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2024年映画評 千と千尋

2024年に公開した映画ではなく、私が個人的に見た映画を話します。
「千と千尋」はあまりにも有名なので話すまでもないでしょうが、あまりに見るものがないので録画しておいた昔のものを見ました。

話は都会から田舎に引っ越した小学生の千尋が不思議な世界に迷いこむというもの。

この映画に関しては散々議論されているので、私が簡単に付け足します。
一般に言われているようなことではなく、私の視点からお話します。

まず千尋は都会から田舎に引っ越す。
道中、家族の車は森林の中の人工物=トンネルを見つけ入って行くとそこは不思議の世界だった。
これはいろいろ解釈があるでしょうが、私はこう考えます。
それは「自然界の霊界」。
つまり、人間にも霊界はあるのですが、ここに描かれるのは人間の霊界ではなく、自然に限定された霊界あるいは霊次元なのです。
ですから登場人物は全て人の姿をしているけれど人ではなく「動植物」というわけです。
途中出て来る汚れた神様というのはきれいになると「川」だったと明かされますが、ハクもそう。龍の形をしているけれど、川の霊。
しかしかつてあったその川があった地にはもうマンションが建っており、実際にはもうない。つまり、ハクは元々川だった霊なのです。物理世界にはないけれど霊界にはいるというわけです。

千尋はこのハクに助けられます。
言い換えるなら、彼女は「自然」に助けられるのです。彼女は川と親しんだからです。純粋な心で自然を大事にしたのでしょう。

そこで私は言いますが、
神社の「神」も「自然」なのです。
そして自然が具現したのが動植物。犬や猫もそう。牛や豚もそうです。
しかし人間たちは平気で、嬉々として、意識せずにそれらを殺しています。だって、みんな肉を食べるでしょう。それは自然を大事にしていることなのだろうか。
殺しておいて、守られるだろうか?
もしあなたが助けられたいなら、自然を大事にする方向にもっていった方がいいでしょう。

カオナシは私が以前話しましたが、「欲」。これは千尋が人間なので、人間である千尋の感情の側面としてあるいは親の側面としてついてきたわけです。カオナシが千尋に固執していたのは、「欲が人間を呑み込もう」としていたから。
最後にカオナシは銭婆に引き取られますが、これはおそらく、千尋や家族は強欲から解放されるということ。おそらくこの家族は都会を離れたため、都会で持っていた金銭欲、名誉欲、出世欲そのようなものを以降、持たなくなるだろう、ということなのでしょう。
千尋が誘惑に乗らなかったのはそもそも彼女に欲がなかったから。

カオナシは黄金を出して誘惑しますが、今世界では戦争などで国の通貨が落ち、金の価値が上がっています。
あんまり欲を出すと、カオナシ=欲に呑み込まれますよ。(化け物になってしまいますよ)

私が思う人間の「欲」とは、金銭欲、名誉欲、性欲です。
これらをむさぼるとカオナシに呑み込まれ、怪物になってしまいますよ。

その実例がいます。
芸能人、政治家、財界人、医師、弁護士、東大生、などなど
ただしその中の一部、ということにしておきましょう。

では湯婆と銭婆は何か?
私もよく分かりません。
おそらく湯婆は自然霊を浄化するもの。自然のサイクルか。
しかしその際、対価をもらう。それを転換させるのが本来の銭婆か?
劇中、銭婆はこういいます。「私たちは本来、二人で1つなんだがねえ」
つまり、この二人は二人で本来1人ということ。自然を浄化してサイクルさせるということか。
しかし本来それが出来なければいけないのだが、それが出来ていない。

自然界がうまく機能していないということなのかも知れません。
つまり、世界は人口物が増え、本来の自然の姿ではなくなっている。アマゾンですら森林が破壊されています。
地球温暖化の原因はそんなところにもあると思います。樹木の呼吸が減っているのですから。

ボイラー室にいる蜘蛛爺は、おそらく昆虫を象徴。
昆虫は自然界で、死骸を食べたりして、いわば掃除しています。だから湯舟を洗うための仕事をしているということなのかも知れません。

千尋の父親と母親が豚になるのは、彼ら都会人が「むさぼる」傾向にあるということです。
出世欲、他人を蹴落としても前に出ようとする、ネットの承認欲求、女を貪る男、明治大のテニスサークルのように女を眠らせレイプする、政治屋どもは国民のことではなく自分たちの保身と名誉と金。

田舎の人がクリーンなわけではないけれど、宮崎の思想ではそうなのでしょう。
黒沢の「七人の侍」を見ればわかるが田舎の人もあざとい。日本人が外人をおもてなしし、同国人をないがしろにするのに似ている。
人間世界は穢れた世界なのです。

ビリージョエル風に言えば
「だからこそ私はあなたに誠実であることを求める」

映画とは感じるもの。
でも、それぞれがこういう風に考え糧にしなければいけません。なぜなら芸術とはそのためにあるから。
もしそれが暴力を肯定し、他人を蹂躙し、堕落し、好き勝手なことをするためのいいわけにするものであったら、それは芸術ではないのです。
音楽でも映画でも。


ココナラ
姓名判断

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