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神のご意思と[キリスト教]の矛盾点? ー 人は死んではいけないのか。死ななきゃいけないのか。

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「現実がどんなに辛くても、死んだ後天国に召され、神のみそばで永久に過ごすことができる。」
そんな願いを言い表すクリスチャンの方は少なくないようです。

すなわち、そのひたすらな願いが叶うためには、当然、人は死ななければなりません。
では、逆に考えてみましょう。人が死ぬのを待って、天国に招くことが、神の願い、あるいは目的なのでしょうか。
ここで、「人の願い」と「神の願い」を比較して見たいと思います。

神の、人間に対する最初の命令は「死んではいけない」でした。

「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」創世記3:3

事実、「禁断の実」を食べない限り、人は死ぬことはありませんでした。
神は人を造られるにあたって、まず最初にこの完璧な「地」を周到に準備されました。まさしく神の構想は、この「地」でとこしえに、人が増え広がり、住み続けることでした。

「天を創造された主、すなわち神であって また地をも造り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた主はこう言われる,「わたしは主である、わたしのほかに神はない」。 イザヤ45:18  

この事の意味がお分かりになりますか。
神は人を「地」以外に住まわせることなど思いもしなかった。ということです。

そうです。死んで天国に入る機会を、神自ら、閉ざされました。それが神の当初からの計画でした。

(この表現はかなり作為的です。真相については「続編」をお読み下さい)

言い換えれば、その初めからの神の目的通りに事が運び、永遠の命を与えられたら、人は永遠に天国(神の国)とは無関係だったということです。

しかし、サタンのおかげで「天に入れる」機会が開かれました。
人は「死ぬ」ことになったからです。
「救われて」天国に入ることを切望しているクリスチャンは、その原因を作ってくれたサタンにどんなに感謝してもしきれないことでしょう。

古来より「死んで花実が咲くものか」という言葉がありますが、クリスチャンにとっては、死んで初めて「花実が咲く」のです。
クリスチャンにとっては、究極的に、人は「死ななきゃ」何も始まらないのです。

何か語弊がありますか。 じゃあ、表現を替えましょう。

もし、天国に召されることを至上ののぞみとしておられる方は、アダムに感謝しなければなりません。
「よくぞ罪を犯してくれました」と、おかげで、私は死んで天国に行けるのだから。
アダムの罪のゆえに、すべての人類に罪と死が及んだことで、人々はどれほど苦しみ、悲痛な思いをしてきたことでしょう。
しかし、「キリスト教」にとっては、それ故にこそ、自分たちの願いが叶うのです。

ここまで、「何だこれ!」と思いつつ渋々この文章を読んでこられたとしたら、私にはこんな心の声が聞こえてきそうです。
「いい加減にしなさい。一体何が言いたいんですか!」

私の言っていることは、論理として間違っていますか?
もしそうなら、どこがおかしいのでしょうか。

思うに、「死、救い、神の国」などに関する聖書的概念の捉え方に、ひどく歪みがあることは確かでしょう。
主イエスが語られた、「死からの解放」ということを真に理解せず、ただ、自分の救い、安住、そして天国を、延いては「神」そのものを、自分のものにしたい(所有するかのような)というような信仰の営みは、結局のところ「死」に支配されているのです。

若い人は知らないかもしれませんが、昔流行った、ペギー葉山さんという歌手の歌に「学生時代」というのがあるんですが、その歌詞を一部紹介したいと思います。

「ツタのからまるチャペルで、祈りをささげた日・・・賛美歌を歌いながら清い死を夢見た・・・ローソクの火に輝く十字架を見つめて・・・」

これらの歌詞から、調べてみたら、モデルになっているのは青山学院で、宗派は「メソジスト」だそうです。

私は初めて聞いた時、幼心にも「死を夢見る」とはどういう神経なのだろうと思いました。
無論「死」に対する考え、向き合い方は、人それぞれでしょうが、「天国に召される、神にまみえる」という発想がなければ「死を夢見る」という感覚は生じないでしょう。

最初の人間アダムとエバは別として、どうあっても、どんなに長生きでも、結局はすべての人は死ぬのに、ともかく「死んではいけない」というのが(変な表現ですが)神の口癖です。
どこまでいっても「死」は神にとって「やむを得ない必然」であって、決して「必要不可欠」ではありません。
「夢見る」ことなど、絶対にあってはならんのです。
「死」は、「望む」という観点から言えば、完全に神の感性に逆行するものであり、サタンの究極の目的に他なりません。

この神の、「死」や「命」に関する感覚が明白に理解できてこそ、独り子の「死」による贖いによって人類を救うという神のご計画が、どれほど壮絶なものなのか、アブラハムにイサクを捧げよと命じられ、それを聖書に残された、神の御心を、どれほどの人が、その心情を察するのでしょうか。

「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。」エゼキエル 18:31‐32

誰も、たとえ「罪人」であってさえ、その「死を喜ばない」神が、こともあろうに我が子、独り子が、死んでいい、わけがない。

「ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」ルカ22:41:43

「そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」マタイ26:37-39

三度も、同じ祈りをされたこの時、神は号泣されたに違いないと私は思う。

それでも、キリストの飲むべき盃は戻されることはなかったのです。
それゆえにこそ、我々は「救い」を得ることが可能となったのです。
それはつまり、決して死ぬことはなく、生き続けるという神の願いが実現されるということです。

「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」黙示24:3

「死を夢見る」ような人は「悲しみや嘆きや労苦」に対しても憧れの気持ちで感慨に浸るのでしょう。
何というサタン的なことか!

キリストの贖いにより、人間のありとあらゆる問題、不幸、忌避すべきことが、終わりを迎えることになりますが、最終目標は何でしょうか。

「最後の敵として、死が滅ぼされます。」1コリント15:26

神にとって、人間の「死」は、いつか滅ぼさねばならぬ「敵」であり、全歴史上、常に「敵」であったということです。
この「死」はサタンと同時に滅ぼされることになります。同類だからです。

神と同じ感性で受け止める限り、「死」はやむを得ない厳然たる事実ですが、終始一貫「憎むべき敵」であることに変わりはありません。

下の記事は続編です。


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