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これからの人生を捻じ曲げてくれるような大人に出会ってほしい

 唐突なお気持ち表明をしました。久しぶりのひとりごとです。国公立大学前期入試まであと2日。当該受験生がこんな記事読むわけありませんが,とはいえあと1ヶ月足らずで新生活を迎える,あるいは新たなライフステージへと歩み出す学生の方も多いと思われるので,近頃よく考えることを雑にまとめてみようと思います。(雑なまとめなので,いつもよりも客観性を欠き,論の整理があまりできていませんし,ある程度脚色が入っています,悪しからず…)

 この前,生徒と話をしているときに,ふとこんなことを言われたのです。

「過去問解いたり,今まで勉強してきたテキスト見直したりすると,まだ知らないことが次々に出てきて,もうダメです,この教科好きだったのに嫌いになりそうです…」

 こういう受験生,みなさんの周囲にいるでしょうか。割と少なくないのかもしれないし,なんなら貴方自身がそういう経験をしてきた方かもしれません。しかし,私はこれで,ふと思案に耽ってしまいました。

え,知らないことが出てくるのがそんなに嫌なことなの?
知らないことが多いから嫌いということは,知ってることが多いから好きだったの?
そもそも,過去問解いたら知らないことが出てくるのは当たり前では?

 これらの問いに共通して存在してそうな背景を,私なりに考えてみました。

人生の経験値が少ないのに“全てを知ってしまっている”悟りが発生してしまっているのかも

 まず何より,昨今の受験生,人生の経験値が少なすぎる場合が多いのかもしれません。何を唐突にアラサーの若造(あるいはアラサーのクソジジイ)が言っとるんじゃボケ,という感じですね…わかります。もちろん,時代を超えて,今でもド根性ぶちかましてくる(?)受験生だっているだろうし,逆に昔だって勉強しかしてこなくて経験値が少なすぎるような受験生もいたでしょう。

 ただ,全体として,やはり幼い。高校生までに経験してくるであろう諸般の感情とその言語化のプロセスを全く経ていない人間の占める割合が,確実に数年前よりも増えています。

 そして,私の視界に入るそういう受験生は大抵,“病んでいる”か,それに準ずるような状況に陥っています。自分で何事も成し遂げていないくせに,何かを知ったような顔をしているのです。そして,自分の恵まれなさを嘆いている。

 ここで私が思うのは,今の10代後半〜20代前半は,やはりインターネットおよびSNSの存在の浸透が進み,物心ついた頃からデジタルデバイスまみれだった世代,いわばガチのデジタルネイティブ世代なわけです。そうすると,経験値が少ないのに,情報が次から次へと入ってくる。

 ゆえに何が起こるのか。彼らの多くは,ローカルで経験したことのないようなことを,グローバル(とまではいかなくても,少なくともナショナル)スケールでの成果として見せつけられて,結果として勝負する前に自主退場する。努力する前に,向き合うことを放棄してしまう。

 そして,そういうことに自分の感情をもってして向き合ったことがないから,人から与えられたもの,ないしはパッケージングされたものを素直に額面通りに受け取ることしかできず,自分で歩み寄ったり,自分で離れたりすることができないのかもしれません。これ歩み寄ったら傷つきそうだな〜とか,これは離れたほうが良さそうだな〜,みたいなのが,自分の感情としてわからない。パッケージングされた感情,どこかの漫画か恋愛リアリティーショーかなにかで得たとしか思えないような言葉を並べて自分の感情を表現することしかできないのです。

 念の為確認ですが,これは大学受験生の話をしています。決して小学校高学年女子とか中学生男子の話をしているわけではありません。そして,そういった状況を大学受験予備校講師の私が感知するレベルで,彼らは大人の前で表立ってそのような言動や行動をしているのです。次の春からは大学生になり,ある程度成熟した思考をもって,さらにその思考や経験を深化させるべく歩んでいくであろう,そういうステージにいるはずの若者と対話しているはずなのですが,(もちろんそういう若者もちゃんと存在していて頼もしい限りなのですが)そういう若者は相対的に数が減少している。

(これは,単に私の威厳がないとか,あるいはそもそもの指導しているところの母集団の性格がどうとか,そういうことにも関連するのでしょうが,ここは客商売なので仕方ない,生徒の悩みの種を解決し希望の進路を叶えるためには,若者に歩み寄って,諸々のアプローチを厭わずやっているわけです)

 そうやって,パッケージングされた感情でしか表現できないような幼さを持ち歩いているので,受験勉強においても,パッケージングされた「わかる/わからない」の線引きしかできないのかもしれません。その「わかる/わからない」の線引き(コントラスト)が無駄に明瞭なので,ちょっと考えればわかりそう,みたいなバッファーゾーンが存在しないから,わからないことへの不安が卑しくも大きいのかもしれません。

“全てを知ってしまっている”若者は,大学で思いっきり人生を捻じ曲げられてほしい

 とはいえ,かく言う私も,やっぱり高校生の頃は幼かったのです。私の記憶からはしばらく消えていましたが,妻(高校の同級生)に最近言われるのは,「高校のとき,視野3cmだったよね」ってことです。部活やりまくって,自分の浅すぎる合唱哲学をぶちかまして(それが偶然功を奏して)全国大会に出場したり,夏休みの読書課題をフルブッチしてイキってたりと,(前述のような文脈とは異なりますが)ある意味での幼さがあったわけです。

 しかし,そういう幼さが適切な程度に自身の前に顕在化され,そして解消されるのが,大学受験とその後の大学生活だと思うのです。

 昨今の受験をとりまく環境は,目的意識を持って大学に行かなければならない,いや少なくとも「目的意識を持って大学に行った方がいい」という暗黙の前提が全受験生に共有されている気がします。それゆえ,大学からも「大学で何を学ぶか?」「どういう社会貢献につながるか?」みたいなことが必要以上に提示され,そして自分の学びたいことと大学の提供する教育とのマッチングが何らかのモノサシで測られます。そして,そのマッチング度が高いほど,いや語弊を恐れず言えばマッチング度が高い“っぽい”ことを大学側へうまく伝えられるほど,大学からの評価も高く,より良い進路を掴めることになります。

 「将来自分はこういうことをやりたい,十年後にこういう仕事で活躍したい」というビジョンがあることは尊いことだし,それを実際に成し遂げることができる稀有な人間も実在するので,それ自体は一切の否定の余地がありません。また,ビジョン通りにいかなくとも,現時点でのビジョンがある人とない人とでは,当然前者の方が人生を当事者意識を持って歩んでいくことができるので,そういう意味で強く,それも私は大いに肯定的に見ています。

 しかし,そのビジョンないしはマッチングについて,勘違いしてはいけない部分があります。それは,そんなもの,これからの大学生活でいくらでも変わっていい,むしろ変わってナンボだということです。

 そもそも,高々20年も生きていないような,しかも親元を離れて生活したことのないような人間が大学入学前に想定する「将来の自分」なんて,どれほどのものでしょうか?私は,そんなの取るに足らないショボいものだと思っています。逆に,大学に入ってから全て想定通りに進んでしまう人生ほどつまらないものはないと思っています。

 大学に何のために行くのか。人それぞれに目的や動機があると思います。それら全てに対して,紋切り型で私の主張を押し付けるつもりは毛頭ありません。ただ,私自身は,大学に行って,その後の人生を捻じ曲げてくれる教授と出会って,とっっっっっても良かったと思っています。北極圏・スピッツベルゲン島に連れて行ってくれた教授がいなければ,今頃ツマラン人生になってたかもしれません。(無論,対照実験ができないのでそんなのは妄想に過ぎない可能性は否定できませんね)

オスロからロングイヤービエンへの機内から見えた景色

 周氷河地形の研究なんて,高校時代は全く知らなかったし,興味があったとしても「ノルウェーのソグネフィヨルドがアツい!」くらいの地理オタク的関心があっただけで,そんなことに人生の一瞬であっても熱中することになるとは思いもしませんでした。でも,そんな世界が大学にはあったのです。

ロングイヤービエンの集落と周氷河地形観測

 この教授には,結局そういう経験だけさせてもらって,でも卒論だけやって研究室を出てしまった(修論から人文地理に行ってしまった)ので,いわば“恩を仇で返す”ようなかたちとなってしまいました。もう退官もされていて,たぶん今後一生お会いする機会もないでしょうが,人生観を変えられるようなクソデカ経験だったのはマジの話で,そのあたりの話は別のブログでまた時間を見つけて書きたいと思っています。

 大学に入って,人生を捻じ曲げられるような経験をしてほしい。それが,短期的に良いか悪いかはわからないし,中長期的にも良いか悪いかなんてわかりません。でも,そういう機会が,確かに大学にはあります。そして,大学であってもなくても,そういう機会を与えてくれるような大人に出会ってほしいな,と,思うのです。

 私自身がそういう大人になれるかというと,まだまだなんだと思います。いうてある程度生徒に寄り添ってしまうし,評価アンケートだって気にしてしまいます。そんな小物なのです。

 でも,私と関わった結果,大学へ歩みを進められて,そこで人生を捻じ曲げられるような経験をしてほしいなと思うし,そういうチャンスを掴むために仕事をできていると思ったら,私も少しは生きていて良かったかな,と思うのです。私と関わったことがない人であっても,何かの拍子にこの記事に出会ってしまって,ああ大学ええな,と思ってもらえたら嬉しいです。

 人生を一歩ずつ歩んでゆくみなさんに幸あれ。ひとりごとでした。

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