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幸福欲

都会を好み、いわゆる今時の若者であるところの弟から言わせてみると、僕は「仙人みたい」らしい。

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都市部出身である僕は、ずっと前から望んでいた自然溢れる地方暮らしを体現し、さして流行り廃りや都会の利便性にも全くと言っていいほどに関心がない。

欲しい物は何かある?と誰かに聞かれても頭を抱えるばっかりで、物欲もからっきし…

厳密に言うと、欲しい物はもちろんある。
だが、ノートパソコンやソフトのライセンス等のデバイス周りや観葉植物・本など、どれも買いきれなかったり面倒が付き纏ったり、じっくり吟味して選びたいものなのであって人に買ってもらうのには適さないのだ。

そうやってネガティブな部分にばかり目がいってしまう僕の癖もあるが、それ以上に“物”そのものに対して執着が少ないのもある。

流行りに興味がないので、道具として一定の役割を果たすのであれば細部に対してこだわりが薄いようだ。

また、プレゼントが苦手だという感触もある。
親に何か買ってあげると言われた時、そこに必ず親の意図が内在していた。自由に選んで良い訳ではなく、親の目線において良さげなものを選ばなくては、難色を示すのだ。

そうやって見かけだけの親切心を振りまかれ、毎度やんわりと、しかし確かに僕の自由意志は否定され、プレゼントという行為に対する諦めと拒否反応が生まれたように思う。

人からもらうものはその人のエゴに塗れた何かであり、僕の意志や望みとはかけ離れた代物なんだ。ならば最初から断っておこう。

そう思うし、人に対してプレゼントをする時もその人の望みを憶測することに確証が持てず、直接聞いてしまったり誤魔化してしまう。

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僕の物欲について探り、自身の抱える心の傷が垣間見えたところで、本題へ。

要するに物欲がないと人には言われているが、仙人と呼ぶにはあまりにも煩悩まみれである。
ではその中で僕の抱える最も大きな“欲”は何か?

それはすなわち「幸福欲」である。

自らの幸せをとことんまで追求しようとしている。
言い換えると、心に抱える寂しさをあの手この手で癒そうとする力学だ。

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僕の思う幸福とはきっと自己の肯定であると同時に、文化を楽しみきることでもある。

要するに、僕がやりたいことをめいっぱいやれるのが幸せな状態ということだ。

子供の頃抱えてしまった不自由さや緊張感、技術/知識不足に由来するもどかしさや歯痒さを解消し、それらをある種リベンジしているんだろう。

技術や知識を学べば自分の理想とする遊びができると考えていて、そういった好きな文化についての学習や実行が自分で責任を負ってできることに自由と幸福を感じていた。

同時にその念が強すぎたせいで遊ぶためには学び、向上していくべきであるという自らが新しく設定した緊張感や、今手元にある自由度が少しでも削がれてしまうことへの強烈な拒絶が生まれてしまってもいたのだった。

この渇望と呼ぶに相応しい幸福欲を追求すべく、人生の時間の大部分を捧げる“仕事”を最も好きな文化であるデザインとアートにしようと奮闘し、同時に好きな日本淡水魚から由来する環境問題への取り組みにも力を入れている。

本当に有難いことにそれらの活動は段々と軌道に乗りつつあり、もちろんまだまだ先は長いが、それでもただただ夢に見ているだけだった時よりも少し行く先が見通せるようになってきた。

つまり幸せになってきた。
昔の自分が遠く夢に見ていた世界へ飛び込み、その海を泳げているのだ。

そうすると新しく見えてきたものがある。
僕はずっと新しい自分になるために努力してきたつもりだったが、向いている方向は常に過去であり、後ろを向きながら前へ歩いているような状態だったのだ。

なので、しっかりと前や足元を見ることにしてみた。

すると僕が本当にやりたい仕事は「人助け」なのだと判明した。


それはビジネス的側面でスキルによって行うことと同時に、弱ったり自信を失ってしまっている人の心に寄り添い、励ますことも含まれている。

仕事の前に一人の人間同士として、助け合って生きたいのだ。

そして、僕は誰かに人として一緒に居たいと思ってもらいたいと願っている。裏を返せば僕は誰かと一緒に居たいと願っているのだ。

自由を追い求めていた頃には見えなかった、僕の中の新しい幸せの形が少しづつ輪郭を帯びてきた。
僕はこれからも幸福を追い求め続ける。その動きの中で他の人の幸福も尊重し、助け合って共に生きていける世界を夢見ている。


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