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“役に立つモノゴト至上主義”を考える 【前編】

 ノーベル賞発表の季節がやってくると,毎年のように「基礎研究の重要性」に関する議論が巻き起こります。私自身も,大学院在籍時から,そういうのを毎年目の当たりにしてきて,「ああ今年も相変わらず同じこと言ってんな〜」くらいに思っていました。今年は日本人受賞者がいないからか,そもそも大々的に取材を受ける研究者が(まだ?)おらず,大衆紙やTVメディアでもそこまで露出がありません。(もしかしたら新型コロナウイルス関連の報道の比重が大きいため,それ以外の報道が単純に軽薄化しているだけなのかもしれませんが…)

基礎研究とは?重要性に関する議論

【基礎研究】
特別な応用・用途を直接に考慮することなく自然世界を追究し、仮説・理論の形成や新しい自然認識を得るために行われる理論的・実験的研究。
(Weblio辞書より引用)

 表現に多少の差異はあれど,概ねこういう説明になるでしょう。この基礎研究の重要性に関する議論は,Google検索でサッと調べただけでも,枚挙に暇がありません。例えば,河北新報の2019年10月11日の社説『ノーベル賞受賞/基礎研究こそ日本の強みだ』では,大学や民間企業における研究環境で成果主義・効率主義の色彩が強まり,研究開発力が相対的に低下していて,“選択と集中”の路線を転換する必要があることを,吉野彰氏(2019年・化学賞),本庶佑氏(2018年・医学生理学賞),大隅良典氏(2016年・医学生理学賞)のコメントを引用しながら述べています。

 一方,ノーベル賞の文脈を離れますが,基礎研究の重要性を別角度からより広義に述べている文章もみられます。JT生命誌研究館の尾崎氏は『基礎研究は全ての人の役に立つ』のなかで,人間の活動は,①情報収集,②状況判断,③行動の選択の3つに集約され,基礎研究とは②と③をより良いものにするための①の活動そのものであり,全ての人にとって大切であると述べています。情報が溢れる現代において,より良い人生を過ごすためにも,人文科学や社会科学を含め,あらゆる学問の基礎研究の蓄積が役に立ちそうですよね。そういうことをおっしゃる方々は少なくないと思われます。

 しかし,私自身,その“役に立つ”という言葉をそのまま鵜呑みにしていいのだろうか?と思うことがあるのです。もちろん上述の話は広義で“役に立つ”ということなので,それはまことその通りだと思いますし異論はありません。しかし,そういうのは“役に立つ ≒ good”であるというフワッとした前提から話を始めているのであって,それがなんとなくの雰囲気を醸成して,行きすぎると“役に立たない ≒ bad”という否定に繋がりはしないでしょうか?また,そもそも基礎研究を含め,世の中のあらゆる物事の重要性を“役に立つ or not”のモノサシで測ること自体が,もしかすると適切ではないのでは?と思うことがあるのです。

 大学受験生に“役に立つ”ことを常日頃から無意識に考えて仕事をしている私ですが,今回は,そういうことについて,少し掘り下げて考えてみたいと思います。「基礎研究の重要性」を入り口に据えた記事ですが,予備校生への指導や私の学問的関心事項を具体例にとりあげながら,“役に立つモノゴト至上主義”的な世の中に対する疑問を投げかける記事となります。大学や研究機関で今まさに研究をされている方からすると,大変物足りない印象を与えてしまうかと思いますが,いち素人が考察したものですので,悪しからず,ご了承いただけますと幸いです…

“役に立つ”とは,どういうことか?

 そもそも“役に立つ”とは,一体どういうことなのか。これも複数の辞書を引いてみると,大体似通っていて,「使って効果がある。有用である。」という言い換えに落ち着くでしょう。すなわち,まず何らかの用法や用途が明らかになっているものに対して“適用できる”ものであって初めて,“役に立つ”と言えそうです。ここで一つ,問題が生じたことに気づきます。そう,役に立つかどうかは,現在のモノサシでしか評価できないんですよね。いまこの世の中に明らかな用法や用途が存在する(あるいは数年後〜数十年後にそれが期待できる)ものであれば,それは“役に立つ”モノゴトになり得ます。例えばAI技術は多くの単純労働に代わるモノゴトを生み出せるという点で用法や用途が明らかになっているので,その文脈では明らかに“役に立つ”と言えます。(AI技術が真に良い社会の形成に貢献するかという話については今回の議論の範疇を超えるので触れません)。

 一方,世の中にはそもそも用法や用途が不明瞭なものがたくさんあります。そのうえ,場合によってはそれ自体が厄介者として扱われることもあります。しかしそれが時代の変化に伴って社会環境が変わると,一変して“役に立つ”とされることもあります。前者と離れた例になりますが,例えば北東日本の日本海側の農山村地域では,毎年冬になると大量の積雪があり,それが人間活動(農作業や交易)の妨げとなってしまうことで,雪はいわゆる厄介者としてみなされてきました。しかし,それが経済成長にともなう余暇活動の創出により,スキーブームを形成し,雪は農山村の経済発展の牽引役となった,すなわち“役に立った”のです。(大学院時代の指導教員の研究テーマだったもので思い付きで例示…)。また,炭坑における温泉も,同様の構図でみることができますね。炭坑労働全盛の時代は温泉が湧くことが掘削の妨げになっていましたが,閉坑後はその温泉があったことで東洋のハワイアンリゾートとして名を馳せることになった,というのは,福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズの話。(私の妻が幼少期からハワイアンズ好きで,私も毎年行くうちに印象に残っていて例示…)。他にもそういう例は山ほどあると思います。

 昔(高度経済成長以前)は,無駄だからとか役に立たないからといって淘汰されることはなかったでしょう。雪や温泉によりもたらされる不便を人為的に克服するということ自体に限界があったし,そもそも諸々の資源(自然,人口,経済,空間…)に余裕のある時代だったため,他人の畑を食い荒らさずとも(資源を奪い合わなくとも)自ら開拓することで得られるものが大きかった。でも今(バブル崩壊以後?)では,その時代のモノサシでもって“役に立たない”と判断されたものはそこで淘汰されてしまいかねない。限りある資源の争奪戦が続く,そういう時代になったのだと思います。

 しかし,いま役に立たない(役に立つ見込みがない)からと言って,それが将来ずっと役に立たないかどうかは全くわからない。役に立つかどうかを測るモノサシは,時代とともに変化します。だから,いま役に立たないけれども,将来もしかするとどこかで誰かの役に立つ。そういうものが,もしかすると山ほどあるのかもしれません。(でも,やっぱりそれは現時点では誰にもわからない…)

【参考】
<役に立つ>とはどういうことか。|プリズン・ドクター|岩井圭也
“役に立つ”研究について,特定の専門家以外の人々はどう役に立つかなんてパッとわからないよね,だから全ての研究に一定の価値があるのでは?という主旨の記事をみつけました。問題意識が共通。こういう意識を抱えている方は少なくない? 

“役に立つかどうか”以外のモノサシも必要

 そういう意味で,まず,役に立つかどうかで取捨選択をするような価値基準(?)が,行き過ぎたものにならないように,誰もが心がける必要がありそうです。今の日本は資本主義社会ですから,どうしても,社会全体として(無意識に)経済的な利益に繋がる(とその時点で思われる)方向に舵を切りやすい。でも,そこに全振りしてしまうと,あとで(経済的如何にかかわらず)より大きな利益をもたらすような選択肢を失ってしまうことになりかねないわけです。役に立つモノゴトを選択し,集中して投資をするのも無論必要なことですが,それは無意識でそうなっていくものと思われます。(経済学に全く詳しくないので,そういう理論を引き合いに出せなくて反省…)。いま必要なのは,むしろ“役に立つモノゴト至上主義”を脱却し,短期的に何らかの利益に結びつかなくとも,何事にも幅広く取り組めるような環境を作ることなのではないかと思うのです。

 限りある資源(例えば研究開発においては研究費)を分配するためには,何らかのモノサシでその優劣を測り,それに基づいてどこかで取捨選択しないといけないのは本当にその通りです。そのモノサシが適切かどうかを,常にあらゆる角度から見極める必要がありそうですよね。

 この手の話は,一種の政策提言(?)じみたものになりがちで,そういう意識がないわけではありません。ただ,そういう大きなスケールの話というよりも,私が今回の記事で考えて文字に書き起こした背景には,個人の意識レベルの違和感(?)がありました。前述でも触れましたが,あまりに多くの人が“役に立つ”ことは絶対的な善みたいに捉えていやしないか?という疑問がありました。もちろん,“役に立つ”ことそれ自体は良いことなのですが,そうすると,相対的に,短期的に“役に立たない”ような,何らかの趣味的なモノゴトが軽視されて,次々に淘汰されていくのではないか?という懸念があったのです。だから,個人レベルでもう少し,そういう“役に立たない”ような,何らかの趣味的なモノゴトに対する許容性を高められると良いな,と思っています。

 何やらよくわからない研究を黙々とやっている人に対して「何それ,何の意味があんの?早くやめなよ」と言うのではなく,そっと心の中で「なんかよくわからないけど,突き詰められるものがあって良いことだね」と呟けるような寛容さがあるといい。同様に,誰がどう見ても経済活動に結びつかなそうなマイナーな趣味を持っている人に対して,「そんな無駄なことやってないでもっと役に立つことをしなよ」と言うのではなく,それが役に立つと判断できるモノサシを自分が持ち合わせていないだけで,時代や環境次第ではそれが化けるのかもしれないから,少なくとも否定はしないでおこうという謙虚さがあるといいな,と思うのです。(もちろんそれらがいつ日の目を浴びるのか(浴びないのか)はわからないし,そういう一種のリスクを考慮してあれこれのアドバイスをする周囲の年長者,という構図は想像に難くないので,一概に謙虚であることがいいこととも言い切れませんが…少なくとも否定から入るのはいいことではないですよね)。

願わくば,「タモリ倶楽部」の余裕を

 私は「タモリ倶楽部」が好きなのですが,(ご覧になっている方はわかると思いますが)まさにそういうことです。大抵の人には刺さらない瑣末なモノゴトをひたすら追いかける大人がいる事実に気づかせてくれるし(日常に忙殺されているとそういうのを忘れてしまう),内容も実に瑣末なんだけど面白い。本当に役に立たないんだけど,だから良い。年を追うごとに,だんだんと「あれ,なんか大衆に迎合してきたかな…?」と感じることは多くなってきましたが,あの世界観が地上波で放映されているうちは,まだ大丈夫だと思っています。逆に,タモリ倶楽部が放送終了となったら,それは真に危惧すべき状況なのかもしれません…。

 話が逸脱しすぎるきらいがあり,恐れ入ります。そういうわけで今回は【前編】として,いまは役に立たなくても,将来どこかで役に立つ可能性があるから,役に立たない(役に立つ見込みがない)ものでも幅広くやることが重要っぽい,という話をしてきました。(それから,幅広くやることに対して,否定するのではなく,面白いと思える余裕があるといいな,という私の価値観も添えてしまいました)。一方,この考察には続きがあります。【後編】では,私の仕事(塾・予備校と大学受験)の界隈や学問的興味の領域の周辺で感じることをベースに,いまは役に立ちそうだが,それが将来的にずっと役に立つとは限らないから,役に立つことを意識するだけでは片手落ちになるよね,というようなお話をする予定です。近々またお会いできますと幸いです。ありがとうございました。

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