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青梅街道シリーズ番外編、丹党原島氏

青梅街道シリーズ、これまで、、、と言っても未だ一つしかお届けしてませんでしたね。

が、早速番外編です。

上記リンクで日原を走った時、日原は、丹党原島氏が開発したことが分かりました。

少し復習しましょう。

丹党原島氏は、明応年中1492〜1501, 武州忍領原島村、今の埼玉県熊谷市から一族郎党と共に、秩父往還を西へ、秩父大宮から、浦山、仙元峠、一杯水と、多摩・秩父郡境尾根を越え、日原に移住し、兄原島丹次郎友一が日原を、弟丹三郎友連が丹三郎と小丹波を開拓しました。

今回は、この、青梅街道周辺の、丹党原島氏の痕跡をexploreしたいと思います。

□◆◇■

青梅駅まで輪行、万年橋で多摩川を渡って、吉野街道に入ります。

畑中、日影和田、下村、柚木、御嶽、中野、梅澤と行って弟丹三郎友連が開発した、丹三郎の集落です。

旧道から集落に入って直ぐ、水車があり、そこに、お地蔵さんや馬頭観音が集められていました。

集落の中程に、丹生神社が鎮座しています。

丹三郎丹生神社、武蔵名勝図会によれば、"明応年中、丹三郎友連が勧誘する社なりといふ。按ずるに原島氏は丹の党より出で丹治姓なるゆえ祖神を祭りしことにぞ。この辺より西に至る村々の里長は原島氏のもの多し、依って村々にこの神社を祭る。" とあります。

お隣の長福寺は、寛永九年1632の創建、開基は原島新左衛門友宗です。通字、"友" を使ってますから友連の子孫ですね。

長福寺

更に隣には今に続く原島家の住宅があります。

長屋門
母屋、今は飯能のお蕎麦屋さんに貸されているとのこと

さて、古地図では吉野街道はここで一旦終わるようです。万世橋で多摩川を渡りますが、そこが、弟丹三郎友連が丹三郎と共に開発した、小丹波になります。丹三郎と小丹波は多摩川を挟んで向かい合っています、二つで一つ、一体だったんでしょう。

古里駅の向こうに上って西に進むと、こちらにも今に続く原島家の土蔵があります。

原島家土蔵

また、この広大な原島家敷地内に、奥多摩巨樹の里があります。

小丹波のイヌグス

東に回り込みますと、、、

このような景色を眺めながら

小丹波熊野神社が鎮座しています。

小丹波熊野神社
神門を兼ねた舞台、奥多摩特有の形式で、他に、川井八雲神社、棚澤熊野神社があります。1778年、火災によって焼失した本殿の再建を記念して、やはり多摩地域では盛んな一人立ち三匹獅子舞が奉納され、以降、明治中期まで続いていましたが、中断し、以降は、獅子舞に代わるものとして、お囃子が始まりました。この舞台は江戸末期から明治初期の建築とされていますから、獅子舞とお囃子が披露されたんですね。

所で、丹党の祖神は丹三郎でご紹介したように、丹生神社ですが、、、

はい、ここの奥津宮が、丹生神社です。

小丹波熊野神社奥津宮、丹生神社

伝承によれば、仁寿三年854, 高山村大六天の峰に光り有り。ある夜、村人が霊夢によって、『われは熊野三社権現なり。此の里に下り国家万民を守護せん。丹生明神神主丹生和泉守に鎮座の祭祀をさせよ。』と、お告げを受け、小社を造営したのが始まりです。ですから元々丹生神社があったということになりますが、担当原島氏がここ小丹波に入ったのは1492~1501年ですから、仁寿三年854とは、齟齬が出てしまいますね。

恐らくは、明応年中1492 - 1500に丹党原島丹三郎友連が奥津宮丹生神社を創建し、その後、1500年代前半に、修験勢力の増大(目の前に御嶽山)と共に、熊野神社が勧請されたのではないでしょうか。このような、権力の移り変わりを、既述の伝承で表現したものと推測します。

そしてお隣は丹叟院です。

丹叟院

境内本堂の東側に阿弥陀堂がありますが、これは、元、嘗て近くにあった西光寺から移されたものです。西光寺は原島氏が開きました。

阿弥陀堂

阿弥陀堂の建築年は室町末期から戦国期と目されており、堂内に祀られている三十四体の観音像も同時期とされています。原島氏が小丹波を開発した時期と一致するのではないでしょうか。

堂内をかろうじて撮影

更にそのお隣、小さな沢がある所には、水神様が鎮座されています。

水神様

ここ、到着した時に冷気が漂っていて大変涼しく、昨日の雨の影響かなと思ったんですが、冷気の排出口に向かい奥に進むと、ナント!!. 洞窟がありました。

洞窟、ここから冷気が。案内板は無いし、Webでも出てきませんね。地元の方しか知らないのでしょう。5分程涼みました。

丹生神社は水神様が一緒に祀られているケースが多く、先程訪問した丹三郎丹生神社は水神様の弥都波能売命を併せ祀り、鎮座地は水神という字でした。丹三郎丹生神社が、水神様として崇められていた表れと思われます。

手前の杉にピントが合ってしまいました。真ん中の小祠が水神様です。

するとこの小丹波の水神様も、小丹波熊野神社奥津宮丹生神社に関係する神社かもしれません。

所で、原島氏が開発した所としてよく名前が挙がるのが、ここまでに訪問した丹三郎、小丹波、そして日原なんですが、これ以外にも、境、原、河内、峰、棚澤、川井、大丹波、勝沼、新町にも進出しているようです。

ということで今回は、かろうじて痕跡が残る大丹波、その途中の川井にも訪問したいと思います。境と峰にも痕跡があるようなんですが、むかし道exploreの時に訪問したいと思います。

青梅街道を東へ、途中から旧道に入り、青梅街道旧道から川井村の村内の道に入りますがそこに川井の八雲神社が鎮座されています。

川井八雲神社、伝承によれば1394年創建。丹党原島氏進出前です。

ここは丹党原島氏とは関係が無いようなんですが、先程の小丹波熊野神社同様、神門舞台がある神社です。

神門舞台、上記境内写真の石垣は観客席、桟敷です。

そしてこの先には蟠竜院。

蟠竜院

扁額を見て下さい。天照山、です。はい、守護神が天照大神なんですね。

丹生神社の祭神は丹生都比売大神ですが、奥多摩町史によると天照大神と同一視されていた節がある、ということですから、もしかしたらこの蟠竜院、丹党原島氏の痕跡かもしれません。

小丹波熊野神社の境内社、真ん中が先程も紹介した丹生神社、向かって右が狩場神社、左が天照大神です。

丹生神社本社は、第一殿丹生都比売大神、第二殿高野御子大神(狩場明神), 第三殿大食都比売大神、第四殿市杵島比売大神が併祭されています。狩場明神は第一殿丹生都比売大神の子神で、第三殿大食都比売大神、第四殿市杵島比売大神は鎌倉時代に追加となっていますから、第一殿丹生都比売大神、第二殿高野御子大神(狩場明神)が事実上の祭神ということになります。

上記写真の通り、小丹波熊野神社もこれに倣ってるんですね。丹生神社と狩場神社を併祭していますから。

奥多摩町史によれば、日原の丹生神社も同様に、狩場神社を併祭しているとのことです。

この併祭という視点で見てみると、奥多摩の丹党原島氏進出の村々では、既述のように、まず、丹三郎丹生神社では水神様が併祭されています。小丹波は天照大神の荒魂神、日原はその両方が併祭されています。

丹党原島氏進出の村々では、どうも、この二柱を併祭したがる傾向があるようで、小丹波と日原で、主神の併祭として天照大神荒魂神が存在することから、主神は天照大神そのもの、と、捉えることが出来る、そう、奥多摩町史を読んで、私は解釈しました。

だから蟠竜院は、川井の、丹党原島氏の痕跡だし、小丹波熊野神社で、丹生神社に併祭されていた天照大神もその痕跡だと、想像たくましくしたのです。

先を行きましょう、こんな絶景を眺めながら。

道すがらの絶景、奥多摩大橋

さて、村内の道から村道に合流し、釜めしなかいから激坂を押しで再び村内の道に入りますが、入り口の向こうにこれが。

原島商店、ここはもう大丹波村ですが、痕跡ですね。

村内の道を行くと青木神社があります。

激坂を押し、青木神社

元々、子ノ権現があった所に、村内の神社を合祀し、青木神社として改めて創建ということです。

この子ノ権現、飯能の子ノ権現天龍寺に向かう参詣者が立ち寄る為の子ノ権現と言いますか、一の鳥居的な意味合いがあったそうなんです。

ここから名阪峠、上成木、小沢峠に行けば以降は鎌倉街道山ノ道で秩父に至ります。途中、上名栗、豆口峠と行けば子ノ権現天龍寺です。

今昔マップより、図中左中の大丹波から右中の上成木には村道クラスの道が通っています。今は登山道ですが実は名阪峠まではT202です。

更に先に進んで、棒ノ嶺からゴンジリ峠、下名栗からは鎌倉街道山ノ道という畠山重忠伝承ルートもありました。

今昔マップより、左下の家マークが奥茶屋、そこから棒ノ嶺に一本点線徒歩道が伸びています。多摩・秩父郡境尾根を東へ、直ぐに北東に折れるここがゴンジリ峠ですが、ここから一本点線徒歩道が北東に伸び、名栗に至ります。

ということで、大丹波は正に秩父への玄関口なんですね。

多摩川左岸で秩父への玄関口と言いますと、はい、日原です。

ですから、丹党原島氏兄丹次郎友一は浦山から仙元峠、一杯水、日原と進出し、弟丹三郎友連は、日原経由ではなく、秩父から直接、ここ大丹波に入ったのではないでしょうか。だから、ここ、大丹波、川井、小丹波、丹三郎なんでしょう。これはむしろ大きな痕跡と言えるかもしれません。

ということで、まずは、青木神社から大丹波川を遡上し、二つ目の古地図で示した、棒ノ嶺への取り付きに向かいます。

棒ノ嶺への取り付き

折り返して一つ目の古地図で示した上成木への村道に向かいます。

ここに道標がありました。

道標
右はちちぶ道
左は山道
山道とは先程の棒ノ嶺ルートです。
T202, 名阪峠に向かう林道の様子です。登山道になる所まで行くつもりでしたが、猪の掘り返しが物凄くて、恐怖のあまり、ここで引き返したのでした。

極めて危険の猛暑日なので、青梅まで行って輪行でもう帰ります。


如何でしたでしょうか。

丹党原島氏については、青梅街道シリーズで日原を訪問するまで、全く知りませんでした。

しかし、今回、事前机上explore, そして実走してみて、非常に興味深かったですね。

丹党原島氏の足跡を通じて、秩父と奥多摩の繋がりを見たように思います。そのゲートウェイが、日原と大丹波だったんです。そしてその繋がりは、奥多摩から檜原、そして上野原へと続くのです。


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