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「うちの子はすぐ怠けるので,厳しく言ってやってください」とか予備校スタッフに言ってくる親に欠けている視点

 こんにちは。今日もひとりごとです。11月に入り,大学受験生はこれまでの頑張りの総決算の如く返ってきた模試結果を見ながら,受験する大学を本格的に選定する時期になっています。

進路相談は楽しくもあり,暖簾に腕押しになることもある

 大学選びは,やはり人それぞれ(あるいは家庭それぞれ)の価値観があるもので,私もそういう相談に乗っていると楽しくなります。将来の夢とかキャリアプランを具体的に考えている生徒であれば尚更,その気持ちが強くなります。それが現実的な進路であるか否かにかかわらず,若い生徒との対話は私自身の仕事のモチベーションに繋がります。(若くて勢いのある生徒を見ていると嬉しくなるのは,私がもうオジサンの仲間入りをしている証拠です…)

 一方で,そうでない生徒の場合,まさに“暖簾に腕押し”状態になってしまいます。彼らは大抵,4月の時点では「慶應に行きたいです」とか「明治に行きたいです」とか言ってくるわけですが,そういう目標をかざしてくるからには何らかの教科で強みがあるのかな,と思ったら,フタを開けてみると全教科赤点レベルだったりします。それでも夏までは(客観的に見ればショボいが各自なりに)頑張っていて,出席率も高い。それでも初秋の模試で,自らの学習の量・質ともに全然足りていなかった事実を突きつけられ,以降は停滞してしまう(最悪こなくなる),というのはよくあります。

 そういう生徒(客観的に自分の実力を把握できずにあとで愕然とするタイプ)が少なくないのは,やはり大学受験に対する当事者意識が低い生徒が多いことと深く関連しているように思われます。少なくとも,高卒で予備校に在籍している上述のような生徒は,現役時代に大人の言われるがままになっていただけという雰囲気が色濃いです。そして,そうなると,いざ浪人するとなっても,自分の意思であれをやりたいとかこういう環境に行ってみたいとかが出てこなくて,結果的に学習意欲も続かないようです。

保護者の意識に触れてみると…無意識に干渉しているケースが多い

 私は受験アドバイザー(というか進路指導アシスタントというかコンサルタントというか担任というか…)も兼任しているので,生徒との進路相談をしていると,中には「親が相談したいと言っているので今度三者面談できますか?」と依頼されることもあります。中には「年頃の息子に反抗されるので,本人には内緒で面談できませんか?」と直接依頼してくる保護者の方もいます。そういう方とお話ししていると,いくつか共通点がみられるのですが,ここで挙げたいのは,勉強については本人に任せているというくせに,要所で干渉している,という点です。

 勉強について本人に任せている,というのは,大学受験においては当たり前のことで,改めて言うまでもないことだと思います。もちろん保護者の金銭的あるいは精神的な支援の前提があってのことですが,成人前後の生徒たちが自分の道を自分で切り拓くのは真っ当なことです。ただ,本人に任せているという割には,よくよく話を聞くと,「就職を考えると最低限大学には行ってほしい」とか「予備校にお金をかけたからには国公立じゃないとダメ」とか言ってくることがほとんどです。また,そういう明言を避けるような保護者であったとしても,(おそらく幼少期からの積み重ねで本人の内面を褒めるより成果を褒めるとかしてきた結果?)学歴を潜在的に強烈に意識させ,できない自分に無益な劣等感を植え付けるかたちで干渉してくる方もいます。

 確かに,金銭的に多大な支援をされているのは事実なので,そういう意味では干渉するのは当たり前のことなのかもしれません。しかし,本当に本人に任せているのであれば,生徒本人が本人の意思で勉強を頑張って,でもダメだとわかったら別の道も許容するような姿勢が必要だし,大学受験以外にどういう進路が想定されるのかを事前に親子でしっかりと考えておくべきものだと思います。野球選手やサッカー選手を志した者がみな,適性あってその競技選手になれるわけではないのと同様に,(もちろんそれよりもはるかに簡単であることは言うまでもありませんが)大学受験にも向いていない者が一定数いるはずであって,じゃあ代わりに何に向いているのかについては,幼少期からしっかりと見つめて適切に導いてあげる必要があったはずなのです。

 そういった意識も軽薄で,「みんな大学受験する時代だからうちの子も大学受験をさせなきゃ」みたいに考えているような保護者は,どのみち「あれしなさい,これしなさい」というふうに育ててきたのでしょう。多様な価値観を提供することも,やりたいことを発見させることも,一人の人間として尊重して相対することもせずに,元服の儀式とばかりに大学受験を通過儀礼として無意識に押し付けてきたのではないでしょうか。そりゃ,生徒の面談も“暖簾に腕押し”になるわけです。納得。

 さて,そういう無意識な干渉がみられる程度であれば,受験指導のプロが間に入ることで,保護者の不安や心配は緩和され干渉が軽減されることもあるし,生徒自身も「自分のことを思ってくれる故に言ってくるんだ,親ってそういう生き物なんだな」と分かって割り切って勉強に集中できるようになることもあります。実際,その程度が大半です。ただ,中には極端な干渉がみられるケースがあります。例えば「うちの子が勉強するように毎日厳しく指導してほしいです。授業出てないとか論外なので,首根っこ掴んででも出席させてください」と言ってくる保護者。大学受験でそんな奴がいるのか?戸○ヨットスクールか何かと勘違いしているのでは???と耳を疑うようなレベルですが,実際いるのです。

「うちの子はすぐ怠けるので,厳しく言ってやってください」という親に欠けている視点

 確かに,保護者は授業料を支払って子どもを予備校に通わせているし,予備校側も授業料を頂戴している以上は,商品としての授業を受講させる責任があります。ましてや少子化とそれに伴う受験指導の個別最適化がトレンドとなっている現在においては,「授業受けてるかどうかは知りまへん,やる気のあるヤツは来てもらってやる気のないヤツは帰れ」という旧来の予備校のスタンスはもはや非常識とされるような環境です。したがって,保護者が「きちんと授業を受けさせろ」というのは,妥当な主張であると思われます。

 しかし,仮にその点において主張が正しかったとしても,生徒が通っているのは大学受験予備校であることを忘れてはいけません。大学受験予備校の提供するサービスの主たる目的は,生徒を大学に合格させること,すなわち生徒を大学生にさせることです。親から依頼を受けた第三者の大人が首根っこを掴んで強制的に授業を受講させた生徒が,その後大学生になれるでしょうか。指導歴が浅い私でもこれまでに1,000人を超える生徒をみてきましたが,そんなことを言っているご家庭で大学に合格できた生徒は一人もみたことがありません。第一志望に合格できなかっただけとかではなく,大学全落ち,もしくは途中で受験を断念して専門学校就職引きこもりか…という状況です。

 いや,指導歴が浅く経験も狭いだけで,広い日本国内のどこかには合格できた人もいるだろと思われる方もいるかもしれませんし,私もその可能性は否定できません。ただ,仮にそうやってフィードロットのように強制的に飼育された受験生が大学に合格できたとしても,本当に彼らが大学生として生きていけるのか(フィードロット飼育の家畜が野生化して生存できるのか)という点について考えると,やはりどう足掻いても困難と思われるのです。なぜならば,本来,大学は自主的に学ぶことが前提高等教育機関だからです。

 「大学行ったら別に誰も厳しく言ってやってくれないけど,それでもいいの?厳しく言ってくれなくなったら,多分留年してますます行きづらくなって終わりだぞ?」前述のような生徒や保護者を見るたびに,私はこう思っています。別に留年してから面白い人生送るようなやつもたくさんいるけど,多分そういうことになってもこういう生徒の大半はくだらない言い訳を撒き散らして引きこもって終わりなんだろうな,と思ってしまいます。

 そう,ここまでお読みくださった方ならばお気づきでしょうが,そもそも「厳しく指導しないと怠けるほど勉強に興味がない」時点で,大学進学への適性を著しく欠いているのです。シンプルに言えば,ものすごく勉強に向いていない。そんな子どもに対して勉強を強要するのは,これまたシンプルに虐待に近いわけです。だってやりたくないのに押し付けているわけですからね。男の子なんだから泣くな,女の子なんだから大人しくしろと本質的には同じで,極めて前近代的で,個性を無視しています。

大学進学の代替コースがない問題

 とはいえ,勉強に向いていない生徒が大学進学を断念した場合に,同等の代替進路があるかといわれると,ほとんど存在しないのも事実です。現代の日本においては大卒資格がまるで運転免許ないしは身分証のように鎮座していて,社会人としてある程度の安定した職および収入を得ようとすれば,大学に行って卒業する必要があるのは紛うことなき事実でしょう。本来,大学は学び研究する場であるのにもかかわらず,いわば就職予備校と化してしまっているのは,勉強に向いていない生徒であっても大学に行かねばならない社会環境に大いに起因するものと思われます。そういう状況だから,全ての生徒は,行きたくなくても興味なくてもとりあえず当たり前のように大学に行こうとするし,保護者も既定路線としてとりあえず大学に行かせようとするわけです。

 誤解を避けるために言いますが,私は大学進学が当たり前になることに問題意識を持っている訳ではありません。みんなが高等教育たる大学教育を受けて,日本全体として知的水準(教育水準)がアップすることには大いに賛成ですし,実際資源が僅少な国家においてはそのような政策を取る必要があります。私が批判しているのは,強制力で大学に行こうとする(行かせようとする)姿勢をもつ人間が少なからず存在していることと,それに呼応するかたちでもはや高等教育機関たり得ない大学が無数に存在していることについてです。

 確かに昭和の時代は,厳しく自らを制限して,つらい勉強を乗り越えた先に栄光の大学合格が待っており,それがすなわちある意味での人生の成功を意味していました。なぜならば,大学に入学した時点で,自らの意思でエスカレーターを降りることをしなければ自動的に卒業できるし,卒業した大学のネームバリューでもって就活時にそれを印籠のように見せつければ,概ね行きたい企業には就職できたのです。そしてその後もエスカレーターのように出世することができたでしょう。仮に自らを厳しく律することができなくても,大人から「〇〇しなさい」と言われ,それを言われた通りにやっていればエスカレーターに乗ることができたのでしょう。やりたくないことであっても,将来の成功が約束されていれば,頑張れただろうし,そのように無理やり頑張らせることに意味があるのも頷けます。

 そして,もし本当にやる気がなくて,大学に行くような将来像を描けないような生徒も,大概は運動部で体力と根性を鍛えられているので,それを活かしたブルーカラーの仕事が約束されていたし,それも(語弊があるかもしれませんが少なくとも精神的には)一種の豊かさであったのかもしれません。もちろん生まれた家によっては行きたくても大学進学を断念せざるを得ない,というような状況は現在よりも多分にあったでしょうから,本当に望ましい環境ではないことは言うまでもありませんが,それでも当時は少なくとも大学に行くことは絶対ではなく,むしろ一種の選択肢の一つであったのです。豊かになるための方法がいくつも存在していたのです。

 人口増加時代においては,相対的に少なかった大学に合格することが能力を証明してくれていましたが,人口減少時代においては,亡霊のように残された大量の大学が少ない学生を取り合う環境が広がっています。だから自ら学ぶ意識の軽薄な学生であっても歓迎してくれる大学は山のように存在するし,そういう彼らが卒業して社会人になれるようにあれもこれも手厚くサポートしてくれるような時代になっています。低学力層には就職実績が大学の評判に直結するわけです。そこでの“学問”なんていうのはどうでもいいのです。

みんなが必ずしも大学に行く必要はなく,大学に行かなくても幸せになれる社会が理想

 社会全体が,大学で学んだことの価値を正しく評価しない(できない)まま,大学全入時代に突入してしまった。そういう構造的な歪みが無視できない程度に存在しているなかでは,そりゃ中身を伴ってなくても,とりあえずハリボテでもいいから大学に入れさせてやってくれ,という意識は変わるはずもありません。みんなが大学に行かなくても幸せになれる社会が理想だし,そういう社会になっていくことで「厳しく躾けて大学に行かせろ」みたいな勘違い家庭が減っていくだろうし,大学がきちんと高等教育機関たる存在に回帰していくのではないかな…と思った次第でした。

 着地点が当初の想定とずれてしまった気がしますが…通常営業です。本日もひとりごとでした,ありがとうございました。

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