みんな勘違いしている。「滅び」とは「拒絶」であり、死を意味しない。
まず始めにマタイ7:13,14を引用しておくことにしましょう。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ7:13,14
辞書を引くまでもないかも知れませんが、一応はっきりさせておくことにしましょう。
ほろ・びる【滅びる】-デジタル大辞泉
1 なくなる。絶える。滅亡する。
2 すたれる。衰亡する。
3 死ぬ。
少し前の記事で「狭い門」について取り上げましたが、「滅び」に関するポピュラーな例として再びこの聖句を引用しておきます。
この記事はその「続編」という位置づけといって良いでしょう。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広い・・・しかし、命に通じる門はなんと狭く・・・」- マタイ 7:13,14
反意語としては「命」となっています。関連した聖句からの理解としては、「救い、天の国」などと同義語と言えます。
逆に、「命」の反義語とすれば「滅び」は端的に「死」を意味すると捉えることができます。
ここで「滅びに至る門」と訳されてるマタイ7:13の原語であるギリシャ語をご紹介しましょう。
「命 ζωήν ゾエン」 この名詞は「ζάω ザオ」という「生きる、生きている」という動詞からの派生語です。
では「滅び ἀπώλειαν アポレイア」は間違いなく「死」を意味していると断言すべきなのでしょうか。
「広い門」をネットで検索すると「地獄への門」というような文字がそこここに踊っています。
これから「滅び」と訳されている「アポレイア」を徹底的に調べます。
なぜなら、あろうことか、全く意外な答えが待ち受けているからです。
「狹い門」に関するマタイ7章の少し後で、同様の結末に付いてはこう書かれています。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく・・・不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」- マタイ 7:21-23
そしてルカの記述の方では実際、最後は、こうした表現になっています。
「皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そ こで泣きわめいて歯ぎしりする。」- ルカ 13:22-29
離れ去るようにと告げられ、王国に入ろうと願って来たのに、受け入れられず、締め出される、つまり文字通り 「門前払い」にされるということです。
不思議なことにどちらにも「死」や「地獄」などをイメージするものはありません。
僅かなこの2例だけが例外的なのかというとそうではなく、イエスに拒絶されて神の国に入れなかった人々の結末はむしろ終始一貫「締め出しをくらう」ことになっています。
「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは(生来のユダヤ人)、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」マタイ8:11,12
「毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。
彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」マタイ13:40-42
「世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」マタイ13:49,50
「王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。』マタイ22:13,14
「その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」マタイ24:50,51
「持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」マタイ25:29,30
特に「燃え盛る炉の中に投げ込む」のが文字通りだとしたら、「泣きわめいたり、歯ぎしりしているゆとりはないでしょう。
いずれにしても、締め出されるだけで、消滅するわけでも、滅亡するわけでもないことを様々な箇所で明らかにしています。
では、「アポレイア」が必ずしも「消滅を」意味しているわけではない用例に注目して見ましょう。
「ペテロは彼(シモン)に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びる [apōleia] がよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あ なたの心が神の前に正しくないからです。
だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦される かもしれません。」ー使徒 8:20-22
ここで、お金とシモンが消滅したわけではありません。むしろ、「滅びる」と宣言した後、許される可能性を示しています。
金とシモンの考えが「適切ではない」という意味でしょう。
ここでの「アポレイア」の意味は「無効」です。
では次に、実際に「アポレイア」が「滅びる」とは訳されていない用例も見てみましょう。
「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだ [apōleia] なことを するのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
ーマタイ 26:8,9 マルコ14:4も同様
どうしても「滅び」と訳したいのなら「どうして高価な香油を滅ぼしたのか」となるのでしょう。
ここでの「アポレイア」の意味は「無駄」です。
「アポレイア」の前置詞「アポ」の基本的な概念は「分離、遊離、 停止、脱離」という意味です。
[apōleia]( アポレイア)は、聖書中に18回見出されますが、 その語根としての「アポリーミ」から派生した語ですが、その字義的な意味は"cut off"で、「何らかの、ありえたはずのもの、あるべきものから(完全に)切り離す。」ということを意味しますが、しかし、W・E・ヴァイン著「新約聖書用語注釈辞典 165p」には、「消滅」を意味するのではない。「存在そのもの」ではなく、「幸福の喪失」を意味する。と記されています。
つまりアポレイアは『 滅び、絶滅(消滅)を意味するものではなく 。 むしろ、完全な「取り消し」に伴う結果的な損失を強調する。』と説明されています。
これを「滅び」と訳しているのは、「アポリーミ」と混同しているためと考えられます。
つまり、広い門を通った人々は必ずしも「滅ぼされる(命を絶たれる)」わけではなく、 天の王国に入ることから退けられるということです。
言い換えば、クリスチャンとしての自認は「無効」であり、払ってきた努力は「無駄」に終わる。という意味です。
さて、では門前払いされた人々は、泣きわめいて歯ぎしりした後、どうなるのでしょうか。
明確には記されていないので、断定的には言えませんが、再臨時には同時進行として、クリスチャン(候補を含む)以外のすべての人々は「羊と山羊」に分別されることも生じています。
なので天国(神の王国)に入りそびれた人々は、恐らく「羊と山羊」と同じ扱いとなるに違いありません。
よほどの反抗的態度でない限り「ヤギ」ではなく「羊」として、右に集められ、千年王国の地上での生活に誘われることでしょう。
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