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あたかも簡単に大学に受かるようなコンテンツの飽和によって,富士登山が高尾登山のように演出されているのでは?という話

 どうもこんにちは。ひとりごとです。実質的に大学入試スタートとなる大学入学共通テストまで,残り2ヶ月を切りました。

 そんな中,例年の傾向ではあるのですが,予備校では10月頃からだんだん来なくなる生徒が出てきます。“来なくなる”というのは,特定の授業に出席しなくなるというよりも,予備校そのものに登校しなくなるということを(ここでは)指します。春先から(あるいはそれ以前から)ずっと根詰めて頑張ってきた生徒は,この時期に伸び悩んですっかりくたびれてしまって来なくなるケースもあるようだし,逆に(客観的にみて)学習量が足りていない生徒も秋口に受けた模試の結果をみてやる気が低減して来なくなるというケースもあるようです。(中には,家の方が集中して演習できるから予備校に来ないという生徒もいますが,これはごく稀なケースでしょう…)

 上述の来なくなる生徒の2類型のうち,前者の一部は,目的意識を持って長期間勉強してきたが,自分の能力の限界を感じてしまったという“挫折”を今まさに経験しているのだと思われます。頑張ったけどやっぱりダメかもしれない,継続は力なりと思っていたが限界なのかもしれない,という経験は,その後社会人になってからのより大きな(取り返しのつかない)失敗を回避し,充実した人生を送るための貴重な財産となるのではないかと思い,価値あることだと私は考えています。幼少期からの自己肯定感の高い生徒であれば,そこから自力で(ときに周りの力を借りながら)立ち上がり歩き出すことができるでしょう。

 また,後者の中にも,親と相談して進路を再考し,やはり難関大学を目指すのではなく専門学校を目指すとか,国立受験を考えていたけれど科目を減らして私立受験に切り替えるとか,そういう前向きなシフトをとる生徒もいます。本人が納得し悔いのない進路を歩めるようにすることが私の願いであり私の仕事であるので,そういう様子を見ると私も一講師としてほっと胸を撫で下ろすことになります。

「受験うつ」に陥る生徒も?

 ただ,その限りでない生徒もいます。前者であっても後者であっても,もう立ち直れないような状況に陥ってしまうケースがみられるのです。とくに今年は4月〜5月に予備校校舎閉鎖(自宅学習)期間があって,学習のペースを掴めず,本来ならその時期に,第一志望校をともに目指す新しい友達ができていたかもしれないところだったけれど友達もできず,その後も例年のように大声で喋って笑い合うこともできないため,見えないストレスが蓄積してしまっているように見受けられる生徒も少なくありません。私はその道の専門家ではないので,あくまで生徒の話を聞く中での推測ですが,そういう生徒はいわゆる「受験うつ」のような状態になっているのかもしれません。

 上のリンクは「受験うつ」の参考ですが,同院は今年9月に,今年の状況を踏まえた特徴を記事にされています。簡単なセルフチェックテストもあるので,なるほどこういう状況は本人の意識次第ではどうにもならないのか,とよくわかります。

 確かに,こういう状況の生徒は少なくありません。今年に限っては,こういう生徒が多くなってしまうのも仕方のないことなのかな…とも思います。しかし,現代の受験を取り巻く環境をみていて,10年ほど前の自分の受験と比較して,一つ思うことがありました。「あたかも簡単に大学に受かるようなコンテンツの飽和によって,富士登山が高尾登山のように演出されているのでは?」と。

「富士登山」と「高尾登山」の違い

 いきなり登山の例え話になってしまいましたが,ここで状況を少し整理しておきましょう。登山や山岳にそれほど詳しくない方であっても,富士山はご存知と思われます。標高3,776m,日本で最も高い山です。標高2,000m台の各登山口(メジャーなのは吉田と富士宮)まではバス等でいけますが,そこからはひたすらの歩きです。山小屋の物資供給や山岳トイレのし尿処理,及び緊急性の高い人員輸送(怪我人の搬送等)ではブルドーザーが使われますが,それ以外は原則として歩きです。高地の酸素濃度や長距離の歩行に慣れている方でなければ,おそらく途中で何らかの体調不良に悩まされるでしょう。(私自身,4回登ったことがありますが,標高3,000mを超えてきたあたりで酸素濃度の低さにやられて,いわゆる高山病の症状に悩まされました…)

 一方,関東近郊の方でないとご存知ないかもしれませんが,高尾山は東京都内にある標高599mの山です。富士山が富士浅間神社の土地であるのと同じように,高尾山は高尾山薬王院の土地で,信仰の山としての性格も有していますが,現代においては“身近な観光登山”の目的地としての性格が強いでしょう。登山口までは京王電鉄線が乗り入れており,登山においてもケーブルカーやリフトがあり,足腰があまり丈夫でない(歩き慣れていない)方でも容易に山頂を訪れることができます。道中にはビアガーデンもあるし,さながらアミューズメントパークの様相を呈しています。(宗教色や都市との近接性において多少の程度の差はあるかもしれませんが,関西でいえば比叡山に例えてもいいかもしれません)

高尾山のような身近さを感じながら,人々はいざ富士山へ

 さて,これらの2つの山を舞台に,平成期以降,登山ブームが形成されてきました。(昭和期以前も“登山ブーム”はありましたが,いわゆる山岳部や山岳会を主体としたものであったため,ここでは取りあげません)。高尾山は従来から京王による観光(参拝)客誘致が図られ,歩かなくても楽しめることから老若男女に人気でした。一方,富士山はその間に世界文化遺産に登録され,アウトドア用品メーカーの広告や大手旅行代理店の登山ツアーなども組まれるようになり,文字通り“登れる山”としての知名度が向上しました。各種Webメディアや雑誌でも,『ゼロからの富士登山』みたいな特集がひっきりなしに組まれるようになるし,SNSでも楽しかった富士登山の経験がそこら中にシェアされてきました。そして「みんなが富士山に登ってるから,私も行ってみたい/行けそうだ」というような意識が形成されるようになりました。

 実際,そういうメディアやSNSの情報は,心から登山が楽しいと思っている人が発信しているものが大半であり,そういう人が撮った写真や書く文章というのは,殊更に魅力的に感じられるわけです。山好き/登山好きの人も,そうでない初心者に対して「山はきついところだから来るな」という立場をとるケースは非常に稀で,大方は「この自然の素晴らしさをぜひ共感してほしい」みたいに思っています。(もちろん,あまりに山での“マナー”を弁えない人については快く思っていないし,単純に自然地域に大量の登山者が足を踏み入れれば当然環境負荷が増大するため,猫も杓子も登山することについては否定的な立場をとる方が多いことは言うまでもありませんが…)。また,当たり前ですが時を遡れば誰もが初心者であって,その初心者の時に苦労した経験があるからこそ,「初心者でもこうすれば登れる」とかいう(ライフハック的な)情報を発信するわけです。だから,未経験者でも初心者でも富士山を身近に感じられてしまい,それがひいては“高尾山感覚”での登山に誘ってしまうわけです。

 上述は登山の動機に着目しましたが,それを実現させる後ろ盾として,登山用具の進化が挙げられます。ここ20年の間に登山用具の性能は飛躍的に進化を遂げてきているので,昔はいかにも命の危険があって登れなかった未経験者層でも,今では安全に快適に登れるようになっています。もっと極端な例を挙げると,50年前だったら低体温症を起こすような悪天候での登山でも,化繊100%のインナーを着てゴアテックスのアウターを着ていれば何のことはなく快適に歩けてしまうという話はよく聞きます。(50年前の登山を知らない私なので,これがどのくらいありがたい話なのかを身を以て実感することができませんが,これは相当すごいことです)。

 また,携帯電話の普及と山岳域での利用可能性の拡大も大きな後ろ盾となりました。それまでにも有名な山域であれば案内看板や地図などが充実しており,自らの登山地図と併用することとで安心して登ることができていたものの,万が一登山道を外れたりトラブルに遭遇したりすれば大事故に繋がりかねませんでした。携帯電話が普及しても,2000年代はまだ山岳域での基地局整備が進んでおらず圏外エリアが多く残されていましたが,この10年でその状況もガラッと変わりました。多くの山域の登山道上で繋がるようになり,万が一の連絡が取れるようになりました。

 しかし,道具の進化や情報の充実で身近に感じられるようになった富士山ですが,それでも前述のとおり“みんな登っている”わりに実際はかなりキツイのが富士山です。日頃からのある程度の運動習慣や,ある程度の登山経験がないと途中で音を上げてしまいますし,それだけならまだいい方で,ちょっとでも無理をして疲れた体を押して登っていると,何気ない石ころ一つに躓いて捻挫や骨折みたいなことにもなりかねません。(実際,登山道での事故は疲れが蓄積した下山中に多いようです)

 「みんな登ってるし,道具も揃ってるし,情報も十分に手に入れたし,もうこれで万全だ」みんなそう思って富士山に登るが,そのうちの一定数は道中で高山病の症状に陥り,あるいは体を痛め,断念していくわけです。場合によっては,取り返しのつかない事故を起こして…。

 この構図,何かに似ていませんか?そう,まさに昨今の受験をめぐる様相と同じなのです。

「みんなやってるから自分にもできるはず」「YouTubeでこんなに簡単だって言ってるし動画見るだけで成績上がりそう」という誤認が生じる

 登山における道具の進化や情報の充実は,受験における教育コンテンツの充実と対応します。私が大学受験をした,今から10年ほど前は,大学受験といえばやはり予備校で受験に必要な英語や数学の本質を学ぶのが大前提みたいな印象がありました。(もちろんその例外もありますが,私がいた公立高校では同期も高3になると,その9割方がいずれかの予備校に通っていました。中でも理系はS台,文系はK合,そして引退の遅い運動部を中心に文理問わずT進で映像授業…みたいな風潮がありました)。私は高3の1年間,S台に通っていましたが,やはりちゃんとテキストや授業も練られていて,よくある“無駄にイラストがあって初学者オリエンテッドな感じ”は一切なく,授業も“点数が取れればいい”みたいなフィロソフィーが一切ない,ちゃんと理解してちゃんと解けるようにしっかり導いてくれたのが強く印象に残っています。当然,受講に費用もかかりますし,(少なくともS台の授業は)スタートラインに立つ時点で一定程度の基礎を身につけている必要があったので,やはり“誰でも受講し活用できる”ような代物ではなかったのだと思われます。

 ところが,近年では教育コンテンツの幅が格段に広がりました。予備校に行かなくても,『月額〇〇円で授業動画見放題』のサービスを皮切りに,YouTubeでも各種授業動画がアップされはじめ,完全無料で予備校の授業を受けられるようになりました。いつでも誰でも視聴できるのと同様に,いつでも誰でも動画投稿できるので,広く見渡すと玉石混交であることは否めない状況であると思われますが,それでもバックにスポンサーがついて有名講師(あるいは“実力派”講師)の授業を無料で視聴できるのは大変価値のあることです。誰でも画一的に(平等に)教育の機会が与えられるという点では,(もちろんスマホやタブレットなどの端末入手におけるイニシャルコストは無視できませんが)経済格差や地域格差を是正しうる契機が与えられたということで多方面から歓迎されています。

 しかも,そうした授業動画をはじめ,現在世の中に溢れている受験用教育コンテンツは,控えめに言っても死ぬほどわかりやすいものが多いです。ひと昔前であれば,受講者の想像力を要するようなやや抽象的な事象も,そういった動画では綺麗にビジュアライズされていたりして,もはや感嘆します。(感嘆とともに,想像力を働かせて思考を進めていた私からすると,「ゲームボーイとかゲームボーイアドバンス時代のポケモンの平面グラフィックが十余年の歳月を経てすっかり3Dでヌルヌル動くようになってしまい想像力を働かせる余地がなくなってしまった一種の寂しさ」に似た感情も持ち合わせてしまっていますが…)。そうすると,おそらく自らの頭を働かせることをしなくてもすんなりと理解できてしまうので,いわゆる“わかったつもり”状態を量産しかねません。(もちろん,授業動画を見ただけ/参考書を読んだだけで一発で理解ができて,そのまま応用的思考につながる人もいますから,そういう人にとっては昨今の受験環境はきわめて理想的でしょう)

 また,「偏差値30からの難関大合格を果たした〇〇の学習メソッド」とか,あたかも“これをやれば受かる”ような論調の学習法動画(受験啓蒙系動画?)も世の中に溢れかえっています。こういうのを見ると,仮に全然勉強してなくても,高校でサボりまくっていても,「なんかいけそうな気がする!」と根拠のない自信とやる気に満ち溢れることになるようです。本来は自分の頭を働かせて手を動かし,繰り返し復習し,類題をたくさん演習するという労力が必要なのに,それをしないで“できた気”になる。「みんなやってるから自分にもできるはず」だと思い,「YouTubeでこんなに簡単だって言ってるし動画見るだけで成績上がりそう」という誤認に陥ってしまいます。

 しかし,そういう受験生に待ち受けているのは,組み立てて思考することができず(応用できず)模試でE判定をとり続ける未来なのです。そう,甘く見て富士山に登って高山病や怪我をするように,簡単だ余裕だと思って受験に臨もうとしたゆえに勉強の基礎体力不足の事実を突きつけられて絶望するのです。ひと昔前であれば,受験勉強は大変だし,そもそもこの“難しそうな”テキストを能動的に活用しないとそのレベルに達することができないという広い認識があって,それゆえに一種の見えないハードルが所与だったわけです。だからそもそも基礎体力がない人はスタートラインで一定程度の諦めをすることができました。でも今は,そのハードルが事実上完全になくなってしまい,誰でも希望の光を見ながらスタートラインに立てることになってしまいました。

 これは望ましいことのようで,裏を返せばある意味残酷なことなのかもしれません。「みんなできる」と見せかけ,これをやれば誰だってできると思わせておいて,実際は(その授業動画や啓蒙系動画に基づいて)自分の頭を使えているかどうかが重要なのにそれに気づかせるチャンスなく,秋を迎えさせてしまう。「これで解ける!これで成績が上がる!」という薄っぺらい経験によって蓄積したひ弱な自己肯定感が,実際に模試や実力テストで見事に打ち砕かれてしまったときに,旧来よりも大きな落差のショックを食らってしまう。これが,(世間ではあまり言われていないけれど)いわゆる“受験うつ”の一要因になり得ているんじゃないかな…と思うのです。

 もちろん,「自分の実力くらい客観的に自分を見て自分で気づけよ…」と私自身も思うし,「そのくらいの落差でうつになるくらいだったら社会人になったら生きていけないのではないか」という気持ちももっともだと思います。しかし,どうもそれが容易でない生徒が少なくなさそうです。親をはじめとする周りの大人や,取り巻く環境が,“大学受験は当たり前”という意識を植え付け,それ以外の道を事実上遮断していることも,生徒それぞれの客観的振り返りの不足や自己肯定感の低減に繋がっているのかもしれません…。

簡単だと思うからこそ,“みんな受験”は仕方ないが…

 これは何事にも言えることですが,自己肯定感がある程度なければ,困難を乗り越えたり長い道のりを継続して歩むことはできません。大学受験の長い道のりを歩み,大学合格を掴み取るためには,そうした自己肯定感が必要なのは大前提です。だから,ある程度の自己肯定感がないと受験で失敗しやすいし,途中で断念し“うつ”的な状況になりやすいわけです。ですが,それ以外に考えられる要因として,「受験が簡単だと思えてしまうから」という側面もある気がするというのが,今回の記事の要点であり,昔はなかったが近年で生じはじめたと思われることでした。裾野が広がったゆえにこういうことが生じるのは,受験に限らずともよくある話なのかもしれませんね。

 しかし,裾野が広がったからといって,大学受験がある程度“大変である”ことには変わりありません。その大学で,その学問を学びたいという意志があるだけでなく,それを学ぶのに適性があるということを(主に学力のモノサシで)大学側に示さないといけないわけで,その適性を1年間(あるいはそれ以上)かけて身につけていくわけです。大事なのは,その“大変さ”をどれだけ事前に理解して受験に向かえるか。あるいは,それに向かう覚悟が前もってあるか,受験する当事者意識があるか。その辺りが不十分だと,やはり途中で立ち直れなくなってしまうんじゃないかな,と思うのです。

 いわゆる受験産業や,受験に携わる人々は,受験生が増えればパイが増えますから,“誰でも受験できる”という平等性や障壁の低さをアピールしがちです。しかしそれが行き過ぎると,難度を勘違いして歩み始めてしまう若者を増やしてしまうことにも繋がります。私も,受験に携わる講師の一人として,一定の困難もつきまとうことも併せて伝えていかないといけないな…と改めて考えた次第でした。

 今日もひとりごと,お付き合いくださりありがとうございました。

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