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永遠の命を得ることはクリスチャンになることに依存しないー律法の成就からの観点

 この記事は前回の「不正の富」の例えの次の部分に関するものです。
そしてその後に続く「金持ちとラザロ」の例えの間に挟まれた僅か3節だけの短い部分ですが、ここもまた、今一つ、分かるようでよく分からないと言う声をよく聞きます。
しかし、この点が明確になると、「誰が永遠の命を享受するのか」というテーマにもう一つ別の側面からの光が差してくると言えます。
では、まず、その部分を引用しましょう。

《律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。【しかし】律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。
だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。》
ルカ 16:16-18 

似通った聖句を2箇所取り上げて比較してみましょう。

《わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせないかぎり、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。》マタイ 5:17,18

《…では,わたしたちは自分の信仰によって律法を廃棄するのですか。断じてそのようなことはないように!それどころか,わたしたちは律法を確立するのです。》ローマ 3:31

「確立」と訳されている原語は「ヒステイミー」といって基本的な意味は「立つ stand」という意味です。
平たく訳せば「律法を立たせる」ということです。他には「成り立つ」などとも訳されています。
変な説明ですが、「今後立たせる」ということは律法は今のところまだ座っている。と言うイメージと成るでしょう。

上記に挙げた聖句で共通しているのは「律法の一画が落ちる」「律法や預言者を廃棄」「律法を廃棄」  「成就するため」「律法を確立する」

要約しますと、「律法と預言者」の時代は終わり、すでに「神の国」の時代に入っている。
しかし、天地が消え去ったとしても、「律法」の一つさえ、捨てられることはないということです。 さて、注目したいのは、なぜ、ここの接続詞が「しかし」なのか。ということです。
「律法と預言者はヨハネまでです」と聞けば、律法は今や終了した。捨て去られたのだと言っている、と大抵の人はそのように受け止めるでしょう。
しかし」そうではなく、むしろその反対でさえあると言う風に、ここでは注意を促しているのです。

では、「律法」がヨハネまでで、それ以降「神の国」に皆が殺到しているというこの事実によって、「律法」が成就しているということであれば、(既存のキリスト教神学はほとんど、そうした解釈になっているようです)これもまた、「しかし」という語で、前節を否定して、その後で「律法は決して捨てられない」と述べるのも矛盾していると言えます。
もしそうであるなら、(今や、律法は捨てられたので、全ての人は「神の国に入る」ために邁進することに転向すべきということなら)その後は「しかし」ではなく「ゆえに」「そのようにして律法の一画さえ消え去らないようにされたのです」と言うような論議の流れになるはずです。

ですから、ここで「しかし」と前の部分を否定しているのは、「律法はヨハネまで」という言葉は「律法は捨て去れた」という意味ではなく、そしてまた「律法」は「神の国に入る」と言うことで完全に置き換えられたことによって成就した」という意味でもない。ということになります。
「神の国に入る」という、新たに導入された救いのための取り決めと「律法が成就する」というのが、イコールだと考えている故に、この聖句はよく分からない、意味不明な聖句となってしまうのです。そうではなく、「神の国に入るということ」は「律法が成就する」ということに包含される、という事だと気付けば、全体は良く意味の通る、論理にかなっていることが分かります。

より分かりやすく、というか私なりの理解として記述しますと、おおよそこういう趣旨の流れだと思われます。

《律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、誰も彼も無理にでも、これに入ろうとしています。 それは現にあなた方が見ている通りです。 「しかし」 100%「神の国に入るということ」だけが、「律法の成就」であり、全てであると見なしているとすればそれは違います。そうだとすれば、それでは、「律法の一画」が落ちてしまうということになり、それは、あり得ないことです。》 と、言われていると捉えることができます。

「律法は破棄されたではなく、成就される」とはどういう意味でしょうか
絞って「律法の成就」とは何かを考えて見ることにしましょう。

「律法」の目的は、例えば「罪を明らかにするなど、幾つかの要素がありますが、言わばそれらは付随的な要素であり、そもそも、「イスラエル」を選民としたゆえのものであり、すなわちそれはアブラハムに対する約束の実現であり、その意図は「全人類が神からの祝福を受ける」ためであり、アブラハム-イサク-ヤコブ-イスラエル人はそのための経路となるというご計画です。

《あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。》創世記17:19
《あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。》創世記22:18

《もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。・・あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。》出エジプト19:5,6

端的に言ってそれは、アダムの創造以来の当初のあるべき姿に戻すことです。人間は禁断の実を食べない限り死なないものとして造られました。すなわち全人類は永遠に生きることが創造者の目的でした。
まさにアブラハムとの約束は「地のすべての国々」つまり全人類に得させる「祝福」である、「罪が贖われて永遠の命を得させる」ということに他ならないでしょう。

繰り返しますが、「律法の成就」とはイスラエルを選んだ目的の達成です。

《律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係【ギ語:パイーダゴーゴス】となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。》ガラテア3:24,25
(パイーダゴーゴス:家族のこどもたちの生活や教育、道徳などを担当した奴隷)

「律法と預言者」とは、基本的に人々をメシアに注目させ、キリストに導くために与えられたもので、そのイエス・キリストこそ「アブラハムの胤」の主要な方です。
ですから、この「律法と預言者」の目指す所には、やはり 2つの要素(あるいは2つのグループ)存在します。
一つは「永遠の命を得させる役割を果たす」人々と「永遠の命を得る」人々です。

キリストは、自ら贖いを成し遂げ、キリストを認める人々に「永遠の命」の見込みを与え、そしてご自分の追随者になるよう励まし、バプテスマを受けたクリスチャンを神の国に招待することにより、「律法を成就された」ということが分かります。
そしてここで「しかし」という接続詞が入ります。

「神の国に入る」人々は、先ず、彼ら自身に「永遠の命」が与えられ、そしてその後、「王また祭司」として働く事により、神の国の国民となる人々に「永遠の命」を得させる事になっています。
天国に召されるのは、余生をのんびり過ごしてもらうためではなく、千年間働いてもらうためです。
つまり律法を成就するとは、この2つの要素が完成して始めてそのように言えると言うことです。

「神の国に入る」ということは、実際は、そのように神からの「召し」があると言うことです。
それはつまり「天への、神の国」への神からのご招待ということですから、単に勝手に自分の意志で「入ろう」として殺到するようなものではありません。
彼らは天の王国の王として整えられ、地上の不完全な(アダム所以の原罪のある状態)人々を完全の域にまで引き上げるという特別な目的のためのプロジェクトチームです。

律法の究極の目的は、千年後、神の国の支配の元で全人類が祝福を受け、最終的に永遠の命を受ける時に成就します。つまりようやくその時「確立」されることになります。
つまり千年王国の最後まで、それは有効です。その究極の目的が達成されずに終わるより「天地の滅びるほうがやさしいのです」

従って、クリスチャンが「神の国に入る」ことだけでは、律法の目的の半分しか成就しないことになります。
さて、このテーマの聖句を考慮すると、もう一つ別の点も見えてきます。

「律法」が破棄されるのではなく、「成就」するということは、生来のイスラエル(人)も捨てられるのではなく、「成就」することになっていると考えるべきだということが分かってきます。 イスラエルを永遠に捨て去っては、「律法」は成就し得ないからです。

いわゆる「置換神学」の間違いについては次の記事をご覧ください

今考慮しているルカ16:17の難解さを深めているのは、この話しの後、突然に、何の脈絡もないと思える次の言葉が続くためでしょう。

《妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。》(16:18 )

恐らく、これは、「律法は決して破棄されない」ということは「イスラエル人」も決して完全に捨てられた存在ではなく、律法を通してイスラエルとの契約を結ばれた神は、その関係を結婚関係になぞらえ、自らを、「あなた方の夫」と表現している事と、関係しているのだろうと思われます。
つまり、イスラエルは完全に捨てられた「妻」ではない故に、多大の哀れみをもって、その祝福された関係に再び戻るという約束の確実性を、ほのめかしていると考えられます。
つまりこの比喩で表すと、神とイスラエルは、完全に離婚したのではなく、現在別居中という感じかも知れません。

生来のイスラエル人が、このまま永遠に忘れ去られ、神との関係から切り立たれたまま終わるよりは、天地が消え去る方が先。つまりそれはあり得ないという保証の言葉と受け取って良いと思 います。
それを裏付ける幾つかの聖書的根拠を挙げておきましょう。

《ダリヨスの第二年の第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。主はあなたがたの先祖たちを激しく怒られた。 あなたは、彼らに言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。あなたがたの先祖たちのようであってはならない。先の預言者たちが彼らに叫んで、「万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの悪の道から立ち返り、あなたがたの悪いわざを悔い改めよ」と言ったのに、彼らはわたしに聞き従わず、わたしに耳を傾けもしなかった。》- ゼカリヤ1:1-4

祖父 : イド [Iddo 意味:timely タイムリー(時を得た、折よい、ちょうど間に合った)]
父 : ベレクヤ [Berekyah ベレク ヤー (字義訳:ヤハの膝( ヒザ) ヤハウェは祝福する)]
ゼカリヤ [Zkaryah ザカール ヤー(ヤハは覚えている、思い出す)]

この預言者の3代の名を連ねた意味は「時を得た時、ヤハは祝福を、思い出される」ということになります。
神はご自分の民、イスラエルに対する約束された祝福をもたらすことが到来する時の出来事を、ゼカリヤに幻によってお与えになります。
その期が熟した時に神は、その先祖たちの故に長年嘆かわしい状態にあったイスラエルに悔い改めを訴えられ、回復の道を整えられるということです。

このことはローマ11章全体でも詳しく描かれています。
《彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。》ローマ11:23

さらには、ホセア書にも随時示されている点ですので、ホセア書全体を、読んで見るとよく分かります。

これを理解できないゆえに、律法は葬られた、いや粛々と生き続けている。一体どっちなんだという論争じみたやり取りが延々と続いていますが、律法を一義的に捉えてしまっている故に迷路に入り込んでいるのです。
何と2000年も前に明確に決着がついたこの問題を今だに蒸し返している人がいるのは実に不可解なことです。
それで、最後にこのことに触れておきましょう。

ここで今一度先に引用したガラテア書を再度、引用します。
《しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。》ガラテア3:25

つまり、律法を守る必要はなくなったというのは明らかです。
ここで忘れてならないのは律法は「養育係となった」と表現されていますが、それだけが、律法の存在意義の全てではないということです。

律法はユダヤの現実の法律として施行されましたが、それはあくまでユダヤ人、つまりイサクの直接の子孫のために、与えられたものです。それは彼らを異邦諸国民から、取り分け、「聖なる国民」として維持するためです。
では、それ以外の外国人はどうだったのでしょうか。

《もし、あなたのところに異国人が在留していて、主に過越のいけにえをささげようとするなら、彼の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうしてから、その者は、近づいてささげることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたがの中にいる在留異国人にも同じである。》出エジプト12:48,49

《割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行う義務があります。》ガラテア5:3

いわゆるユダヤ教への改宗者は律法を守る必要がありました。では、クリスチャンも律法を守る義務があるでしょうか。
実にこれは、1世紀当時、大論争の種になったもので、ある人々は《異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである》(使徒15:5)と主張していました。

しかし、すでに決着が付いています。
《聖霊と私たち(使徒たちと長老たち)は、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことに決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。》使徒15:28,29

結論ですが、キリストによって「モーセの律法は誰も守る必要はなくなった」ということと、「しかし」廃棄されたのではなく「すべての人類が永遠の命を得られるまで、継続することによって「成就」するということです。

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