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美しき、幾何学的かつ有機体〜『ブレイキング・ザ・コード』

美しき戯曲だった。。。数学にリスペクトを込めて、『美しい』と言いたくなってしまう。

そしてアランが次に目覚めるときは、どうか、かっこいい王子の腕の中で、いや、クリスの腕の中で目を覚ますことを切に願った。

『ブレイキング・ザ・コード』、シアタートラムにて観てまいりました。
チケット発売日をカレンダーに書き込んだほど、待ちに待った作品。
大好き亀田佳明さん主演(『タージマハルの衛兵』『ダウト』)、稲葉賀恵さん演出(『私の一ヶ月』『幽霊はここにいる』)。もう私得でしかない。
しかも題材はベネディクト・カンバーバッチ氏主演で映画にもなっているアラン・チューリングである。

それを、亀田さんが、演じる、だと…

アラン・チューリングとは、歴史上実際に存在した人で、コンピューターの元となったチューリングマシンを開発した人物。第二次世界大戦中、ドイツ軍の難攻不落の暗号機「エニグマ」を解読するのに多大な貢献をした。

先にカンバーバッチ主演の『イミテーション・ゲーム』を見ていたせいで、チューリングという人はものすごく気難しくて、ナイーブ、という印象がとても強かったのだが、今回、そのイメージは溶けて、新しいチューリングに出会った、というよりチューリングのことがまた少しわかったような気がする。(でも作品にリスペクトを込めて、この”わかる”という言葉は少し慎重に扱いたい)

飽くなき探究心、知識を欲する貪欲さ、独創的で、情熱的でもあるアラン・チューリングの姿に胸打たれ、心躍る。
なんだか同胞を見つけたような気がして嬉しくなってしまう。同じように知識ジャンキー、考えることジャンキーの私にとって、こうやって学問をするということを純粋に楽しんでいる人を見るのは、励ましだった。

「美しいでしょ?」と黒板の数式を指して呟いた高校の時の先生を思い出していた。
確かに、先生の整理したその数式は美しかった。意味的にも記号的にも。数学を、あまり得意だと思ったことはないけど、数式の意味を理解できた時の快感は好きだった。

それからアインシュタインの相対性理論を理解した時も思い出していた。アインシュタインってなんて柔軟な発想をした人なんだろう!と。宇宙空間で星の重力によって空間がねじ曲がることを知った時、そう感動した。

数学や物理、と聞くとイメージする「堅物」「難しい」「規則」のような言葉が覆された瞬間だった。その時に私は数学者、科学者、物理学者もアーティストや芸術家の一種なのかもしれないと考えるようになった。

今回の公演で、その考えへの確信が強まった。だからまず嬉しかったのは、そんな好奇心MAXの人間を見られた点だ。
『ブレイキング・ザ・コード』で描かれるチューリングは、確かに変わり者だが、とても情熱的で魅力的だった。

そんなチューリングが惹かれた数学の美しさに比例するかのように、ソリッドで洗練された美術が印象に残る。
上空に三列に配置された蛍光灯、長方形の幾何学模様が入った木製の壁と床。それは正方形に近く、アクティングエリアを線引いている。
長方形の机、棚、ラグ。とにかく直線が目に付く。

しかしこの直線的な美しさも2幕で全く別のイメージに繋がっていく。

2幕冒頭、アランが学生に講義をする場面。私は度肝を抜かれた。
亀田さんはよく第四の壁を超えて、演技をしているイメージがある。観客に向けて役として話しかけるのだ。『ダウト』の冒頭もそうだった。(「ダウト』大好き)
しかし俳優にとって第四の壁を超えて、お客様に向けて、演技をするというのはかなりのプレッシャーになる。(特にリアリズム演劇においては。落語とかになるとまた演技構造が変わるだろう)

それだけでも相当すごいのに。
今回、魔法でも使ってるのか、と驚嘆したのは、観客のリアクションまでも物語に取り込んでしまったところだ。お客様の笑いも、リアクションもしっかり見て、受け止めた上で、アラン・チューリングとして反応する。全く持って素が出ないままに、物語の世界を全く壊さずに。

私はこんなことができるのかと心底感動してしまった。。。物語の世界に入り込んでしまったとはまさにこのこと。
あの時代の、アラン・チューリング教授の講義を聞く、学生になってしまった。

2幕冒頭の学生への講義は1幕で数学について解説するアランとはまた違う雰囲気を感じる。自然界への興味、有機的なものを数学という言葉で理解したい、解明していくことへのワクワク感が台詞の意味が全部わからなくても伝わってくる。
吃音などないかのように饒舌に喋るアランは、やがてじわじわと色が変わる照明に照らされ、私たち観客を、どこか講義をしている教室ではない場所に誘う。

そうやって見ていると、突然アランの見ている世界は、実はもっとおっきくて、宇宙的で、有機的で複雑に入り組んだ命の世界なんじゃないか、と気付いた。アランが見ている数学の世界というのは、世が数字に対して抱く、規範を感じさせるようなものじゃないと。
もっと複雑で、ミステリアスで、葉脈のように入り組んでいる生命体。人間そのもの。

そうやってアランの見えてる世界がわかった瞬間、置かれている美術の見え方が全く変わってきてしまって震えた。(それにメインビジュアルとも繋がってしまって、突如全てが”わかる”みたいな感覚になってしまった)
あの四角い部屋がいきなり狭く、規範的で、抑圧的に見えてくる。

家具や部屋の全ての直線がコード=規範に見えてきて、あの部屋自体が規範社会の縮小だ。でもアランの頭の中はもっと壮大で、あんな小さな部屋には収まりきらない。収まるはずがない。
そう考えると、直線的な線が少ないヴァイオリンは、そこからはみ出るアランやその情熱を象徴しているようにも感じられてしまう。

しかし、社会はその規範の中に戻そうと圧力をかけてくる。
それを象徴していたのは、紙袋を容赦無く踏みつけるスミスだ。
確かにこの、紙袋を踏みつける、という行為だけで、その人間性を瞬時に表現する演出は秀逸だったが、私はそれ以上に、このシーンで唯一斜めの直線だった机を彼が平行に直すところに、社会的抑圧ないし、彼の性格を痛烈に感じてしまった。

ニコニコしながら、机を丁寧に直すスミスに、社会からの逸脱を許さない抑圧を感じぞっとする。

そんな社会の息苦しさを美術から感じていたのも束の間、終幕では後ろの壁が引き上げられ、どことなく開放的な雰囲気が漂う。
そこで改めて壁に使われた木の優しさや柔らかさ、幾何学模様の美しさにハッとさせられ、それが死ぬ間際、形態発生学に興味を抱いていたチューリングを想起させた。

この作品はお芝居以外の部分でも雄弁に戯曲を語ってくれている。
美術と同じように、それは照明もだった。

ギリシャ人青年とのやりとり、その後半で蛍光灯がチカチカと揺れ動き始め、アランの目線の先には、初恋の人クリストファーに似た美青年。
明かりがチカチカと明滅する中で見える美青年は、亡きクリストファーの幽霊のようにも見えるのだった。
あの明滅に人ならざるものを感じてしまうのは世界共通なのだろうか。笑

さて、このシーンにバチバチに興奮を覚える人も多いと思う。他にもじんわり色が変わったり、日常で見ない変化を見せたり。
でも全編を通して私が感嘆してしまったのは、体や顔にできる陰影の表現だった。
明かりをわざわざ付けているわけでなく、元々ついている明かりのまま、少し立ち位置を変えるだけで、表情に影ができたり、逆に明るく照らされたりする。
それがお芝居の邪魔になんて全くならず、むしろ想像力を掻き立てる。

特にアランが母親にカミングアウトをするシーンでは、その表現が素晴らしかった。

アランが上手舞台前側に来ると顔の影が濃くなり、カミングアウトへの母親のリアクションに怯え、恐怖していることがよりわかる。(ここで逆に明かりに照らされて表情が見えていたら私はしんど過ぎて見れてなかったかもしれない…)

しかし、母親がアランに近寄って、その手を握り、アランが幼い頃の記憶を語り始めると、二人のいる場所がピンポイントにじわじわと明るくなっていくのだ。アランの心が、晴れていくのがわかる。
それにそのおかげで、このシーンの展開が良い意味でわかる?というか、読める?ので、突発的なサプライズが苦手な私にとってはありがたかった。安心して見られる。

他にもアランが陰った場所にいたのに、一歩舞台奥に進むと急に明るい場所に出たり、その見え方の違いが面白くてしょうがない。同時に物事の多面性も表現しているように感じる。

明かりの陰影でこんなにもお芝居の魅力を引き立てることができるのか、、と。見えないストレスじゃなく、想像させる陰というものが存在するのか…と目の当たりにして衝撃を受けてしまった。

そして戯曲。
『イミテーション・ゲーム』でアランの最期を知っていたが故に、1幕から苦しかったし、物語の終わりが近づくにつれて構えていたのだけれど。

ラスト、ああ、もしかしたらそんな選択だったのかもしれない…と少しでも思えたのは希望だった。
現代の私がそう思うことは、とてもおこがましい、というか都合が良い、と思う。

だけど、もし…もし…もし…もし…と、人間の想像力を、許し広げるなら、そういうふうに解釈したい。
それでも現実はこのままではいけないと強く主張するけど。

他にも、本当に本当にたくさんのことが頭をよぎって、観劇をしてからすぐに文章にまとめたかったのに、戯曲を買って、シーンを思い出しつつ、深堀りしていたら、色んなことが繋がってわかってきてしまって、結局千秋楽も通り過ぎてしまった。
これが、沼か…(もうすでに半身ほど浸かっているが)

もうまとまらないや笑
ということで、気づいたことや、そう見えた、ということを雑多に下記に残しておく。↓

・パットが愛の告白をするシーン、同時にアランのカミングアウトがあるんだけど、それに対して「知ってる、わかってる」っていうパットのセリフがあって、それについて。パットは確かにわかってる、んだけど、それはやっぱりわかってなくて、「愛するようになるかもしれない」なんて言葉を投げかけてしまう。でも同時に時が経ってのアランとパットが久しぶりに会うシーンでも、逆にアランわかってないなぁって思うとこもあって…人間って一人だから孤独ってことじゃないんよな…泣 相手がいて、初めて孤独になる。このセリフの流れは、レオポルトシュタットでレオがナータンに「それは知ってる」という場面にも似ている気がして。だから、日常でもいつも思っているけど、この作品を見たあとは「わかってる」という言葉をより慎重に扱いたくなる。

・りんごのモチーフについて
…白雪姫、もあるけどアダムとイブももしかしたらあるかもなって思った。でも「禁断」とかつけたくないジレンマ。

・ものすごい完成度に興奮してオタク魂たぎるけど、やっぱりそれは虚構で、嘘で、そこに溺れる自分を諫めてる自分もいて、消費している感覚を自覚しながら、でもやっぱり物語に没入することで元気をもらえることもわかっていて。物語ってなんなのだろうな、とフラットに改めて考えてみたい…(消費についてこの作品にネガティブな印象は全然ないけど、少なからずそういう側面はやっぱりあってしまうよな…と。でも今回、本当に限りなくクリーンに近くて、本当に誠実に中身を埋めていってくれてる感じがする。構造的に消費が起こらざるを得ない、という感覚。誰も悪くない)
特に今回は無条件で好感度がバク上がりしてしまう組み合わせなので、盲信してしまわないように、構えてみる。(それでもやっぱり感激してしまう…好き…大好き…)

意味のわからないメモだけど笑

でも今回、戯曲を立ち上げるとはどういうことなのか、より明確に、わかった気がした。こんな風に、考え尽くされて、尚且つわかりやすく鮮やかに目の前に現れて、演出に憧れたことなかったのに、今回はすごく強く憧れた。

ああ、こんな風にただの紙の上の文字が、沢山の人の思考を通り抜けて、おっきく膨らんでいくなんて、なんて面白いんだろう。

きっと戯曲を改めて読んで、その想像力の豊さや、作り手の誠実さや、繊細な手つきがより見えたからなんだろう。どこを拡大して見ていっても、そこに理由がある、のが面白い。
私の興味はやっぱり、作品の向こうにある、人間の思考の過程にあるんだろうな。作り手の存在に大感動してしまう。

これからもその探求は続けたい。

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