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「地獄」の教理を改めて問い直すべき聖書的理由について

ところで、神が人を天国に召される目的は何でしょうか。

《あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。・・私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。》(コリント第一6:2,3)
《彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。》黙示録20:4

端的に表現すれば「裁き人募集」です。

「世界を裁く」ことは確実にあなたの仕事になります。そのために召されたのですから。
天に召された人々は、世界を「裁く」役割が与えられます。「裁く」ことには、その決定の履行者も必要です。いわゆる刑罰執行者です。例えば、刑務所内の管理、死刑執行者などです。それは誰が執り行いますか。「裁く」ことにはそうした役割を担うことも含まれます。

もし、「地獄での永遠の責め苦」が正しい理解であるとするなら、あなたは確実に、その永遠の責め苦を「与える側」に立つということです。
しかもその対象は膨大な人数です。

人口は現在なお放物線的に増加しています。
「裁きの日」まで後どれくらいの年数があるか分かりませんが、歴史上に存在した総人口は天文学的な数字になるはずです。
天国に召されるのは、「入ろうとして入れない人のほうが圧倒的に多数で、天国に至る門を見出す人は「まれ」にしかいないと言われていますので、一人あたり、数万人、あるいは数十万人の罪人に対して毎日毎日、来る日も来る日も「責め苦」を与え続けなければならないのです。
しかも永遠にです。
責め苦を与えられる方も大変ですが、四六時中、永遠に・・永遠に・・永遠に・・永遠に・・責め苦を与え続ける側もたまったもんじゃありません。

そしてあなたははっきりを理解する。
「自分の今いる天国」と「罪人が今いる地獄」といったいどこがどう違うんだ。何も変わらない。天国と地獄が違うところは何もないということを。
しかしそれが天国でのあなたの努めです。「こんなことなら死んだほうがまし」と思う時が必ず訪れるでしょう。しかしそれは無理です。

なぜなら天に召される人は不滅不朽の体を与えられるからです。

《死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、・・ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。》1コリント15:42,52,53

罪人に責め苦を与え続けるあなたの努めに終わりはありません。永遠に続きます。

さて、果たしてこんなことが本当に全知全能の神が目論まれていることなどと本気で思えますか。
これでようやくこの、「地獄での永遠の責め苦」というキリスト教のバカバカしさにお気づきになりましたか。

「だってそう教わってきたから。今更そんなこと言われても」という心情は理解できますが、あなたの理性は、「永遠の責め苦を与える全知全能の神」という概念を許さないでしょう。

常日頃から私が「キリスト教」とキリストの教えは全くの別物だと言っている理由は無数にありますがこれもその一つです。

神は何を想って、何を意図して、人を創造されたのでしょうか。これらの事柄は、今一度真剣に考え直して、改めて聖書を調べ直してみるべき強い動機付けとなるではないでしょうか。

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