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予備校や塾って,結局「教科書読めない人生産マシーン」になってないか?

 どうもこんにちは,今日もひとりごとです。毎回記事を書くと,最初は「お,今回は3,000字くらいでコンパクトにまとまりそうだぞ♪」と思うのですが,あれこれ論点を整理しているうちに(整理しきれていないゆえのことなのですが)気づいたら7,000字を超えて,時に1万字…みたいな感じになってしまい,なかなかうまくコントロールできません。初心者です。

 さて今回は,生徒の質問対応をしていて思うことをとりあげます。生徒は予備校の授業テキストをはじめ,その他各種参考書で学習を進める中で,わからないことを質問してきます。質問のスタイルには生徒の個性とか趣向が現れていて,「ああこの子は一から十まで理屈がわかってないと次に進めないタイプなんだな」とか,「この子はとりあえず講師の私と仲良くなりたいだけなのかな…」とか,色々観察しながら対応するので,私自身もある意味楽しんでいるフシがあります。また,生徒のレベルに応じて質問のレベルも多岐にわたり,わりと本質を突いて質問してくる生徒がいる一方で,テキストにそのまま書いてあるじゃん…という内容を訊ねてくる生徒も一定数います。

 私が素直に喜べないのは,その(太字で強調した)後者です。というか,予備校講師をしていたら誰もがそういう生徒の対応をした経験があるだろうし,誰もがそういう生徒に対して一種の“残念さ”を感じてしまうと思います。だって,テキストに書いてあること(≒読めばわかること)を訊ねてくるわけですから。我々の本来の出番はその先の,すなわち「テキストには紙面容量や“学修”進度の都合上省かれているが,その事柄を理解するために必要な文脈上の埋め合わせ」や「同都合上,単元ごとに分けて書かざるを得ず理解が断片化されかねない事柄の俯瞰と紐付け」などであって,少なくともテキストの音読マシーンではないのです。

主体的に学べず,“読めばわかる”質問を繰り返す生徒たち…

 私は予備校で仕事を始めて3年になりますが,その(僅かな経験の)中で経年比較をすると,そういった“読めばわかる”質問をする生徒が多かったのは圧倒的に昨年度でした。昨年度(2019年度)の在籍生(=2020年度入試受験生)というと,現役高3生であっても高卒生であっても,「入試改革の直前の(最後のセンター試験の)年に,なんとしてでも入れる大学に入っておこう」というような意識をもつ者が多くいました。語弊を恐れずいえば,いわゆる“駆け込み需要”の年だったのだと思われます。

(話が逸れますが,大学入試に“駆け込む”ような彼らは,大学入学への目的意識も相対的に低く,とりあえず大学に行きたいという生徒が多かった印象が残っています。学習も,主体性に欠けるというか,“言われたからやる”,“言われてないからやってない”(+“言われたけどやってない”)というような生徒が多く,まだ経験の浅い私からすると「え?“言われてないからやってない”って言って自分の進路(人生)を完全に他人任せにしちゃっていいの?????」と,たいそう戸惑った記憶があります。今年度は,もうそういう生徒が一定数いるのも織り込み済みなので,予め講師としての立ち位置を明確にしてやっていて僅かに気が楽ですし,しかも今年は入試改革の煽りを受けつつも意志を持ってその苦難を乗り越える覚悟で浪人している生徒が多いので,そういった気苦労が比較的少ないですが…)

 前述の“駆け込み需要”の生徒たちは,そういうわけで読めばわかるような質問を何度もしてきました。何度も質問に来てくれると,状況的にはあたかも主体的に学んでいるように見えるのですが,質問の内容を聞いていると,どうやら(予習が肝要な数学なのに)そもそも予習して授業に臨んでおらず自らの思考や論理展開と比較検討できていなかったり,授業時間にただの板書転写マシーンになってるだけだったりする。それゆえ「授業ではわかるんですけど,こういう問題になると解けないんです…」とかいう,まさに受験失敗フラグな発言とともに一から類題解説をしないといけなくなる。そういう問題だって,フツーに解説が別冊で付いているのに,その解説すら読んでいなかったり,ただ目で追っただけで手を動かすことをしていない(≒“わかる”ための努力や工夫をしていない)ことが多かったのです。

物事をできるようにするには,結局自分を分析することが重要なのに…

 受験勉強に限らず,(スポーツとか音楽を含め)あらゆる物事を”わかる”とか“できる”ようにするためには,それができる人とできない自分とを重ね合わせて比較し,どこが違っていてどこをどうすればできるようになるのかを分析する必要があります。ただ,自力で分析し改善し続けるのは一定の限界があるので,例えばスポーツであればコーチをつけますよね。コーチに適切な指導やサポートを受けることで,その限界を超えることができます。しかし,前述と重なりますが,コーチをつけて指導を受けたからといって,そのプレイヤーが上達するとは限りません。最終的にはプレイヤー本人が自らの頭を使って分析して,自分のものにする必要があります。

 受験勉強においても同様のことがいえます。受験に必要な各教科の理解を深め,自分の弱点を分析し克服していくプロセスが大事ですが,それには限界があるので,受験用参考書とか予備校・塾のサービス全般(授業,進路指導,模試…)が存在します。それらは,あくまで“自分で考えて”能動的に活用するのが前提とされたものであって,パッとみただけで「わからない」「教えてください」とか言っているような姿勢では,当然成績は上がらないわけです。まず自分でテキストを読み,考えて,それでわからない箇所を授業で解決する。それでもまだわからなかったら,講師に質問する。そういう当たり前のことができる生徒は,当たり前のように成績が上がっていきます。

 でも,そういう当たり前の本質がわかっていない生徒が,当然のように毎年予備校にやってきます。(というより,その本質がわかっていないからこそ,受験で合格を果たせずorなかなか成績が上がらず,予備校に入らざるを得ないわけですが…)。わからないことがあったら,わかるための工夫をまず自分でやってみて,それでもダメだったら訊ねる,みたいなプロセスって当たり前だと思っていたのですが,その限りでない生徒が一定数存在します。そういう傾向は,今も昔も変わらないのかもしれません。でも(自分が受験をしていた頃に比べて)最近いくらなんでもやはり多い気がするのは,なぜだろうか。そう考えて,ふと,一つ思い当たるフシがありました。

予備校や教育映像コンテンツが充実しすぎて,教科書が読めなくても“わかった状態”まで簡単に辿り着けるようになってしまったから,教科書が読めなくてもいいことになってきてしまった?

 結局のところ,犯人は予備校や教育コンテンツなのかもしれないと思ったのです。私も受験していた頃(今からおよそ10年前)は,例えば受験数学をやるとなったら,(そのレベルにもよりますが)やはり受験用教材はモノクロか良くて二色刷りで,オール明朝体ときどきゴシック体のテキストの文字列で構成される。生徒はそのスタイルにまず慣れることから始めなければなりませんでした。受験用参考書も今ほど充実しておらず,「もはや小学生向けでは?」みたいな謎のゆるふわイラストの要点解説キャラクターがページのそこかしこに登場するようなテキストは記憶になく,せいぜい予備校講師の板書に登場するオリジナルイラストが関の山でした。だから,「ここに書いてあることは何を意味するんだろうか?」みたいな想像を膨らませながら予習をして,そして授業で「ああなるほど」と納得し解決する。そのサイクルでもって,勉強が楽しくなり,そして自然に教科書が読めるようになってきた記憶があります。テキストを読んで理解できるから,その後の授業が面白いし,授業でテキストに書かれていない“思考の行間”を埋めてくれるから,その後テキストでの予習も捗るようになる。まさに理想のサイクルでした。

 しかし,ここ数年は,YouTube等の映像メディアで,ウルトラわかりやすく,かつ高度な編集込みで視聴者(=受験生)を飽きさせないような高品質な授業動画が配信されるなど,教育コンテンツがみるみる充実しています。また受験用参考書も,イラストが増えたり,解説が二重になったり(左側のページでゴシック体と短文で紹介された内容が,右側のページでイラスト付きのポップ体のキーワードで紹介されるなど)と,もはや“読解”するものではなく“クイックスキャン”するものになってしまった感があります。要点,要点,要点…と絶えず要点だけが解説され,学び続けるために一番肝心な“その教科の面白さ”があまり感じられないテキストも少なくありません。(要点しかないのに,なぜかクソ分厚い参考書ってありますよね)。もちろんそういったものは,受験で即席的に点数を上げるという目的において大いに需要がありますし,逆にもし面白くても試験での点数につながらなければ意味がなくなってしまいますから,一才否定するつもりはありません。(とはいえ,学問の本質的な面白さを感じて自主的に学んでいた私からすると,それらの参考書はまるで点滴や栄養ドリンクで諸々の養分を摂取しているだけで,肉がついていかず,結局不養生な気がしていますが…)

 そういった教育コンテンツを用いて,受験に必要な知識や事象をすぐにわかってしまうと,結局面白いと思うまでの“活性化エネルギー”が小さくなり,結局その後のより難しい事象を理解しようとするための努力ができないまま通り過ぎてしまうのかな,というのが私の考察です。すなわち,いつもパッとスキャンしているだけで勉強を済ませているので,そこで扱われていない事象に対して想像できないし,補足の解説文を読むこともできない。いわんや,教科書に書いてある“未知の”事象なんて,読解できないわけです。そういう状態のままで,受験勉強をする時間だけが過ぎていってしまっているのかな,と思っています。

 あるいは,上述で“すぐにわかってしまう”と言いましたが,もしかするとそれも“わかったつもり”になっているだけで,実際は頭の中で相対化や他の知識との紐付けができておらず,ただ断片的な(試験での点数につながる状態になっていない)知識がストックされているだけになっているのかもしれません。そんな状態では,当然大学入試において(一部の大学を除いて)ほとんど意味がないし,ましてやそこまでの努力があったとしてもその後の社会人になってからの生活において何ら活用できる代物ではないものに成り下がってしまうと思われます。(もっとも,断片的な知識は定着しにくいため,社会人になってからというよりもむしろ大学入試まで保つかどうか怪しく,それゆえに何度も同じような質問をよこしてくる生徒が出てくるわけですが…)

 いずれにせよ,現代の充実した教育コンテンツは,そのほとんどが,教科書が読めなくても勉強ができるようになる場所を提供してしまっています。それがあることで,わざわざ頭を使って教科書を読む(わからないことを目で追って頭をフル回転させながら理解する)作業をあえてしない人が増えてしまっているのだと,私は思うのです。

教科書が読めないまま大学に進学していいのか?

 しかしながら,教科書が読めなくても学習すべき内容が理解でき,かつ入試問題でも点数が取れるようになっているのであれば,結果的に問題ないのでは?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。わかりやすいことは罪ではないし,むしろ多くの人がより難解な事象を容易に理解できるという点において,学問や社会の発展に資する有用なことです。

 かく言う私も,(あくまで主観的な見解ではありますが)教科書を読むのはあまり得意ではありませんでした。どちらかというと,地図とかグラフを一枚パッと見せてもらって,そこから色々考察するみたいなことが得意(好き)であって,人の話を聞くとか,文章を読むとかの類は苦手としていました。ただ,そうすると,やはり大学に入ってから困るわけです。

 大学では,それまで(中等教育まで)に学ぶ内容に比べ,抽象度が高くなり,かつより専門化・細分化されるため,未知の事象を文章から読み取らないとそもそも学び進めることができない状況に直面することが多くなります。例えば私が大学で学んでいた地理や地学においては,高校までは「〇〇という地域があって,そこはこういう自然環境で,こういう文化や民族が根付いていて…」とか,「〇〇という地形(地層)はこういうプロセスで形成されて…」というように,個別事象(具体例)とそのネットワークでもって学んできたところが,大学では「〇〇学とはこういうもので,こういうふうに発展してきていて…」というふうにより体系的かつ一般化(抽象化)されたかたちで教育が行われることが多いです。また,その分野の研究をするためには,どう足掻いても『〇〇学』という専門書を読まないといけない,みたいな状況が生じ得ます。そう,文章の難易度はどうあれ,やはり教科書(専門書)が読めない学問の入り口で立ち止まってしまいかねない状況になります。

 また,ここまでお読みくださった方の中には,既に脳内にチラついていらっしゃるかもしれません。数学者の新井紀子氏も,2018年の著書『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』において,教科書の文章を正確に読解できる能力を重視し,定義文を一義的にしっかりと読み取れるか,また自らの発する言葉や文章が一義的に相手に伝わるのかという点をトレーニングする重要性を説いています。別にこれは,(私が上述したような)“高等教育において必要だから”とかそういう限定的な話ではなく,人間として論理的に考えたり生産的に活動をしていくうえで必要とされる能力として本書では述べられています。

 昨今の大学入試改革も,根幹には,そういうところが一部考慮されているのかな,と感じられるフシがあります。でも,結局枝葉の先にある教育コンテンツは,先述の通り“クイックスキャン”でやり過ごそうとするものが多い。そしてその“クイックスキャン”でも一定程度の受験生はそれなりの成績を残してしまいかねない入試であるため,やはり受験生はそのラクなほう(小手先のテクニックとか,出題傾向分析を踏まえた“山張り”)に流れていってしまう。

 一講師としては,やはりできるだけわかりやすく,学問の障壁を下げてあげたいと思う一方で,でも短絡的なコミュニケーションとか要点の押し付けで理解させたくないな…とも思うのです。これからも日々,試行錯誤です。

 また3,000字のつもりのスタートが,6,000字を超えてしまいました。今日もひとりごとにお付き合いいただいた方,どうもありがとうございました。

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