8. 労働の問題『石橋を叩いて渡る哲学』

 労働の構造から問題を探る

 現代の日本社会における労働の大まかな構造について考えていきます。
日本社会における労働の役割は4つあります。
① 資本主義から成る仕組みを維持するための経済活動
② 社会制度やインフラなどのシステムの維持・運用
③ 技術・研究・文化の推進
④ 個人の生活資金の確保

 この4つの役割の内の「個人の生活資金の確保」をメインに社会における労働の問題を考えていきます。

 会社員の役割についての仕事論・議論は職場や居酒屋、SNS上でよく見かけます。その内容は仕事の能力・仕事に対するやる気・出世欲・会社への利益の還元など様々です。しかしながら、このような仕事の議論をする際には必ずと言って良いほど、先述した ① ② ③ の建前のみが前提として与えられます。普通に考えれば生活を維持することのほうが社会全体を回すことよりも重要ではないでしょうか。

 災害における復旧の対応を定める防災に、
・自助(自分の身の安全を確保する)
・共助(地域単位での助け合い)
・公助(公的機関による助け)
という概念があります。
これらはあくまでも災害時の対策として定められたものでしかありませんが、個人の行動原理はこれに近い構造であると言えます。自分に近いものから安全の確保をしていくというものです。しかしながら、実際に仕事についての議論の際に語られるのは営利目的の組織に属している以上、会社に貢献する責任がある。会社に貢献するのは当然である。という建前です。日本では建前が大事であるとは言いますが、いくら建前だけで議論を進めたとしても問題の本質は変わりません。私は逆に社会に問いたいです。営利組織に所属せずして普通に生きていくことができるのか。答えはNOです。もちろん、生存権によって保証される生活保護などの制度がある以上完全にNOとは言えませんが、そのような制度はあくまでもセーフティネットであり、日本人の全員が加入する前提にはありません。また、フリーランスや経営者としての道もありますが、日本人の大多数がそのような職種に就く場合、社会のシステムは維持できません。これらの事実から、一定大多数の人間が実質的には営利目的の組織に労働を強いられるという構造であると言えます。そして、先程述べた生活保護という制度も申請のコツを知らない人を含めると、全体として見た場合に建前としての制度と言うことができます。どういうことかというと、生活保護を受け取る資格があると思われる人の中で実際に受け取っている人の割合は4分の1程度であり、他の先進国と比べても低い割合となっています。もちろん、生活保護という制度に助けられている人が大勢いるのも事実ですが、全体としてみれば機能していないと言わざるを得ません。そして、この制度の存在がホームレスやその他の生活困窮世帯の放置に対する免罪符となっています。
また、困窮世帯が増えると自ずと治安は悪くなります。
 生活保護という温情を与えているのだからありがたく思え。
 社会に文句を言うな。
という考え方が世間では一般的な意見です。しかし、犯罪率の増加による治安の悪化の可能性を考慮するとこれは社会が責任を持って行うべき義務だと言えます。そもそも、憲法に定められている国民としての権利も忘れてはいけません。そして、生活保護受給者に対する多くの偏見がさらなる悪循環を生むことになります。悪循環とは、生活保護受給者は経済活動ができないという前提を通り越して、短時間のボランティアや地域の掃除など、負担が少ない活動に参加することもできないと考えられていることです。もちろん、辛い状況にいる受給者にそのような活動を推奨するわけではありません。私が言いたいことは、そのような方たちにも何か役割が与えられるような社会構造になっていないこと自体が問題だと思っています。そうした構造が偏見を助長することに繋がっているのです。問題提起をしたところですが、私の意見である新たな構造の提案は後述します。上記のようなセーフティネットの機能を担う制度に対する偏見の問題もありますが、経済活動を行う人々にも影響はお呼びます。

 本来労働は、経済活動の結果として個人の生活が確保されるという構造であるべきですが、個人の生活を確保するための手段に成り下がっています。技術の発展により業務で使用するコンピュータの性能は上がりました。それにより新たなハードやソフトの開発も進み業務は効率化されるはずです。しかしながら、日本は他国に比べて生産性が低いということがよく指摘されています。日本は未だにFAXを使っているなどと度々揶揄されます。私は、生産性が上がることで仕事が少人数でこなせるようになるという時代がもたらした変化に社会の仕組みが対応できなかった結果として生産性が上がらなかったのだと考えています。それには、手段と目的の逆転がその原因の一端を担っていると言えます。社会を最適化しようとする場合、必要になる改革として既存の機能の廃止があります。当然です。技術の発展によってそれまで活躍していた既存の機能が必要なくなる場合があります。しかし、人々は生活のために働いています。したがって、社会機能の断捨離で生活基盤を失う可能性があるならば、社会構造の最適化などしなくても良いという選択肢を取ることになるのです。防災の自助・共助・公助の概念からも合理的であり自然な選択だと思います。また、既存機能を廃止できない構造と同様に、あえて非合理的な要らない仕事をつくるという問題があります。ここで言う要らない仕事とは、特定の産業そのものの否定というよりは、中抜きを指します。大雑把ですが、私は広い意味で派遣会社も含めて問題だと思っています。営利目的であるため仕方がないと言えますが、会社という集団が社会にもたらす影響よりもそれぞれの利益という視点からのみ合理化を行うと、社会にもたらす影響という視点から見たときに非合理な活動をすることになる場合があります。派遣という労働形態そのものを問題としているわけではなく、将来の生活資金における不安によって行われる非合理な活動が問題であると認識しています。

 構造としての問題は、労働の役割として述べた ① ② ③ の社会全体としての活動と ④ の個人の生活手段としての活動が両立する前提で設計されていることです。そのような構造にも関わらず今まで持ちこたえてきたのは社会構造のおかげではなく、高度経済成長や技術の進化に伴う新しい産業の誕生の恩恵であると考えています。そこで、私の労働に関する社会構造の改革案を述べます。それは、ベーシックインカム制度を採用することで個人の生活の確保を、社会としての経済活動を通さずに実現させることです。その結果、社会の最適化を阻む思想は減ります。しかしながら、減りはしても無くなりはしないでしょう。なぜならば、生活手段を失う可能性にさらされることを根拠とした消極的な社会構造の最適化への否定ではなく、構造改革をするまでもなく、既存の社会構造のままで、既得権益側に居続けるほうが得という人々も存在するからです。もちろん、既得権益側に属しているからと言ってその方々を批判するわけではありません。私が批判したいのは社会構造の最適化を阻んでしまう現在の社会の構造です。ここでベーシックインカムに関してよく挙げられる問題として、経済活動をせずに生活の確保が可能になった場合、人々が働かなくなるのではという懸念があります。しかし、私はそれでよいと思います。そもそも日本は既に少子高齢化社会であり、働いていない人が既に大勢存在しています。そして、産業構造の改革という社会構造の最適化ができるならば長期的に見て利益があるのは間違いないでしょう。短期的には、エッセンシャルワーカーの人員不足の防止のための優遇措置や何らかの制度が必要になる可能性はあると思っています。これらのような導入初期における影響を考慮した制度や措置を同時に設ける必要はあると考えています。

 労働のあり方

 労働の役割について問題提起する中で解決策として述べたベーシックインカムが実現した場合の労働のあり方について考えていきます。ここでは、現代社会における生活手段としての労働を受動労働と表現します。これは、多くの人にとって現代社会における労働が生きるための手段であり、構造上働くことを強制されている受動的なものだと言えるからです。対して、ベーシックインカムが実現した後の労働を生きるための手段とは切り離されることから能動労働という言葉で表現します。もちろん、現在でも能動労働を行っている人は数多くいます。ただし、受動労働と比較するとそれはごく一部と言えます。ベーシックインカムが実現されることで多くの人が受動労働から能動労働に移行します。

 まずは、ベーシックインカムが実現した後の労働の世界を考えていきます。受動労働が無くなる中で労働のあり方は変化します。
ベーシックインカムが実現すると労働の役割は次の3つになります。
① 資本主義から成る仕組みを維持するための経済活動
② 社会制度やインフラなどのシステムの維持・運用
③ 技術・研究・文化の推進
そして、さらにこれらは ① ② の「運用」と 、 ③ の「開発」に分けられます。生きるための手段としての役割が労働から切り離されることで様々なメリットがあります。

 1つは、「運用」の機能を持つ産業構造の改革です。そして、これは既存機能の廃止という全体の構造としての最適化と既存機能自体の最適化の2つに分けられます。前者は、社会に必要なくなった産業である既得権益を動かすことができないことで社会構造の最適化ができないという問題として既に述べました。そしてこれは、後述する後者のメリットの結果として実現可能になると考えています。後者について、これを可能にする具体的なものとして解雇規制の緩和が挙げられます。解雇規制の緩和というと社員をクビにすることができるという企業の権利の強化です。これを聞くと労働者として不利に働くように聞こえますが、ベーシックインカムが実現した後では労働者にとっての主たる目的である生活費の確保は消え去ります。これは欲しい物を買うというポジティブな目的のために賃金を得ることとは本質的に異なります。私は人の原動力、行動のトリガーとなるものは「不安」だと思っています。したがって、労働者としては完全に不利にはならないとは言えませんが、本質的な不安から解放されることを考えると解雇されてもヘッチャラです。また、この事自体が労働者にとって利点をもたらします。それは、職業選択の自由度が増すということです。この企業側からみた解雇規制の緩和と労働者側からみた職業選択の自由度の増加により既存の企業の最適化が行われます。また、これは仕事・業務の能力にとどまらず、ブリリアントジャークのような優秀だが他の人に心理的に危害を加えるというような現在の制度では対処が難しい問題についても機能します。現在の雇用制度ではブリリアントジャークというだけで解雇することはできません。したがって、雇用規制の緩和が既存機能の最適化に繋がるというわけです。そして、既存機能である既存の企業の最適化が行われ、企業の活動がより円滑になることで、不要な既得権益である企業に対抗することができます。その結果、社会に不要な機能が淘汰されやすくなるというわけです。

 また、もう1つのメリットとして「開発」の最適化が挙げられます。これはもはや、最適化というよりも進化と言えます。ベーシックインカムという生活資源が確保されることが研究と文化の発展に大いに影響を与えます。現在の社会では、研究や文化の発展に寄与できる人材が生きる手段を確保する中でその能力を全く発揮できない職種につかざるを得ないというケースがあります。実際、研究職の低賃金や不安定な雇用形態が問題になっている実態があります。この問題が現代社会に与える機会損失は莫大なものだと考えられます。これは、技術研究・学術研究・文化(クリエイター)すべてに言えます。日本で誇れるものとしてアニメや漫画、ゲーム、音楽などの様々な文化があります。単純にこれらの規模が10倍になると言ったらどうでしょうか。自分が特に気に入っている、ファンであるというようなコンテンツの数が大きく増えるということです。文化を例にあげましたが、研究でも同じことです。これらが生み出すものは既存のものとは異なります。つまり、それだけで価値を持ちます。それらが生み出す価値は単純な金銭的な利益というものさしでは測れません。これが機会損失と表現した理由です。結局のところ運用のために強いられている労働を減らすという選択肢を取ることが、運用を助けることに繋がるのです。「時は金なり」という言葉がありますが、まさにベーシックインカムのことだと思います。金を使って多くの人に時間を与えることで、将来に還元される金を生み出す、投資なのです。

 矛盾する競争社会

 日本社会で大多数が思うであろう幸せについての価値観がもたらす社会への影響について考えてみます。現代の社会は資本主義社会であり、競争社会でもあります。そして、この組み合わせは成果主義をもたらします。その前提から成る社会で生きるということは、お金・地位・成果によって評価される世界で生きるということです。協調性の高い日本人が石橋を叩いて渡る哲学をはじめとする哲学の構築による再認識なくして他人の評価を気にせずにいられるでしょうか。そして他人と比較するというのは比較対象によって結果が変動するため、相対的であり終わりがないと言えます。そんな状態で死ぬまで走らされることが幸せでしょうか。そして、このお金・地位・成果という指標がもたらす効果は本当に合理的なのでしょうか。人類はこれまで競争することで発展してきました。そしてお金というシステムを生み出したことも発展に寄与しています。地位という概念も、役割が明確になり物事が円滑に進むという機能としての理解が可能です。しかしながら、現在の社会においてお金のある・地位の高い人が目指す成果とはなんでしょうか。私はここに矛盾が生じていると感じています。

 幸せの共通前提は、自由でした。現在の社会では自由よりも他人に評価されることのほうが重要視されていると思います。そしてその評価は、お金・地位・成果です。しかし、この中で成果は定義が曖昧です。おそらく、お金・地位を得ることが成果であるという認識になっていると考えています。しかし、私は成果とは社会や人類、世界にどれだけ良い影響を与えたかということだと思います。地位が高く権力を持っている者が私の認識するところの成果を求めていたとすれば、今起きている社会問題のいくつかは存在していないでしょう。権力者がお金と地位のためにお金と地位という誤った成果を求めてしまう終わりのない循環が、合理的に思える競争社会がもたらした矛盾であると言えます。私は主意主義ではなく主知主義です。社会の問題をお金持ちの責任だと主張しているわけではなく、自然とそうなるような構造が現在の社会にあると言いたいのです。基本的に、人を改善させようとするのは間違いです。なぜならば、人は媒体だからです。環境によって変化します。ゆえに、権力者や富裕層などではなく、我々は社会の構造を何とかする必要があるのです。

 競争社会には自由がありません。なぜならば、競争を強いられるからです。自由という幸せの共通前提が得られない状態で、人は無意識のなかで自由を求めます。人が必要以上にお金・地位を目指す原因は、幸せの誤認ではなくもしかしたら、競争社会の中に数少なく存在している限定的で希少な自由を求めている結果なのかもしれません。

 資本主義は悪か?

 日本社会における労働の役割や競争社会についての意見を述べました。次は、資本主義について考察します。資本主義は一部の資本を持っている人が自由を得て好きに振る舞えるというイメージがあります。資本は、お金や株のような金融資本と、コンテンツや機械や建物のような物的資本があります。金融資本を駆使することで社会にある多くのサービスを利用したり、物的資本そのものによって直接恩恵を受けることができるというわけです。しかしながら、冒頭に述べたイメージは資本主義の表面だけを見た、資本主義が持つ一部の側面でしかありません。実際に、一部の資本を持っている人だけが自由を得ていることも事実です。しかしながら、私は資本主義は悪いシステムではないと考えています。社会における全体の構造として資本主義を見るのではなく、特定の機能を担うシステムという観点から資本主義を考えていきます。

 社会における全体の構造として資本主義を見た場合、一部の人だけが得をするという結果として出力されている事実がそのまま資本主義の評価になります。その場合、資本主義は悪と言えるかもしれません。しかし、実際には資本主義は人間社会を支える構造ではありますが、ある特定の機能を担うシステムであり全体をカバーするシステムではありません。ある特定の機能とは、資本を多く持つ人に社会を改善するためのある程度の大きな裁量・権限が与えられるというものです。したがって、資本主義を含むすべてのシステムを通した出力結果から資本主義という一部の機能を担う小さなシステムを判断するのではなく、ただこの機能自体が何をもたらすかという点で判断するべきだと考えています。そしてそれは、現実的な目線ではなく理想的な目線から資本主義を見ていく中で明らかになります。

 私が思う理想とは、教養のある人に権限が集まるという世界です。教養のある人に資本が集まれば効率的かつ倫理に基づいた社会の開発・運用が可能になります。社会という集団の中で困っている人を把握し、それを問題として認識する。そしてその問題を解決していく。という流れを作りやすくなります。この困っている人とはいわゆる社会的弱者だけを指すものではありません。例えば、生活には困っていない大企業で働く人達がもっと円滑に作業ができるように何らかのシステムを作るというようなことも含みます。つまり、教養のあるリーダーたる人がリーダーになればすべての人に利益があるということです。そして、政治という仕組みを利用しない前提でこれを資本を利用して可能にするのが資本主義なのです。私が言いたいことは、問題視されている部分は、リーダーとしてふさわしくない者がリーダーとして選定されているのではないかということです。しかしながら、それは資本主義を全体のシステムとみなした場合です。何らかの形で教養のあるリーダーが選ばれた後、そのリーダーにある程度の裁量・権限を与えるという機能を資本主義は担っています。ただ、それだけなのです。

 しかし、実際のところ資本を得るために悪事を働くという事例はあります。しかし、これは資本主義が持つ機能に問題があるのではなく、それを制御する機能に問題があるのです。というように構造・システムとして考えると原因の範囲を少しずつ狭めていくことができます。しかし、制御機能とは言ったもののそれを把握するのは困難です。労働の問題に関しては、問題提起とともに改善案を提示しました。しかしながら私は、制御機能の問題については、改善案以前に、現状の制御機能についてですら構造として捉えることができていません。したがって、政治の構造やその他の問題からみなさん一人一人に考えていただきたいと思います。

 私は、少なくとも理想の社会に至るまでは社会に所属する一人一人が社会を構築する義務があることを自覚・認識する必要があると考えています。民主主義であれば尚更です。そして、現在の日本ではそのような意識が社会全体として薄いと感じます。その理由に労働における構造の問題で述べた生産性の低さから起こる長時間労働が生む「常に忙しい」という状態が現実的にはあると思いますが、その他にも原因があると考えています。それは、人は、社会をシステムだと捉えられていない、社会を自然だと捉えているということです。例えばゲームでは自分の思い通りに世界を操作してある程度簡単に目的を達成することができます。実際にはもちろん操作できるように造られているという前提はあるものの、人は、それを事前に分かっているからやろうとするのだと思います。私は現実世界の社会もシステムであるという点でゲームと変わらないと思っています。しかし、非常に複雑なシステムであるためその構造の把握も目的の達成も容易ではありません。しかし、やはりシステムなのです。人間が作れるものだと考えています。一人一人がそのように捉えることでみんなで社会を構築・改善していくという意識が生まれるのではないでしょうか。

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