高麗郡成立時に創建された一社ですね。

直ぐ先、円照寺があります。

圓照寺、平安初期、弘法大師が建立との伝承もあります。鎌倉初期、丹党加治一族の菩提寺として、弁財天を勧請し開山となりました。本尊は加治氏守り本尊の阿弥陀三尊が安置されています。

また、近くの野田白髭神社には、円照寺にあった丹生神社が末として祀られています。

野田白髭神社末社丹生神社

智観寺の所で既述しましたが、家勝が中山に移って中山氏を名乗る前は、ここ、加治を支配地としていたんです。

さぁ、先を行きましょう、本日ラストです。笹井村です。集落の入口には笹井白髭神社が鎮座しています。

笹井白鬚神社

埼玉の神社によると、

"当地は、地内に縄文中期の宮地遺跡があり、観音堂は開創を役小角とするなど、古い土地で、口碑による草分けは観音堂の別当職篠井家といわれる。当社の古称である高麗社は、高麗郡の設置とかかわるものと思われ、社記の「当社往古ヨリ一村中ノ氏神トツタへ」はこれを語るものであろう。社記はこれに続き「文明十九年笹井白鬚神社聖護院准后ノ宮回国ノ節本村本山修験観音堂滞在中本社再建御拝礼アリテ神体ヲ奉納」とある。"

と、あります。意外な、と言っては失礼かもしれませんが、本日のゴール直前で、猛暑でヘトヘトな所に大物登場でした。

整理しましょう。

まずこの白鬚さんは、例の、高麗郡成立時に創建された社の一つだろうということです。

次に、文明十九年1487, 聖護院准后ノ宮とはつまり道興がここを訪れているということです。

―――――道興 廻国雑記より―――――
これよりいるま川にまかりてよめる。

立ちよりて影をうつさば、入間川、わが年波もさかさまにゆけ

此の河につきて様々の説あり。水逆に流れ侍るといふ一義も侍り。また里人の家の門のうらにて侍るとなむ。水の流るる方角案内なきことなれば、何方をかみ下と定めがたし。家々の口は誠に表には侍らず。惣じて申しかよはす言葉なども、かへさまなることどもなり。異形なる風情にて侍り。佐西(笹井)の観音寺といへる山伏の坊に到りて、四五日遊覧し侍る間に、瓦礫ども詠じ侍る中に

南帰北去一李闌 露宿風食総不安
贏得行金乗詩景 千峰萬壑雪団々
―――――道興 廻国雑記より―――――

その、笹井観音堂です。

旧道からの参道、曲がり口に碑
現在の観音堂
内部、向かって左が役行者像、真ん中の厨子に、大同2年807, 役行者が納めた十一面観音

篠井さんのお宅、敷地内にありますので、見学させていただきたい旨、申し入れ、ご快諾いただき、ご説明もご丁寧にしていただきました。ありがとうございました。

最後に、笹井白鬚神社ですが、甲州より隠れ住んだ土屋某の屋敷鎮守稲荷社を境内へ合祀、ということで、この土屋氏は間違い無く相州土屋郷の土屋氏ですね。和田合戦でほぼ滅亡となりましたが、その後、一部は甲州へと入っています。1584年の武田滅亡の際、ここに落ち延びてきたのでしょう。横地監物、野口刑部丞、土屋氏と、エスケープ先なんですね。

土屋氏の稲荷

如何でしたでしょうか。

重層的、しかし、それぞれのレイヤは繋がっている、そういう歴史を感じました。

716年、武蔵国の高麗人1799人を集め、この地に移住させ、高麗郡を成立させた。

成木街道シリーズでも触れましたが、土地がありませんから、焼畑しか出来ません。黒指の、指(さす)は焼畑を表します。

何も無い所でしたが、鉄はあったんです。高麗人は鉄を支配したのでしょう。倭国が朝鮮半島に進出したのは、鉄資源の確保が目的の一つだったくらいですから、高麗人は鉄の扱いに慣れていたはずです。

その後、入ってきた丹党加治氏・中山氏は、先住民、高麗人との融合を図り、徐々に支配したんでしょうね。だから、丹党加治氏・中山氏の神社には聖天社が多いのです。

そして、戦国も終わりに近付くと、敗れた武将たちがここに逃げ落ち延びてきました。

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