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「万人救済」に関する聖書的根拠について

「万人救済? 何をおめでたいことを言ってるんだ! 気は確かか!」

あなたはこんな事を言われたことがありますか?
世の中にはすごい暴言を吐く人がいるものです。しかしそれにもめげず、今回はこれをテーマにしてみようと思います。

「万人救済主義」という言葉があるようですが、ご存知ですか。例えばこんな風に解説されています。

万人救済主義(ばんにんきゅうさいしゅぎ、ユニバーサリズム、: Universal Reconciliation、Christian Universalism)はキリスト教の非主流派思想のひとつ。これは、すべてが神のあわれみによって救済を受けるという教理、信仰である。
万人救済の教理、信仰についての論争は歴史的に活発に行われてきた。初期において万人救済主義の教理はさかんであった。しかし、キリスト教の成長にともない、それは廃れていった。今日の多くのキリスト教教派は万人救済主義に否定的な立場を取っている。》 Wikipedia

一口に「万人救済」と言っても様々な見解があるようですが、共通しているのは「すべての人間はすでに救われている」ということになっているようです。

まあそういうことだとすると、非聖書的なのは明らかで、一体どこからそんな見解が生まれてくるのか気がしれません。聖書には「救い」に関するタイミングについて明確に記されています。

《私は大きな声が天上でこう高らかに語るのを聞いた。「今 や、われらの神の救いと力と〔王たる〕支配と、彼 のキリストの権威〔による統治〕が【始まった】(ギ語:ギノマイ)。なぜなら、われらの兄弟たちの告発者、昼 も夜も、彼らをわれらの神の前で告発する者が、〔地 上に〕投げ落とされたからである》。黙示12:10 岩波翻訳委員会訳

多くの日本語訳で「現れた」と訳されている「ギ語:ギノマイ」ですが、この語は、成立、誕生する、生じる、起きるというような意味を持ち、字義的には「ある点からの移行」というニュアンスで、状況・状態・場所の変化を意味すると解説されています。

ですから、「今や・・」と宣言されているように、キリストの統治権(実力行使)、と「救い」が実現するタイミングは、再臨前の、サタンと悪霊たちを天から放逐する時点だということが解ります。

それまでは、誰も「救われた」と過去形で宣言できる者は一人もおりません。

さて「万人救済」という語に纏わりつく不可解な神学上のイメージは取っ払って、単に「すべての人間が救われる」という平たい意味で、この語を捉えることにしたいと思います。

《神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。》(テモテ第一 2:4)

《主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるので あって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。》(ペテロ第二 3:9)

神ご自身が「ひとりでも滅びることを望まないと言われていることをあざ笑うかのようなキリスト教会の「万民救済 否定」をあなたはどう思われますか。
少なくともこれらの聖句に見る限り、神の願いは「万人救済」であることはまごう方ない事実です。(ごく例外的な人を除いて)
「紛う方ない」とは「明白であり間違えようがないという意味」です。

繰り返しますが、「神は、すべての人が救われるのを望んで」おられる。
ひとりでも滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んで」おられるのです。

言い換えれば、「万人救済」は神ご自身にとって、言わば悲願であると聖書を通して断言しておられるということでしょう。違いますか?
絶対にそんなことはないとあなた個人として思っておられますか。
聖書中のどこをどう読んでも、神のこの願いは鳴り響いています。

したがって「万人救済主義に否定的な立場を取っている。今日の多くのキリスト教教派」は神には自分の願いを叶える能力も、その意思を貫くつもりも絶対にない」と断言しているということになるのではないでしょうか。

つまり、敢えて表現してみると、このように言っているということでしょう。
「人」を自分のかたちに造った神の悲願というか、切なる願いを「そんなの、単なる神の願望に過ぎない。現実はそんなに甘くない!」

これが「キリスト教」として知られている宗教です。

いずれ世界の殆どの人間は「地獄での永遠の火に苦しめられる」ことになるとはばかることなく平然と言ってのける「キリスト教」を神はどうご覧になっておられるのでしょうか。

もしこれが神にバレてしまったら、「馬鹿なことを言ってるんじゃない!」と神に叱られてしまうんじゃないかと心配でたまりません。

「万人救済」を完全否定する「多くのキリスト教教派」が公式にそうした見解を表明しているということは、これだけをとっても、改めてキリストの次の言葉の真実性が浮き彫りにされているのだなあと、つくづく思います。

《滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。》マタイ7:13

ところで、ペテロ第二 3:9にある、すべての人が「悔い改め」に至ることを望む、と言われる「悔い改め」と訳される語についても、ついでにここで明らかにしておこうかと思います。

「悔い改め」 (ギ語:メタノイア 名詞)この語は「メタノエオー」 という動詞から派生したものですが、その語の成り立ちは「ノエオー」という動詞に「メタ」という前置詞がついた複合語です。

「メタ」は、後に、後からという意味であり、「ノエオー」は考え、理解という意味の語です。
字義的には 「後で考える、後に理解する」

つまり「考えを改める」ということです。言葉の本来の意味から厳密に言うと 心の問題ではなく、思考の問題であり、少なくともこの語自体には「悔いる」というような心の作用は何ら含まれていません。

間違い、勘違いを取り除いた、正確な知識にもとづいて、理性と識別力を働かせて、それまでの自分の「考え」を変更することを神は願っておられるということです。

ところで、大勢存在する、すべての「広い門」を通った人は、その前後に必ず「悔い改めて(メタノイア)」いるはずです。

すでに「改めた」改め終わっているのだから、そのまま、何も考えず、考えを変えることもなく、そのまま突き進むべきなのでしょうか。

いいえ、それは「滅びに至る」と明言されているのですから、やはり、意固地にならず、これ以外は異端に決まっているというような、それまでの自分の考え、信仰、確信に固執ぜず、見直す必要はあるのではないでしょうか。

クリスチャンを自認するすべての方へのご提案です。

「メタノイア」(後で考えを改める)ことは、あたかも儀式のように、一度済ませば良いというものではなく、救いを確立するまで、常に必要なことではないでしょうか。

「万人救済(すべての人間が救われる)」は単なる人間の考えではなく、他ならぬ神ご自身の願いであることを確認しました。全知全能の神は、単に願うだけに留まらず、ご自分の願いを必ず成し遂げられるに違いありません。

それとも、誰かが吐いたように、「万人救済? 何をおめでたいことを言ってるんですか!」というこの一言をあなたも神に向かってつぶやいてみたいと思われますか。

追記:

この記事を[facebook]にシェアした際、次のようなコメントを頂きました。

『神様の想いを理解出来る人間は居ないと思っています。
聖書の記述にあるのですから「滅びに至る人々」の存在は否定できないと、考えています。
その状況のなかで、神様の想いをどう理解するかが、問われています。
解らないこと、理解できないことは、素直に認めて、今に生きることが大切なのでしょう。
今は、「滅んで欲しくない」との神様の思いに寄り添い、主の愛の伝達に励むべきと、理解しています。』

まあ、「万民救済」をやんわりと否定したいのだと思われますが、この方も「人間」でしょうから、「神様の想いを理解出来る人間は居ない」うちの一人でしょう。

神の想いを理解できないのに、どうして『神様の想いをどう理解するかが、問われて」いるなどと考えるのでしょうか。

神の想いを理解できないのに、どうして『「滅んで欲しくない」という神様の思いに寄り添う』ことができるのか、それこそ私には理解できません。

神の想いを理解できない人間が、どうして『主の愛の伝達に励むべきと理解している』と言えるのでしょうか。

詰まるところ、最初の1行目以降は、一般的なクリスチャンにとって普通に感じる至極まっとうなご意見と言って良いでしょう。
しかし、この方は言うまでもなく、ちゃんと思考を働かせ、本当は「神様の想いを理解」しているのです。

不思議なのは、これほどあからさまに矛盾した文章を公にさらしても、当人は何も矛盾しているとは考えていないようだということです。

どうしてそうしたことが生じるのでしょうか。
それは、認める訳にはいかない、都合の悪いことに関しては、必ずこの「人間には神は理解できない」という常套句から始めることに慣れきってしまっているからだろうと察します。
「万民救済」は『解らないこと、理解できないこと』と決めつけな ければならない、止むに止まれぬ深い事情があるに違いありません。

さて、ようやくここからが「追記」の本題です。

《神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。》(テモテ第一 2:4)

この聖句の「神は望んでおられる」を先のコメントの方は『「滅んで欲しくない」との神様の思い』と表現し直しています。

しかし「できることなら、滅んで欲しくない」などという消極的なつぶやきではなく、明確にすべての人が救われることを「望んでいる」という神の宣言です。

ここに引用したテモテ第一 2:4やペテロ第二 3:9で用いられている「望む」と訳されている原語は「セロ」という語ですが、ギリシャ語には、「望む、願う」という意味の語は幾つかありますが、この「セロ」には、その用いられ方に一つの特徴があります。

それを述べる前に、まず、この語が使われている他の聖句と、その対訳語を見てみることにしましょう。

以下に「新共同訳」「King James Bible」から【セロ】の使用例のいくつかの挙げてみましょう。

《神の【御心】ならば、また戻って来ます》使徒18:21
 «Then they willingly received him»

《彼らは証言【しようと思え】ば、証言できるのです。》使徒26:5
 «you, if God will. And he sailed»

《善をなそうという【意志】はありますが・・》ローマ7:18
 «if they are willing to testify,»

《これは、人の【意志】や努力ではなく、神の憐れみによるものです。》ローマ9:16
 «So then it is not of him that willeth,»

《主の【御心】であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。》
1コリント4:19
 «if the Lord will, and will know,»

《「主よ。【お心】一つで、私をきよくしていただけます。》
《イエス・・「わたしの【心】だ。きよくなれ。」と言われた。》
マタイ8:2,3新改訳
 « Lord, if thou wilt, thou canst make me clean.»
 «saying, I will; be thou clean.»

これらの用例から分かるように、ギリシャ語「セロ」は単なる願望ではなく 明確な意思表示であり、行動を伴っていることがわかります。
KJVは一貫してこの語を「Will」と訳しています。

すべての人が滅ぼされず救われるのは、神のご意思だということです。
そして「意思」であるということは、つまり「万民救済」は神のご計画に含まれているということです。 

テモテ第一 2:4やペテロ第二 3:9で用いられている「望む」というのは、単に望ましいことのように感じるというような感想を述べておられるわけでも、「できることなら、滅んで欲しくない」などという消極的なつぶやきなどでは決してないのです。

最後に:
冒頭のコメントに『聖書の記述にあるのですから「滅びに至る人々」の存在は否定できないと、考えています。』

その通りです。問題は「滅びに至る」とは実際にはどういう意味かということです。
下記記事でそれをお確かめください。

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