思ったよりしんどかった『ラストナイト・イン・ソーホー』


※『ラストナイト・イン・ソーホー』のネタバレありの感想、またそれに基づいて浮かび上がった疑問のメモです。答えはなく、自分の中の整理的な意味でも文章をまとめています。否定的な意見もありますので、この作品が好きな方はすみません…汗


『ラストナイト・イン・ソーホー』の魅力と、しんどいところ


少し前の映画だが、『ラストナイト・イン・ソーホー』を鑑賞した。
『ベイビー・ドライバー』や『ホット・ファズ』で知られるエドガー・ライト監督。

ミュージックビデオ的なテンポの良いカット編集や、音ハメのような演出が印象的なのだが、予告から、そのセンスが光っていて、公開当時から楽しみにしていた。
しかも『クイーンズ・ギャンビット』のアニャ・テイラー・ジョイが出演するのだから、もう期待度MAXである。

しかし、なんやかんやTwitterのTLに流れてくる感想が色々で、結局見るのを躊躇っていたら、ここまできてしまった。

そしてやっとこさ、昨日アマゾンプライムで鑑賞したのである。
が、、これが思ったよりもしんどかった…

いや、まず良かったところから挙げておこう。まずサンディを演じたアニャ=テイラー・ジョイはもちろん、主人公エロイーズを演じたトーマシン・マッケンジー、二人が魅力的。また60年代のロンドンの街並みや、ファッションはキラキラしていて、古めの時代のファッションが好きな私にはたまらなかった。

それから幻想と現実が入り混じっていく、トリッキーな映像もすごく好みで、夢から覚めたと思ったら、まだ夢の中…みたいな、多重構造は大好物。鏡を使った入れ替わり、立ち替わりの演出も物語への没入感を高めてくれて、自分の主観が狂っていくような、そんな体験をするのは面白かった。

でも手放しでは褒められない。
というか、正直後半にいくにつれて、失望していった。


軽くあらすじを引用しておこう。

ファッションデザイナーを夢見るエロイーズ(トーマシン・マッケンジー)は、ロンドンのソーホーにあるデザイン専門学校に入学する。しかし同級生たちとの寮生活に馴染めず、街の片隅で一人暮らしを始めることに。新居のアパートで眠りにつくと、夢の中で60年代のソーホーにいた。そこで歌手を夢見る魅惑的なサンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)に出会うと、身体も感覚も彼女とシンクロしていく。夢の中の体験が現実にも影響を与え、充実した毎日を送れるようになったエロイーズは、タイムリープを繰り返すようになる。だがある日、夢の中でサンディが殺されるところを目撃してしまう。さらに現実では謎の亡霊が現れ、徐々に精神を蝕まれるエロイーズ。果たして、殺人鬼は一体誰なのか、そして亡霊の目的とはー!?

Filmarks

まず、映画館で見るのをなぜ躊躇っていたかというと

①ホラー映画という噂を聞いたから。(単純にこれは私の好み、なのと、あまりに痛々しいと冗談でなく気が遠くなるタイプの人間なので、映画館という逃げ場のないところに鑑賞しにいくには、内容を結構調べてからいく。サブスクとか小さい画面で観る分には軽減されるので、良いんだけど)

②#metoo運動の流れに沿っているように見せかけて、実はそうではない、という前評判があったから。

で、観賞後。
やっぱり映画館に観に行かなくて良かった…と思ってしまった…
それは内容以前に、やっぱり血の描写が気絶案件の映画だったってだけなんだけど。『最後の決闘裁判』の時も、映画館に観にいかなくてよかった…って思い、それとおんなじ理由。

んで、その血みどろ描写については私の耐性の問題なので、一旦置いておいて。

その描写と展開…いかがなものか。


あーーーーやめてくれーって思ったのは、結構生々しい性暴力の描写や、女性が日頃から感じる恐怖が描写、というか物語の演出として登場していたこと。
例えば、主人公エロイーズがコーンウォールから、ロンドンに出てきてタクシーに乗るんだけど、そのタクシー運転手のちょっとした目線とか、セリフとかが気持ち悪くて…普通に怖い。

物語後半で、実はそんなに悪い人ではなかった?と思われる銀髪のおじいちゃんも、ミスリードとはいえ、女性に恐怖を抱かせるには十分な挙動をする。
それを物語の展開のために、「実は風俗取締りの警官でした」とひっくり返されるのも印象がよくない。
なぜなら、結局女性主人公のエロイーズが間違っているように見えるからだ。
しかも、その老人がエロイーズのせいで、車に轢かれたように見えるし!

例え、あの老人がサンディを殺したわけではないとしても、エロイーズが恐怖を抱くには十分すぎる行動をしている。
そんなの信用できるわけない。しかし、エロイーズのせいで車に轢かれたように見えてしまっては、結果の事の大きさゆえに、エロイーズの過剰反応とも捉えられかねない。(過剰反応ではない)

ていうか観てる人はその「実は風俗取締りの警官でした」という設定を鵜呑みにしてはいけない。鵜呑みにしなければ、少しは意義あるメッセージにはなるかも。
宇多丸さんの映画批評で、あの警官がグレーであり、何を見てきたのか、本当の意味ではわからないところが、ある意味深みにはなっている、というような主旨のお話があったのが印象的だ。

しかし、その設定を鵜呑みにした場合、その着地点からエロイーズの勘違い、という風に端的に結論づけることができてしまう。

そう見えてしまうことは、よくない。
現実世界でエレベーターの中、男性、と思われる人と二人きりになると警戒という意味で緊張したり、夜道も後ろから誰かついてきてないか、確認したり、そういう自分の身を守るための行動を「自意識過剰」という言葉で片付けられる風潮に似てるから。

それは勘違い、じゃないから。

そういった直接的ではないが故に、罪に問われにくく、不快感を感じる挙動の演出が多くて辛かった。

つまりその描写を物語として消化できないというか。。

最近よく思うのだけど、これをエンタメとして観れるのは、日頃こういった恐怖にさられることがない人なんじゃないかと思う。

他にも、「まさか、こういう展開にはしないよね?(なったら最悪だよ?)」という展開を順当に踏んでいく。

なぜか私は観る前に、この作品はタランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のような物語の力を使った過去の書き換えのお話だと思い込んでいたのだが、全くそうではなく。

結局60年代を生きていたサンディは救われない。(少なくとも私には救いには見えなかった)
そして狂人アレクサンドラとして登場してしまう。
結局、搾取され続けた結果、狂ってしまう、みたいな、狂人にしてしまうのもなんかなあ…と…
あと殺された男性達の手が、出てきた時も「まさかこの姿で、助けてくれとか言い始めないよね…?」という予想が的中してしまい興醒め。

とまあ、作劇的に、「この展開にいったら、メタ的に見てやばくないか?」という展開にしかならなかったので、ラスト30分くらいは最後まで観るのを何度か断念しそうになった。

せっかく映像表現も、面白くて、すごくお洒落なのに、もう全部吹き飛んでしまう。こう、サイコホラーをやりたいのであれば、なんか違った題材にして欲しかった。そしたらもうちょっと楽しく見れたかもしれない。。。なんて思いつつ。

そこから考えた、いろんな疑問

ここから少し話題を派生させて色々と考えてみたいと思う。
まず思ったのは、同じように女性への暴力や搾取を題材に扱った『プロミシング・ヤング・ウーマン』とは何が違ったのか。

個人的に『プロミシング・ヤング・ウーマン』はなぜか面白く観れてしまった気がして、(しかし、この映画も私は映画館で見れない気絶案件映画ではあるw)『ラストナイト〜』と何が違ったんだろうと興味を唆られる。
色々考えた時、いくつか思いつくのは

・性暴力の直接的な描写がなかった。または何度も、はなかった。
・主人公(女性)のキャラクターが典型的な「女の子」ではなく、複雑な、色んな側面を持ったいち人間として描かれていた。(現実世界で「こうあるべき」とされる女の子、からもはみ出していつつ、それでも女の子を謳歌してたの)
・結果的に、罪を犯した側がそれ相応の償いをすることになった。

上記が相対的に違かった点かなと個人的には思う。
で、でもこう考えていったときに、まだ疑問点はたくさん出てきちゃって。

この三つ目の
・結果的に、罪を犯した側がそれ相応の償いをすることになった。

これってつまり、普段抑圧されている部分が、物語の力でスカッとすることに繋がってくると思うんだけど、それって男性から見たらどうなんだろう、と。
現実世界で抑圧されている側の人間が見たら、「そうだ!これが正しいのだ!」と、よくぞ代弁してくれた!と思うし、今まで抑圧されてこなかった側が作った作品を楽しめなかった分、やっと面白いと感じる作品が出てきた、という感情もある。

でもやはり仕返しをするだけでは意味がない気もするのだ。

もしかしたら、そんなことは気にしないで見たほうがいいのかもしれないけど、でも何か物を作る人間の端くれとしては色んな意見が気になってしまう。

誰もが傷つかない表現をすることは、物凄い困難だということもわかっている。(でも決して諦めてはいけないとも思う)

何が言いたいかというと、社会的なメッセージを込めた作品によって、構造的に抑圧してきてしまった側に、みんなは何を求めているんだろう。とふと思ったということだ。(別にネガティブな意味じゃなくて、ただ本当に興味が湧いたという)

反省して欲しいのか、謝って欲しいのか。
もちろん一番良いのは、現代の問題点に気づいて、しっかりと根本から変えて行こうと行動を起こしてくれることだ。
でも、そういう人は何人いるんだろう。

ああ、自分の勉強不足を露呈しているような気がするが、「自分たちの物語」を語るということはどういった効果や意味があるのか興味が沸いた
ということなのだろう。この部分に関してはもう少し色々勉強したほうが良さそうだ。

今回、『ラストナイト・イン・ソーホー』で抱いた違和感というのは、やはり普段の世界をどのように見ているのか、そのレンズが違ってしまったということが大きいように思える。

作品は多かれ少なかれ、その作り手の目から世界がどんな風に見えているのか、作り手の目をメガネのレンズのように加工して、観客に見せる役割を果たしてしまう。特に映画においては、観客が見れる場所を監督がより限定するが故に、作り手がどう世界を見ているのか、如実に現れてしまうことがあると思う。

そう考えたときに、『ラストナイト〜』は女性の目から見た世界ではなかった、『プロミシング〜』は女性の目から見た世界だったんだろう、と両者を比較したときに思う。
でもこう言い切ることもまた、分断を生んでしまいそうでしんどい。

じゃあ物語って必ずしも当事者が語らないとダメなの?っていう疑問も生まれる。それはそれで暴力的だ。

今の世の中では繊細な問題ほど、当事者が語るべき、というか当事者にしか語れないのではないかと個人的な結論が出たりもした。
あるテーマを扱う時、それが社会でどういう意味になるのか、変化が速く、様々な問題提起がされている昨今、それを発信することを考えると必然なような気もしてしまう。が、それは同時に作者のアイデンティティを強制的に公表しなくてはならないという暴力性も帯びている。
また、何かしらのマイノリティでなくてはならない、というような見当違いの強迫観念も出てくる。
当事者でなくても素晴らしい作品を作っている人はいるし、想像力というものを蔑ろにしているような気もする。

私はやっぱりどこかで人間の想像力というものを信じたいし、物語を信じたいのだろうな。
だけどそれを純真に信じて、好きでいる自分と、そうもしていられない世界の複雑性に、自己矛盾に、精神が分裂していきそうな感覚がある。

どうしても作品内容と作者と社会を切り離して考えることができない。
無邪気に楽しむことができない。

だからと言って痛烈に批判して、キャンセルしていくことも、正解だとは思えない。少なくとも私が作り手側にいる限り、それは難しい。

確かに『ラストナイト・イン・ソーホー』は私にとってはしんどいものだった。でもどうしてそうだったのか、どうしたらそうじゃない作品になったか、は考え続けたいと思う。



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