「クルエラ」の感想と見せかけ、”悪役”について考えたこと

原題:Cruella
監督:クレイグ・ガレスピー
脚本:アライン・ブロッシュ・マッケンナ
   ジェズ・バターワース
   デイナ・フォックス
   ケリー・マーセル
   トニー・マクラマナ
   スティーブ・ジシス
キャスト:エマ・ストーン…クルエラ
     エマ・トンプソン…バロネス

※多分ネタバレしてます。
        

うーん。色んな意味で面白かったかなぁ。
というか興味深いなってところでしょうか。

正直物語としては、そこまで好きではなくて、てか途中長いなぁなんて思っちゃったりもしたんですけど苦笑

ただとても考えさせられる、というか興味が惹かれるのは最近の悪役の在り方が、また変化してきているなぁということ。

で、どちらかといえばそこにフォーカスを当てて文章をまとめていきたいです。
では行ってみよー

とりあえず「クルエラ」総合的な感想

これはひたすら超絶カッコいい衣装を纏うエマ・ストーンとエマ・トンプソンを拝む映画です。

アイ・トーニャの監督だったから少し期待しすぎました。
いや、というか脚本に問題あり、かもです。

物語はもう少しきゅっとまとまりそうな気がします。
というのもクルエラが文字通り生まれるところから始まるので…
ただ映画なんだからもう少し省略の効く上手い説明の仕方は無かったのか…なんて思ってしまったり。
ちょっとスクリプト掘り出して自分なりに構成組み直す実験したいです。

なんとなーく途中で長いなあと思ってしまう自分がおりました。(隣のカップルに気が散った可能性も否めませんが)
ただ一応軽快な音楽と派手な演出で乗り切った気がします。
うん、満足感は、ある。

音楽はかなり有名どころを使っていて、ザ・クラッシュのShould I Stay or Should I GoとかクイーンのStone Cold Crazy とかとか…多分舞台がイギリスだからロンドンのパンクロックなんだと思う。
ただカッコよかったんだけど、キャッチーすぎて、ちょいとノイズ感はあったな…クライマックスとかは派手で良いのだけど…
最後まで取っておいても良かったのでは感はあった気がします。

ここからが本題ですよー

で、今回、わざわざnoteに文章をまとめようと思ったのは、クルエラ自体を語りたいわけではなく…

最近の『悪役』の立ち位置について、今までの変化と共に少しまとめてみたいと思ったからでした。

というのも、最近はまた新たな悪役像というか、悪役の扱い方が新しくなってきている気がするからです。

但し、これはどちらかといればデフォルメされた物語に言えることで、がちの人間が出てくる映画には当てはまりません。
簡潔に言えば、マンガやアニメ寄りの物語にフォーカスを当てていく、というわけで、そちらを踏まえて読んでいただけると幸いです。

さて、悪役、といえばヒーローと対になるように、古くから存在してきたわけですが、世界の在り方が変化していくにつれて、その関係性がどんどん変わっています。

それがとても面白くて。

例えば、本当の元の元を辿れば、悪役の誕生は勧善懲悪の物語からだと思います。
ですが、最近の物語で勧善懲悪ものと言ったら昔話くらいしかないかもしれないです。なぜかって、そこにリアリティがないから。

ちなみにリアルとリアリティは少し違くて、リアリティはそれを本物だと信じることができる風味のようなイメージです。

で、その勧善懲悪物語にリアリティを求めていくと、悪役にも悪役に成らざるを得なかった理由が付随するようになります。

例えばスターウォーズのダースベイダーとか、最近だとマレフィセント、『ジョーカー』のジョーカー…などなど。

これは元々良い人だったけど、闇落ちした、というパターンです。
大体が信じていた人に裏切られたり、報われなかったりすることで、闇落ちします。

つまり性善説。

で、少し前まではこのタイプがとても流行ってた気がします。
個人的な感覚ですけど。
特にマレフィセントなんてそれの最たるものな気がする。(てゆうか悪役のスピンオフなんて大体このパターンなんだよ!〈暴論〉)
ただ裏の裏をかこうとしたマレフィセント2には失望しましたけど。(悪役の裏の裏ってただの悪やん…まあクリーチャー造形が秀逸で観てられたけどな!)

話が逸れました。

で、なんでこのタイプが出て来たかって、人間がエンターテイメントのために作り出してしまった勧善懲悪という構造に対抗するため、だと思うんです。というか、その構造の犠牲に成らざるを得なかった悪役を救うため…?みたいな。

この世にはっきりと白黒つけられることなんてない。
勧善懲悪に、リアリティはない。
そして勧善懲悪を肯定してしまうことは、現実世界で生きる私達の首を絞めることにもなります。

特に戦争が終わってから、世界には以前ほど明確な敵というのは居なくなりました。表立って敵対する必要性が減りました。

そこで悪役にも悪役なりの理由がある系が登場したのではないか、という推測です。
あとはそういう闇落ちした理由って、そのキャラクターの魅力を倍増させますよね。だからダースベイダーは魅力的なのだと思う。

この段階っていうのは、今まで敵対していたものをもっとよく理解してみよう、という動きだと思います。

じゃあ、ここからの変化とは…

それは世間的に“悪い”と言われている性質を保持したまま、キャラクターに共感性を持たせようとしている、ということです。

つまり性悪説。

と、こんなことを考えたのは、今回クルエラを観たからで、他にもロキをドラマで見ているからでした。そこら辺は後で触れます。

で、面白いのが、この生まれた時から悪い性格、みたいなキャラクターって別に新しくもなんともなくて。

例えばハンニバルのレスター博士とか、『ダークナイト』のジョーカーとかサイコパスのキャラクターってたくさんいると思うんです。
そしてこのようなキャラクターは前に述べたような性善説的悪役とは区別されます。つまり後天的なものではなくて、先天的な悪い性質=治すことが難しい。

ですが、今まで、そのようなキャラクターの扱いは見世物小屋的といいますか、その狂気に理解を求めているのではなくて、その異質さに目を惹きつけさせ、それをカリスマ性、魅力に繋げる。そして人気を得る。
そういう手法のようだった気がします。

だから性格悪すぎて意味わかんないけど、超かっこいいみたいな。

そんな生まれた時から、世間的に“悪い”と言われている性質を保持するキャラクターが、最近では少し扱い方が変わってきているのではないか、と思うのです。

ダークヒーローにならないヴィラン達

生まれた時から少々やっかいな性質を持ち合わせている、“悪役”達。

その破壊衝動や、支離滅裂な行動に、最近は共感が求められてきている気がします。(ここでの破壊衝動などは、『ジョーカー』などのそれとは区別します。なぜならその衝動に明確な理由、というか世界に向けての理由がないからです。ある意味『ジョーカー』のジョーカーは大義名分を背負ったダークヒーローなのです)

そう考えたのは、ドラマ『ロキ』を観ているからでした。

ロキは悪役の中でもかなり複雑な立ち位置にいるキャラクターです。

アベンジャーズでは、最初敵でしたが、最終的には味方寄りになります。

ここでキーなのが“寄り”という部分です。

観客というのは、当然味方を応援したくなるもので、そういったバイアスから魅力的な敵がなんかいつの間にやら良いやつになってる、なんてことが多々あります。

ですが、ドラマのロキは完全にそうなったわけではないように、描かれます。
(まあ、時系列的にアベンジャーズの時のロキがドラマ版のロキだからヴィラン寄りなのは当たり前なんだけどさ)

良いことや、良い働きをする、かと思えばせっかく上手くいっていた計画を台無しにする。
素直に観客に応援させてくれません。(でも応援したくなっちゃうのは俳優の力)

その少々厄介な行動に明確な理由はありません。強いて言うなら、興味本位だったり気まぐれによる部分が多いのです。つまり持って生まれた性質。

クルエラにもそのような部分があります。
物語の軸としては、たしかに復讐というのが一応あるのですが、おてんばでは済まされない破壊衝動がクルエラには内在しています。

復讐というより、その場を乱したい欲。

そして映画の中で、クルエラがその自分の衝動を実際に認めている描写があったように思います。
ぶち壊すのが得意だから。悪い子だけど、それを認めて欲しい。

これは行動に社会的な分かりやすい理由が存在しないということ。
つまり感情と行動の因果関係が崩壊しているように、わたしには見えます。

強いて言うなら、その行動はキャラクターの個人的な承認欲求から来ているのかもしれません。

そしてそのような性質を持ち合わせるキャラクターを“異質”として描くのではなく、その性質と葛藤している様が描かれます。
それはとても人間的であり、私たちとの距離感を以前の悪役とは異なる方向から縮めてきているように感じます。

元々持ち合わせていた善の部分に共感させるわけではなく、狂気で惹きつけるわけでもない。

誰もが持っている“ダメさ”に共感や理解を得ようとしているのではないかと。

まとめてみると、最近の悪役はダークヒーローになろうとしていない、のだと思います。
彼らの行動に分かりやすい、万人が納得する彼らなりの正義があるわけではなく、あくまで世間的には悪役なのです。

ですがただ倒される悪役ではなく、どこか隣人にいそうな悪役達です。

そしてそのようなキャラクター達は、現実世界での私達が実際に持ち合わせているどうしたって直すことができない“ダメさ”を肯定してくれているような気がするのです。

元から持ち合わせている性質を、直すのでもなく、異質とするのでもなく、ただニュートラルに受け入れてみないか。

以前から在る性善説的悪役の登場が、敵をもっと深く知ろうとする動きだとするなら、これは知った上で、その厄介な部分もまるっと受け入れてみないか、ということなんじゃないかなって。

この新鮮な悪役達が世間に受け入れられるかどうかはまだ分かりません。
ロキだってまだ完結してないしー
どう着地するのか予想がつかないです笑

ただ少し話が逸れますが、こういったキャラクターが登場してくる中で出てくる問題というか、難しさに演技が関係してくるとは思います。
というのも、こういうキャラクターを俳優が演じるのは本当に困難だと思うから。

なぜなら、その行動に明確な目的がなく、性格に行動の原因が帰属してしまう場合、演技の拠り所が極端に少ないから。

だってそういう性格だから、とか言われたって演技できねーし!とか思っちゃうよね。

そしてそんな状態にありながらサイコパスに振りすぎてもいけないっていう。観客に嫌われちゃいけないから。

ただ性格と演技の関係性は多分私の勉強不足もあります。
偉大なスタニスラフスキーがそこに触れていないはずがないと思うので、もう少し勉強しますね笑。


とまあ、以上が今考えることができる最大の自論です。

元々どちらかといえば直観的に物事を捉えていくタイプで、実はこんな風に理論立てて説明するのは得意じゃないです。

むしろ直観的に繋ぎ合わせただけの暴論になってしまっている可能性も否めません。
それでも何か面白がってくれると嬉しいです笑

長くなってしまいましたが、それでは皆さま、良き映画LIFEを🎬✨



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