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短歌まとめ(2022年7月、25首)注釈付き

#今日の短歌でつぶやいた短歌のまとめと解説コメント。


「新仏(あらぼとけ・しんぼとけ・にいぼとけ)」は、死んで葬られて間もない人。生きてはいるが生き生きと詩を吟じることのできない歌人の微かな枯れ声と、何も語らない死した人の対比を意識した。死人に口なしとは言うが、死人の耳なしとは言わない(「耳なし芳一」は、死霊と交感してしまう琵琶法師の怪談であるが)。ひょっとすると、死人はどこかで生きている人の声や歌を聞いているのかもしれない。死人の耳に響くような言葉を届けてみたい、生きた人にすら届かないことも往々にしてあるからこそ。


「夢違え」は、悪い夢を見たとき、正夢とならないようにまじないをすること。汗をかくほどの悪夢を(あるいは汗をかいたから見た悪夢を)、解消するために意識朦朧としながらも夢違えをし、寝返りをうちながら、夢と現(うつつ)を往復しているさまを詠んだ。悪夢と現実の断ち切り難いあわい・境界を感じて身悶えをしている。


足音と簡単にいうが、それは足の音なのか、足が踏みつけた地の音なのか。禅問答の有名な「隻手音声」(そうしゅのおんじょう)を思い起こさせる。両手で拍手をすれば音が鳴る、では片手(隻手)ではどのような音が鳴るか? 足音とは言いつつも、それは「足の音」ではないのではないか。足裏と地とが合わされたときに生じる音。力強く踏みつけるのか、静かに忍ばせるのかは想像に委ねるところだが、それとは別の、足だけの足の音を聞いてみたいものだ。


大きなあくびと、(口の中を)出入りする小さな虫との対比。また、あくびの呑気さと、羽根をまわして根回しに奔走(奔飛?)する虫の忙しなさとの対比。一寸の虫にも五分の魂というが、ひとつの命にとって、死ぬことも生きることも、小さいようで大事である。大事ではあるが、ひとつの小さなことでもある。虫歯のような小さな傷も、大いに人を苦しめるだろう。


ニーチェの『ツァラトゥストラ』に、「誰がみんなに必要とされているのか知らないの? 大きなことを命令する人よ。」という一文がある。実際そうかも知れない。自分で考えて、自分に何かを命じるのは面倒なものだ。誰かに命令してほしい、しかも、なにか意味のある、価値のある大きなことを命令してほしい。あとでどうなっても、「命令されたのだから」という言い訳で自分を許すことができてしまう。矮小なようで尊大な、命令されるものの命令を求める態度を歌にしてみた。「夜明けが告げる」としたのは、命令(めいれい)の音の転倒としての黎明(れいめい)を意識した。


たちつてとの音を意識した歌。衝立という空間を仕切るものに、絡みついていく植物のツタが、境界を越えて伸びていこうとするが、終には枯れ、離れて除けられてしまう悲哀。


毎日書くのになんだか疲れてしまったときの歌。続きは明日の自分か、あるいは明後日に全然関係ない君や誰かが、書き繋いでくれるかも知れない、という根拠もなく見込みも薄い希望を歌う。プリニウスは、「書くことがないなら、書くことがないことを書け」と書いたとか。そんな気分で書けばよい。


不健康歌。視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚、五感すべてが頼りない、何らかの異常をきたしている。だがそれでも、そうでありつつも、何かをそのあと続けたり始めたりしたい。そんな思いを込めている。


エセ沓冠(くつかぶり)の歌。「くつかぶりくつかぶり」の十音を、「く〜く・つ〜つ・か〜か・ぶ〜ぶ・り〜り」のように各句の初めと終わりに読み込んでいる。燕などはヒナのために貝殻を運んで与えるものもあるらしいが、一つところで死んで積まれた骨・殻と、頼りなくも飛び立つ小鳥の対比を意識している。


毎日書くことに疲れた感じの歌その2。気楽に見えて苦心して産んでいるんだよ、と言ったり書けたりするうちは、そのぶんだけ気が楽になっているのかもしれない。苦しいことは苦しいと書き捨てて、自分から切り離してしまうような、小賢しいような、すこし自嘲的な気分の歌。


蚊の歌。「モスキート、もすきと、キスモード」の音を合わせている。血を吸う蚊は、産卵の栄養補給のために血を吸うので、メスである。蚊のように吸い付いてくる彼女、鬱陶しくて蚊取り線香よろしく煙に巻いたら、蚊帳の外に寝るように距離を置かれてしまった、という場面を想像した歌。


オペレッタはセリフと踊りのある喜歌劇のイメージ。「愛している」という言葉に愛があるかは実のところわからない。嘘と詰っても、そもそも言葉で愛を証そうとすることが無理筋なのではないか。ならば芝居がかかったセリフであろうが、嘘であろうが、愛については罪はない。軽佻浮薄なようで、ひょっとすると、愛はべつのところにあるのかもしれない。言葉だけで探さなくても良いのじゃありませんか、という思い。


死についての詩。『ボヘミアの農夫』でヨハネス・フォン・テプラが言うように、死を定められた人は、誰でも地球上の「旅人(異邦人)」のようなものだ。いつまでもいることはできない。この時代に、この国に、この場所に、この社会に、このサービスに…。だが同じように、時代も、国も、場所も、社会も、サービスもまた永遠ではない。太陽は膨張し、銀河の星々もいつかは潰え、宇宙は熱的死を迎える(らしい)。時の歩みが異なるだけで、いつかはいつか訪れる。では、わたしはどうするのか? それが肝心である。


自意識の歌。でも見てほしい自分が、コピーのコピーの紛い物だということには気づいている。また同時に、自分を見てくれる奇特な人ですら、自分を通してその人自身を鏡のように見ているに過ぎないことも理解している。それでも見てほしいという渇望の声。


昼過ぎの台所、昼前に何かを作るような前向きな気持はなく、ぼんやりと感じる空虚。わたしが空虚なのではなくて、空虚がたまたまわたしの形をとっているだけなのかもしれない。それもひとごとのように揺らめいて、形を保ち続けることもできない。そんなときもある。


アルチュール・ランボーについての詩。ランボーは今更説明するまでもないかも知れないが、フランスの歴史的詩人で、16歳から詩作をはじめ、19歳で詩作をやめた、紛うかたなき天才である。シュルレアリスムやダダイスムなど、後世に与えた影響は凄まじい。一方、対比されるぼくは、29にもなってまともに筆も下ろせない。二重の意味で、苦しいことだ。おお歳月よ、あこがれよ…。


三好達治は「昨日はどこにもありません」という詩を書いたが、まぁ明日もどこにもないよなぁという気で詠んだ歌。いつも明日は明日にあって、明日になってもその次の明日に行ってしまう。何かが始まりそうな予感はいつも先にあるだけで、現実は現実としての今日が日々始まっていくだけなのである。だから今日から始めることが大事だとも思うし、無理をして今日の内に終わらせることもない(どうせ今日の続きの今日が来るのだから)。ジョジョの奇妙な冒険の「明日って今さ!」と通じるところがあるかも知れない。


毎日書くことに疲れた感じの歌その3。キリがないのに霧のなかとはこれいかに? でもまぁ、いつかはわたしも霧も消えるし、キリがつけられるわけではないけど、つける誰かもまるごと消えるのだから、気に病みすぎてもしようがないのでは? 思い悩もうが思い悩むまいが、思い悩みも永遠に持続はしない。なら存分に悩んでみるのも、生きている間の特権のようなもの。落ち着いて何所に向かうか、あらためて考えればいいのさ。


「情景」などともいうように、人間はしばしば、自己の内面と外的な環境・物質を結びつけたり対応させたりして、感動したり表現したりする。ありふれた例で言えば、「花が散る」ということに、恋や命の終わりを重ね合わせて、人の身や想いの儚さに感じ入ったりする。しかしそれは人間からの恣意的な関係づけに過ぎないといえばそうだ。外的なものをつぶさに観察してみると、それはそのものとしてそこにあり、ぼくのこころが入り込んだり、重ね合わされたりする余地がないようにも思われてくる。こころに適切なかたちを与えることは簡単ではないが、気長に探すほかないだろう。


国語の授業では「作者の伝えたいことはなにか」という問題が往々にして設定される。それ自体はいい。それを考えるのは大事なことではある。だが「伝えたいことはなにか」という聞き方をされると、まるで「伝えたい誰か」が居て、「伝えたいこと」も作者の中で明確になっているかのような印象を受ける。しかし、本当に「言いたいこと」が明確なのであれば、作者はそのまま、力強く、伝えたい誰かだけに告げたのではないだろうか。けれども現実はそうしていない。回りくどくも何かを作っている。ひょっとすると、自分自身でわからない、明確に形になっていない「言えなかったこと」が、作品として形を与えられることではじめて、ぼんやりと姿が見えてきているのではないか。読者にとってだけではなく、書いてみた作者にとっても。


自分を知るのは難しい。ランボーは「私とは一個の他者なのです」と言った。自分や、世の中、外的な世界、余所の文化どころか、目に映る身近なものたちについてすら、我々は多くのことを知らないでいる。知らないで済ませられてしまう。そのことを知るのも、知ろうとしてみてようやくのこと。それを知った先にまた、これほどまでに自分が知りたいと思う自分を、知りもせず、知ろうともしない多くのもの・他者のことを知るのだ。もちろんそれは、自分が多くのもの・他者を知ろうとしていないのと同様のことに過ぎない。


誰も見ていないくらいところで、何かが終わった残骸が残されているのか、はたまた何かがはじまったあとなのか。「埃」は「誇り」の掛詞。脱がれた殻に、古びたホコリが被さっている。


あさしきさま
 さしくて
 さざむしくて
 さざめと
 さしくて
「さ」と「まみむめも」の字を用いた歌。兎に角寂しくて、でも自分の境遇を哀れんでいる自分自身が何より惨めに思えてくる。そんなときもある。


全部を知っているのなら、構成要素である一部分も知っているはずだ、と思われるかも知れない。でもそんなことはないんじゃあないか。全部を知っていたら、一部を見逃してしまう。もうそれ以上知る必要はないから、ぼくの一部がこんなにも素晴らしく魅力的で、ありふれて欠けているということにすら、気づく余地がない。全部だと思っていたものが、実はごくごく一部で一面的に過ぎないということに気づくまでは。


電車にのったとき、スマホで漫画を読んでる人を見て思いついた歌。電子的な世界の漫画に視線が集中して想像界に没入している人と、その人の視界の外である首の後ろから傷痕を舐めるという肉体的で現実に引き戻す行為を対比させてみた。「選り抜き」は「抜き襟」にかけている。夢中で読みたい優れた漫画と、うなじがよく見える抜き襟と。舐めたあとどうするのかは具体的に考えてはいない。現実で真似しちゃいけないよ。


「生き生きとした言葉」があることは否定しない。でも「生き生きとした言葉」という言葉は、自分にとってあまり生き生きとしてこないのだ。困ったことに。どんな言葉も読まれたり口にされたりしなければ「死んだ」ままだし、読まれ、声に出されてみれば少なからず「生き生きと」してくるものではないだろうか。息を吹き込み・吹き込まれる生命賦与は、言葉が生き生きとしているかどうかという内容面に関わらず、ただ人と言葉との交感によってなされるのではあるまいか。であれば、「生き生きとした」という言葉が単に元気がある、活気にあふれているという程度の意味なのであれば、それを過度に求める人間たちは、生かされたのではなく、むしろ「生き生きとした」言葉のイメージに「殺されて」、ほかの生き方を見失ってしまったのではないか。「生き生きとした」以外の生き方を許容できず、自分のイメージで自分を縛り、むしろ何度も何度も「生き生きとした」言葉で繰り返し「殺される」ことを望む亡霊となってしまう。あたかも「幸福」の強大なイメージが、ただそれに値しない「不幸」な人間のみを生み出してしまうように。


以上。
これらは注釈なのか解説なのか自己解釈なのか、いずれにせよ他者に期待できる身分ではないのだから、そうしてみたいと思ったときにそうするのが吉というものだ。それを判定しうるものは何所にも居やしない。

蛇足だね 蛇より長〜い 蛇足だね 書いてしまった つい楽しくて


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