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「神を知らない人々」は永遠の滅びの刑罰を受けるとされるというのは本当ですか

平成29年度版 文化庁編『宗教年鑑』によりますと、2016年12月31日現在、日本のキリスト教系の信者数は 1,914,196 人だそうです。
そして日本の総人口は 総務省統計局によりますと(平成28年10月1日現在)1億2693万3千人だそうです。
この数字のまま比率を計算しますと 1.05%となります。
日本人の約 99%は「神を知らない人」ということになるのでしょうか。
聖書の解説をしているサイトで、ある牧師が次のように書いているのを見つけました。

名称未設定

そしてその確認できた。というのが次の聖句によるということでした。

そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」-Ⅱテサロニケ 1:8,9

また、別のあるサイトの「聖書に関するQ&A」というページでも、「Q.24キリストの福音を一度も聞いたことがない人も、不信仰者と同様に地獄へ行くのか?」という設問に対して「キリストの福音を聞くことなしに世を去った普通の人々は自分の罪のために裁かれ地獄へ行くのです。」と回答しています。

一般に世界のクリスチャン人口は21億8千万人ほどで、全人口78億人のおよそ3分の1はクリスチャンということになると言われています。
ではその22億人ほどの人は皆「神を知っている」人として類別されるという認識 で間違いないでしょうか?
私も先の牧師の真似をして「この感触が神から来ているかどうかを今確認するために、聖書がこうしたことについてなんと述べているか調べてみることにしました。

ところで、初めにお断りしておきますが、今回の記事は、「回りくどい言い回し」が目立つとお感じになるかもしれません。
伝統的な「キリスト教」教義の中で、すでに確証された、神の定めとみなされているようなテーマのため、これを聖書的根拠をもって覆すことになるため、どうしても、構文として複雑になってしまうことをご理解いただければればと思います。 また、幾分長文になってしまいましたが最後までお付き合いください。
ということで、まず「神を知らない人」を考える前に「神を知っている」とはどんな人たちなのか、あるいはどれほどの人が本当に「神を知っている」とみなされるのだろうかということを考えたいと思います。
最初に考慮するのは、ルカ13章とマタイ7章です。

「「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろう としても、はいれなくなる人が多いのですから。
家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたが どこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。
すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました
。』
だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』- ルカ 13:23-27

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって 奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け
。』- マタイ 7:22,23

「入ろうと」努めている人、キリストに向かって「ご主人さま、主よ」と呼びかけるのは、無神論者でも仏教徒でもムスリムでもありません。
誰よりも「神を知っている」と思われるクリスチャンのうちの多くの人は神からまったく知られていない、他人同然だと言われます。
全日本人のうち「神を知っている」はずの約1%のクリスチャンのうちの、更に大多数の「広い門」を入った人々(仮に6割くらいとすると)を含めた、日本人(99.6%前後?)は「神を知らない人」もしくは「神に知られていない人」ということになります。
ではそのゆえにそれらの人は「永遠の滅びの刑罰を受ける」のでしょうか。

この質問に対して、まさか、自分も危ういかもしれないなどとは微塵も考えないゆえなのでしょうが、私の知る限りほとんどすべてのキリスト教は、ともかく、神を知らない人については、「然り、それが神の定め」と異口同音に答えます。
先の牧師のように、本当にその理解や確信が「神から来ているか」を改めて吟味するために、ちょっと視点を変えて「神を知っている」のに滅びに値すると記されているローマ1 章を考慮してみましょう。

なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。…
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者
神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです
。」-ローマ1:19-32

多くの聖書解説者によれば、これらの聖句から導き出されるのは、実は全人類は文字通り、神についてまったく無知なのではなく、本当は「知っているはず」ということです。
このローマ1章に関する解説はほとんど例外なく、時代や地域や宗教に関係なくすべての人(全人類)は、神を知れるはずなので弁解の余地がないというふうに述べられています。
しかし、ローマ1:19以降、繰り返し出てくる「彼らは」というのを、パウロは本当に不特定多数の全人類を念頭に置いて語っているのでしょうか。
当のパウロ自身は、啓示なくして、神の定めを知り得ると考えていたのでしょうか。
同じローマ人への手紙の後の方でこう記しています。

「…律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。」- ローマ7:7,8

「死に値するという神の定め」という知識があれば、それに従おうとするかは別にして少なくとも「罪」の認識は明確な形で生まれるはずです。
律法の目的についてパウロはこうも述べています。

では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫(イエス・キリスト)が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者(モーセなどの預言者 )の手で定められたのです。」 ーガラテア3:19

律法中の多くの細かな規定などはすべて、「違反を明らかにする」「罪(神のご意思に反する)」を立証する。故に神の不興を買うことを理解し、悟らせるために与えられたものだということです。
全人類が、創造物を通して、また生まれながらの良心の働きによって、神を知り、「このようなこと(様々な悪徳)を行う者が死に値するという神の定めを」知り得るのであれば、ことさらにモーセを通して律法が与えられる必要はないはずではないでしょうか。

パウロ自身、律法がなければ罪を知ることがなかった。貪りが罪深いとは考えなかった。という趣旨ことを述べています。
創造物をとおして人類全般も、神の義なる定めを知りうる故に「知らなかった」と「言い訳ができない」のであれば、「貪りを知らなかった」というパウロ自身の言葉こそ「言い訳」」であり、詭弁を弄していることになります。

アブラハムの子孫として唯一神との直接の関係を持つイスラエル人のパウロですら、もし律法が与えられていなかったら、それに気づかなかったのであれば、それ以外の民族、ユダヤから遠く離れた諸外国の人々の「むさぼり、ねたみ、不和、欺き、陰口を言い、人をそしり、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、親に逆らい、不誠実、無慈悲」などが「死に値する神に対するの罪」と認識し得るでしょうか。
それらの言行に対して「言い訳無用」と断裁される。とパウロが述べていたとは考えられないように思えます。

ですから、創造物を通して「神について知りうる」という下りと、「彼らに弁解の余地はない」という下りは、分離して捉える必要があるはずです。

ローマ1章の文脈、またパウロの文体を見ますと、単に人類一般を指しているとは思えない箇所が多々あります。
例えば、「世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、【彼らに】弁解の余地はない」という部分ですが、この一連の記述が、不特定の人類一般を扱っているのなら、「知りうる事柄は【誰にも】明らか」「【誰にも】弁解の余地は…」と表現されるはずです。
なぜ、「彼らは」なのでしょうか。
「彼ら」に対しては「創造物によって知り得た」ではなく「神がそれを示された」とはっきり述べられています。
そしてその後、一貫して「彼ら」の態度、行いについて、しかもかなり具体的な表現で記されていることを考えますと、おそらく、「彼ら」とは、イスラエルと関わりのあった近隣諸国のどこかで、神の霊の働きを目の当たりにするなどの経験値を持つ人々であると考えられます。
実際「知りうる」と訳されている語は「ギ語:グノーストス」で基本的な意味は「既知」とされています。

「ギ語:グノーストス」が使われている他の参照聖句
「親族や【知人】(グノーストス) の中を捜し回った 」(ルカ2:44)
「この弟子は大祭司の【知り合い】(グノーストス)で …」(ヨハネ18:15)
「ヨッパ中に【知れ渡り】(グノーストス) 」(使徒9:42)

また続く部分の「神がそれを【示された】」という動詞は「ギ語:ファネロー」で 「明瞭 明確 明示 現れる」という意味の語です。
「神が彼らに現われたもうた 」(前田訳)
「神が現わしてくださった」( 塚本訳)

この語は聖書中に数多く使われていますが、次に示す僅かな例からも、この語は意図的、意識的に現す語だということが分かると思います。

「隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、【明らかにされる】(ファネロー)ためです。」- マルコ4:22
「その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を【現わされた」(ファネロー)」- マルコ16:12
「イエスは、その十一人が食卓に着いているところに【現われて】(ファネロー)」-マルコ16:14

これらの用例かあ分かるように、ローマ1:19は、『神について「すでに知られている、知れ渡っている」ことは、「彼らにも」 神ご自身が明瞭にされた。』というような意味になります。

逆に、被造物による知覚は「認められる」と表現されています。
一般人類の知り方は自分の方から大自然などについて思いをはせる仕方で知る、つまり「能動的」であり、一方「彼ら」の方の知り方は「受動的」あるいは「強制的」なイメージを伝えます。

「グノーストス」は「明示」という意味であると確認しました。
それでこの両者の違いは「黙示的と明示的」という正反対のものということができます。

次に示すのは「黙示録」という書名に関する大きな間違いについて」という記事からの抜粋です。
(詳しくは下記のリンクからご覧ください)

------- 引用 -------
本来の日本語の「黙示」は読んで字のごとく『言葉ではなく暗黙のうちに意思や考えを表すこと。』という意味です。
明らかな意思表示はなされていないが、その時の状況などによって、間接的に意思表示と見なされることを日本語で「黙示」と表現します。
逆に「黙示」に関連した語として【明示】というのがありますが、「はっきりと意思表示をする」「意思や物事を明らかに示すこと」という意味です。
------- 引用 終わり -------

それで、やはり「彼ら」というのは「自らそうみなす」という知り方しかない人類全般を指しているわけではないようです。
文脈から「彼ら」という代名詞が誰を指しているのかについて明らかに言えるのは、一つ前の聖句で示されている人々です。

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」(1:8)

ともかく「彼ら」とは「不義をもって真理をはばんでいる人々」です。
どう読んでも、一般論というより、パウロの思いの中に具体的な国民あるいはグループについてのビジョンがあったように伺えます。
パウロはこの「不義をもって真理をはばんでいる【彼ら】」を糾弾する根拠として、神を知っていることを挙げているわけですが、その論拠としてまず挙げているのが世界創生以来、神の特質などは創造物を通して、ある程度認識できるゆえに、基本的な義をわきまえていて当然」と言う論理です。
確かにここまでは一般論なのでしょう。

そして、続く部分に、おそらくパウロの思いのうちにはあって省かれていると思える語句を挿入して書いてみますと、
「これを通して【全人類は基本的に】神を知ることができます。従って、【そうであるならなおのこと】(実体験として神との関わりがあった)【彼ら】には弁解の余地がありません。」
という具合に、一般人類への言及と、特定の「彼ら」への言及がひとまとめにされて表現されているのではないかと思われます。

ペテロがパウロの「手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」(Ⅱペテロ3:16)と記していますが、このローマ1章もその類のような気がします。

どう考えても、そのご意思や目的などは明確な啓示を伝えられない限り「創造物」からは知りようがありません。
まして「ねたみ、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという【神の定め】」を創造物を通して全人類は知ったはずとは断言できないでしょう。

そこで、改めて冒頭で取り上げた Ⅱテサロニケ1章の「神を知らない人々」に注目してみたいと思います。

「神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々」についてですが、この列挙されている2種類の人々ですが、まず「神を知らない」のなら「福音に従う」などということはありえないでしょう。

文字通りに考えれば、神の目的、定め、命令、願いなどについて聞いたことも考えたこともないに違いなく、神を知らないわけですから、「福音」というのも何のことかさっぱり分からないはずで、それ故にそうした事柄に対して「何もしない、何某かをする理由も、全く持ち合わせない人々ということになります。
ですから、神を知らないゆえに従わないのであれば、「知らないもの」という記述だけで事足りるはずです。

ということはここで「イエスの福音に従わない」と表現されている人は、取りも直さず「福音を知っている」ということです。知らないものには従うも従わないもないからです。
ということは「知っているのに、敢えて、従わない」ということなのでしょう。
では、これと、何も知らない人と同罪というのはどういうことでしょうか。

ともかく、前者は「認知」の問題で、後者は行動に注目していると言っていいでしょう。
では、これら2者の人々が、「永遠の滅び」に処される、という根拠は何でしょうか。
それは「報復」であり「刑罰」であると示されています。
「無知や無活動」が仕返しや刑法上の罰を受けるに値するという考えは、理性的にも、社会常識的にもそして、聖書的にも大きな疑問です。

「報復」とはどういうことでしょうか。
   ギ語:エクディキーシス 罰 報い 仕返し
生まれた地域が仏教だったりヒンズー教、その他アミニズムの中で生活した人々にとってユダヤ教やキリスト教、聖書の神について、仮に多少聞き及んではいたとしても、自分にはまったく無関係と感じるのは当然と言えます。
では、仮に対象がそうした人々だとすると、「報復、仕返し」をする根拠はなんでしょうか。
通常「何も知らない、何もしていない」人に「仕返し」をすることはありません。
報復、報いとはリアクション、呼応した反応です。
それで明らかに、「神を知らない」というのは文字通りの意味ではありえないと言えるでしょう。

そういうわけで、「報復されるそのような人々」とは2節前で「あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え…」と言われている、クリスチャン迫害者を指して語られていることは間違いないでしょう。
それら迫害者が「神を知らない人/福音に従わない人」と表現されているのは、先に取り上げたローマ1章の「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず」「彼らが神を知ろうとしたがらないので…」という人々とまさに同類ということでしょう。

ではこの報復はいつ施行されるのでしょうか?
次の節にはこう記されています。

そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。 」(1:7)

その刑執行は、終末のキリスト再臨の時です。
これはつまり、終末期に「二人の証人」による証の業が、神の聖霊と共に全地で大々的に行われる、その限られた期間にだけ当てはまるものです。

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」- マタイ24:14

「神の定め」の(何が、何故、有罪なのかという知識)や「福音」(キリストを通してもたらされる救済などに関する知識)は全人類に証されるということです。
これは人に依存した単なる伝道/宗教活動ではなく、神の業ですから僅かな抜かりもありません。
全ての人々、もちろん全日本人もその時点で一人残らず、「神を知っている」ひとになります。

ですから、パウロが、Ⅱテサロニケ1章で述べているのは、不特定多数の「神を知らない人々」ではなく、特定のグループを指して記されているということです。
「福音に従わない人々」も同様です。従わないどころか、意図的あからさまに敵対している人々のことです。
だから「報復」すると言われているのです。

それゆえにこそ、そのような人々は、滅び(ギ語:: オレソロス 文字通りの死を意味する)に値するということです。
「刑罰」と訳されているのは「ギリシャ語:ディーケで、ペナルティ、司法判決、法的な復習、刑の執行」を意味しています。
たまたま神を知る機会がなかった故に犯罪者として死刑になるというのは、完全に曲解もしくは誤解です。

冒頭で「聖書に関するQ&A」というサイトの回答を紹介しましたが、「Q.24キリストの福音を一度も聞いたことがない人も、不信仰者と同様に地獄へ行くのか?」
という自ら設けた質問に対して、このように解説しています。(一部引用してみます)

牧師2

・・・など、こんな具合に、様々なケースをあげて細かに解説していますが、どの時代に生まれたとか、どんな宗教だったかなどは、神の最終的な裁きには何の関係もありません。
終末以前の人々は、千年の後、復活して「神を知り」その反応によって裁かれます。
終末期の人々は、その時点で「神を知り」その反応(聖霊を冒涜)によって裁かれます。

これで、すでに結論なのですが、蛇足的にもう少しこの「キリストの福音に従わない」と言う人々の現実的な問題点を考えてみたいと思います。
「福音に従う」とは具体的にどういうことでしょうか。
端的に言えば、主キリストに従順な態度を示す。ということになるでしょうか。
あるいは、そのキリストを贖いとして備えられた父なる神のご意思、目的に合わせて自らを調整するということでしょうか。
しかし、「主イエスの福音」は聖書が指し示す唯一のもののはずですが、現実問題としては、「これが福音です。これこそがキリストの教えです」と示されているものは、微妙にあるいは相当に異なったものが無数にと言えるほど出回っているのが現状です。

実際聖書そのものの中に、そのことは予め預言として示されています。
先に示した「広い門を入って主人に追い払われる圧倒的大多数」についての話だけでななく、「小麦と毒麦」のたとえ話や、西暦一世紀以降、大規模な背教が起こることなどが記されています。

毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです
。]」- マタイ13:40-42

あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」- 使徒20:30

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」-Ⅰテモテ4:1

特に「小麦と毒麦」の話からは、本物と偽物のクリスチャンの見分けがつきにくいゆえに、歴史上のこれら両者の混在は、収穫つまり終末期に小麦が取り入れられる、(天に召される)まで、その状態が続くということをはっきりと示しています。

天の王国に入ろうと努力しながら入れない人の方が多いということが神の先見によって見定められている状況の中で、一体どれほどの人が、本来の正しい「福音」を知りうるのでしょうか。
キリストに「私から離れ去れ」と拒絶される多くの人は、自分が教わった「福音」に従っていると信じて疑わなかった人々でしょう。

そういう訳でキリストの再臨まで、誰ひとり天国にも地獄にも行きません。
言い換えれば、文字通り全ての人にチャンスがあります。
そして、最後の裁きに直面して、神のみ怒りによって滅ぼされる、その直前でさえ、全ての人々は、やはり救われるチャンスがあるのです。

最後にこの事を明らかにしてこの記事を終えることにしましょう。
次に引用する聖句は、地の王たちが集合して主に立ち向かうときのできごとです。
わかりやすく言えば「ハルマゲドン」のときです。

なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。
地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」
天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。
ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。
わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」
それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。

御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」詩篇2:1-12

この時、「地の王たち」と「諸国民」(神を知らない人々)は「主と主に油をそそがれた者」(キリストと本物のクリスチャン)に敵対します。
これに対する神の反応は、「怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。」というものです。

そして、続く言葉に注目してください。
しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」

「燃える怒り」の後、なぜ「しかし」なのでしょうか。
燃える怒りを表明しようとされるわけですが、単にそれだけでなく、その寸前ですら、和解の手立てを設けられ、子に口づけをして、つまり和解して、み怒りで滅ぼされないようにと諭しておられるのです。あえてもう一度引用します。

御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」
つまり「滅びないために、福音に従いなさい」ということです。
その諭し、警告を受け入れて懸命な判断を下しなさいということです。
「悟れ」 ヘ語: サーカル 賢明になる、理解、洞察力を得る、慎重になる
「慎め」 ヘ語: ヤーサル 忠告する、指導、警告を受ける、補正する、規律を正す。

「すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。」 新共同訳
「それゆえ、もろもろの王よ、賢くあれ、地のつかさらよ、戒めをうけよ。」 口語訳

この上でなお、「神を知りたがらない」「福音に従わない」人は神からの「報復、刑罰、永遠の滅び」を受ける


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