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短編小説 シシラソ

「どこかに行こうか」

その言葉がはじまりだったと記憶している。

駅前の商店街にある、こぢんまりした居酒屋だった。まだ七時にもなっていないのに、いくつかあるテーブル席は、すでに地元のなじみ客や仕事帰りのサラリーマン、大学教授とその教え子らしき人びとで埋まっていた。壁には、仕入れ先なのか、鶯色に白抜きで名前の入った豆腐店ののぼりが飾られている。メニューには季節の魚や野菜、日本各地の酒の名が並んでいる。わたしは入口に一番近い、カウンター席のはじにひとり腰かけていた。

ふだん、ひとりでこのような店に飲みにくることはない。この日は、少し違うことをしてみたかった。自分自身に対する慰労会の意味もあった。

今日で仕事が終わった。もともと期限つきだった。育児休業中の大学事務職員のかわりで、そこには三年ほどいた。次の仕事はまだ決まっていない。勤務先の人たちは「ずっとがんばってくれて……。どこか紹介してあげたいんだけど」と申し訳なさそうにしていた。送別会を辞退すると、最後の終礼で花束と商品券をくれた。

大学卒業後に就職した製紙会社が二年で倒産した。それから、電気メーカーや百貨店など、ハローワークを頼りながら事務職のアルバイトばかり転々としている。

違うようにできたのかもしれない。だけど自分がどこかで華々しく活躍している姿も想像できなかった。炒った銀杏をつまみ翡翠色の実をかみしめると、口のなかいっぱいに独特の香気がひろがった。

「うまそうだね」

声がして、顔を向けると、ひとつ空いた隣に男が座っていた。歳はわたしよりも少し上、三十代半ばから四十代手前だろう。濃紺のスーツを着て、長い首にネクタイをきっちり締めている。顔立ちは端正だが、無造作にゆれる前髪のせいか、目元にあどけなさを感じた。

「食べますか」

すすめると、男は「いい?」と何気なく席をつめてきた。

食べものの話から産地の話、あたりさわりのない世間話をするうちに、傍らの花束についてたずねられ、わたしは自分の話をするようになった。男は、どこか遠くに視線を固定しながら、うなずくともなく聞いていた。男のネクタイはいつの間にかゆるみ、カッターシャツの第一ボタンも開けられていた。

「ぼくだって、似たようなもんだ」

男はしばらく黙って酒を飲み、空になった杯の底を見つめていた。そして、言ったのだ。「どこかに行こうか」と。

「仕事は」そうたずねた気がする。男は「いいんだ」と言い、ふたりぶんの支払いを済ませると外に出た。「わたしの分を」と財布を開いたが、男は受けとろうとしなかった。わたしは「ごちそうさまです」と頭を下げ、男と並んで歩きはじめた。木枯らしがほてった頬に吹きつけていた。

目を覚ましたのは、薄暗い部屋の中だった。大きなベッドのはじにひとり身を寄せていた。ラブホテルだ。わたしはホテルのパジャマを身に着けている。昨日のブラウスやスカートはきちんと折りたたんだ状態で、近くのソファに重なっていた。

光が差し込んでいる。その方向を見ると、開けた窓のそばに男が椅子を置いて腰かけ、ぼうっと通りを眺めているのだった。前の晩の記憶をたどった。

歩いて、歩いて、歩いた。

「どこに、行くの?」

「行けるところまで」

目的地はなく、歩くのが目的のようなものだった。居酒屋にいたときのような話らしい話もせず、ふたり並んで歩いた。知らない者どうしが歩調をそろえて、ひたすら道をともにしていた。酔いはさめていた。手袋ごしに寒さが手をつかんだ。指先がかじかみ、歯ががちがち鳴った。

大きなくしゃみをすると、男がこちらを見た。男の鼻先からも、水がのぞいていた。

男はうなずき、視線をめぐらせた。それがとまった先は、国道沿いのけばけばしい電飾だった。

「ねえ、あれって」

「何もしない」

ほんとうに男は何もしなかった。交代で風呂をつかったあと、ソファで横になったのだ。

わたしは電気ポットでお湯を沸かすと、コーヒーを淹れた。その間も、男はずっと窓の外に目をやったままだった。カップを手渡してはじめて、こちらを見た。

「ああ」

ありがとう。男はふうっと息を吹きかけてコーヒーをすする。おかしな感じだった。全然知らないのに親しい間柄のような行動をあたりまえにしているなんて。

「これからどうする?」

男の問いかけは漠然として、答えようのないものだった。

「じゃあ、とりあえず」

とりあえず。そう言えば、当面のことに集中することができる。今この瞬間というものを連ねていけば、もっと大きなことを考えなくてすむような気がした。

わたしたちは服を着替えて外に出た。厚い雲のすきまから、冬の太陽がのぞく。

国道沿いをさらに歩くと、ショッピングセンターに行きあたった。週末だけあって、家族連れでいっぱいだった。皺の入ったスーツを着てしおれかけの花束を抱えたわたしたちは、場違いに思えた。

「着替え、買おうか」

「うん」

そう答えて、まだまだ自分が「旅」を続けるつもりでいることにはっとした。

四角い紅白のロゴが目を引く、ファストファッションの店に入った。間に合わせなんて、どんな服でもよかった。

店内で恋人のように服を選びあった。

「これどうかな」

「うん、いいと思う」

どことなく高揚した気分だった。それが新しい服によってもたらされたものか、目の前にいる男によってなのか、それもふくめた思いがけない状況によってなのか、よくわからなかった。

最終的に買ったのは、裏がくまのぬいぐるみのようにボア地になった上着、ジーンズ、セーター、下着二組。それからかかとがぺたんこのゴム底靴だった。支払には、餞別でもらった商品券を使った。

裁縫道具の小さなはさみでタグを切り、トイレで着替えた。化粧なんてしてもしなくても同じような顔だが、口紅だけひいた。鏡の中の、いやに唇だけくっきりしたわたしが「どこに行くの」とたずねた気がした。

男も着替えて現れた。黒いダウンジャケットにジーンズという服装だと、男は二十代でも通用するように見えた。

「もう、これは置いていこう」

通路にあるごみ箱の横に、さきほど買い物をした店の袋を置いた。中身は、さっきまで着ていたスーツだった。わたしも並べて自分のものを置き、花束を乗せた。

「何か食べようか」とフードコートに向かっている途中、男が足を止めた。楽器店の前だった。

「ちょっと、のぞいてもいい?」

楽譜をぱらぱらとめくり、電子ピアノの鍵盤をたたく。それから男は、ある棚の前にしゃがみこんだ。棚の中ほどにソプラノリコーダーが数本積まれていた。小学校の授業で使っていたのと同じものだ。黒い筒に、吹口の白がアクセントを添えている。男は一本手に取ると、ふるい友だちにでも会ったような笑顔を浮かべた。

「これ、買おうかな」

いる? と聞かれたので、うなずいた。慌てて「自分で買う」と言ったが、男はまとめてレジに持っていってしまった。

フードコートでハンバーガーセットを食べながら、男はリコーダーの包みを触った。

「油がつくよ」

「うん、なんだか懐かしくて」

小学生の頃は、と言いかけて、男は唐突に「そうだ、遠足に行こうか」と口にした。

「遠足? 寒いよ」

笑って返しながら、その言葉がもつ響きにどこか心が浮き立つのを覚えた。

「寒いから、いいんだ」

あそこはどうかな。男はある自然公園の名を挙げた。初めて聞く場所だった。

「それって遠いの?」

「いや、そうでもない」

そうと決まったら、買い出しするか。男は伸びをした。

電車とバスを乗り継いでそこに到着したのは、もうすぐ三時になろうかという頃だった。山の木々は葉を落としている。川の水は冷たく澄み、静かに流れていく。空が高い。

何組かの行楽客の姿があった。四季それぞれの楽しみかたがあるのだろう。禁漁のはずなのに、なぜか釣り竿をもっている人もいた。少し離れた河原では、子ども連れが大きな四駆をとめて、にぎやかに走りまわっている。

男とわたしも川べりに腰をおろし、手さげからコーヒーを取り出した。ふもとの駅の自動販売機で、バスに乗る前に買ったものだ。両手でつつみこみ、ほのかに残るぬくもりを楽しんだ。

じっとしていると、大気から穏やかな光がしみてくる。地の冷たさが、尻や足から入りこんでくる。自然と一体化していく感覚が心地よかった。

「はい」

男の声にはっとすると、リコーダーが差し出されていた。

「吹こうよ」

茶色い合皮の袋を受け取り、口のスナップをはずした。中袋の透明ビニールを押し下げると、つるりとしたリコーダーが現れた。手に取ると、記憶よりも小さくて軽かった。

「穴の間隔って、こんなに狭かったっけ?」

「きみが大きくなったんだ」

わたしはリコーダーを両手で支え、吹口を唇にふくんだ。左手ですべての穴をふさぎ、息を吹きこむ。はじめは割れて定まらなかったが、すぐにソの音になった。おもちゃみたいな笛なのに音は力強く、風にのって空の向こうまで伸びていくように思えた。

「音、出た」

つい笑顔になり、男を見た。男も笑っていた。

「じゃあ、ぼくも」

男は左手の親指と人差し指で輪をつくるように構えると、シの音を長く響かせた。そして一呼吸おくと、メロディーを奏ではじめた。

シシラソ シシラソ シドレレドシド……

「あっ、それって」

小学校の低学年だったころ、音楽の時間に習った曲だった。下校前に「終わりの会」で毎日繰り返し吹いたものだ。ゆったりとした四分の三拍子で、左手の指を運ぶだけの単純なト長調のメロディーだった。先生の話ではドイツ民謡とのことだったが、みんなはそれを『シシラソ』と呼んでいた。まだ明るい教室、黒板、机、ランドセル、先生や友だちの顔。そんな風景がぱあっと目の前に広がった。

「『さよなら』の歌じゃない」

この曲には、たしか二通りの歌詞があると聞いた。もともと愛する人との別れを惜しむものがあって、のちに、寒い冬との別れを喜ぶものができたのだと。

男は吹きながらうなずいていた。

「わたしも吹こうっと」

男の演奏に自分の演奏を重ねた。そのうち男が一小節ずらし、追いかけるように吹いた。それぞれの音がからみあい、不協和音をふくんだ懐かしい響きを生みだした。

「この歌ってさみしくない?」

ひとしきり演奏が終わったあとに、男がぽつりと言った。

「どうして?」

「元気いっぱいの小学生が、必死に『さよなら』の練習なんて」

「それって考えすぎじゃない?」

わたしはふきだしながら、男の腕をつついた。

「そうかなあ」

男は河原のほうを向くと、ふたたび『シシラソ』を吹きはじめた。

しばらくすると、小学生くらいの子どもが駆け寄ってきた。鼻先を赤くして、息をはずませている。片手にやはりリコーダーを握りしめていた。

「ぼく、その歌しってるよ」

「聴かせてくれるの?」

子どもは照れくさそうに笑ってうなずき、リコーダーを構えた。そして、男とはりあうように音色を響かせた。タンギングは不慣れなようだったが、音に勢いがあり、とても楽しそうだった。子どもは、音楽の授業で習ったという曲を次々に披露した。男は途中で手をとめて、その演奏に聴き入っていた。わたしは河原に腰をおろしてその様子を眺めていた。

しばらくして「けんちゃーん、いくよー」という声がした。子どもの親が呼んでいるのだった。

「あっ、いかなくちゃ」

ありがとう。そう言って、子どもはリコーダーをおろすと、来たときと同じように駆けていってしまった。

「元気な子だったね」

つぶやくと、男は言った。

「うん――うちの子と同じくらいだ」

わたしは息を呑んだ。男が何を言ったのかわからなくて、もう一度、頭の中で音をひろいなおした。

そうだ、うちの子と同じくらいだ、って言ったんだ。このひとって、子どもがいるんだ。リコーダーが吹けるぐらいの。

自分でもわからない動揺を覚えた。そんなの聞いてない、とも思った。だけど、自分からたずねてもいなかった。それに、知ったからどうだというのだろう。別に、恋人でもなんでもない、知り合いとすら言えないような間柄じゃないか。

一瞬の間に、もやもやしたものが胸に充満したが、わたしが返したのは

「ふうん」

という、気の抜けたような相づちだった。

男は話題を変えた。

「冷えてきたね」

「うん」

「そろそろ、行こうか」

「うん」

わたしはリコーダーをしまうと立ち上がり、砂をはらった。手も尻も冷え切って、自分と別個のものになったみたいだった。

男は手洗いに行った。わたしは行かなかった。

男を待ちながら、なぜわたしは男を待っているのだろう、と思った。ここにいるわたしって、何? わたしというものの境界が曖昧になっていく気がして、急に不安になった。

気がつくと、足が動きだしていた。角のとれた小石、やわらかな枯草。そういったものを一歩ずつ足の裏で踏みしめていく。

アスファルトで舗装された道路に出ると、足が早まった。くだり坂を全速力で駆けていく。右肩にかけた荷物が重い。息があがる。

おおい。後ろのほうで男の声が聞こえる。男も駆けてくるのがわかる。追ってほしくて逃げているみたいだ、そう思いながらも走る。男は追うのをやめたのか、声は遠くなり、やがて聞こえなくなった。

ひとりになった。足をゆるめ、川の流れに沿って山際の道をゆく。静けさのなかで、一段と冷えたように感じた。

 わたしは立ちどまり、天を仰いだ。葉が落ちた木々の枝が、黒く細いレースみたいだ。その編み目模様から、くもり空のにぶい光がこぼれ落ちてくる。

くだって来た道を、引き返すことにした。

男は道の端でうずくまっていた。わたしは駆け寄った。

「どうしたの」

男は顔をあげない。

わたしは心配になり、近づいてその肩をゆさぶった。

男は、にやり、とこちらを向いた。

「小さい、芽が出てるんだ。こんなに寒いのに」

男が指すところをじっと見つめると、小石と小石の隙間から、爪楊枝の先ほどの若い緑が顔をのぞかせていた。

「もう、何なのよ」

わたしは声を荒げた。ほっとしている。怒っている。涙を流している。それがなぜなのかわからなかった。

「ごめん」

男はあわてて、わたしの肩をさすった。

わたしはどうしてここにいるのか、よくわからない。どこか遠い物語のように、いまこうしているわたしを違う目で見ているわたしがいる。この男に、恋をしはじめているのだろうか。特殊な状況に酔っているだけなのだろうか。

「だいじょうぶ」

そう答えながらも、なぜか涙があとからあとからこみあげた。

男はわたしを抱きしめた。冴えわたる空気のなかで、川のせせらぎと木々のざわめきだけが聞こえる。ふわふわとしたダウンジャケットを隔てて、男の腕の存在を感じた。わたしはそれをふりほどいた。

「だいじょうぶ、行こう」

日が落ちて道が暗くなってきた。街灯なんてほとんどないし、家もない。バスの運行は終わってしまったのだろうか。車も、河原であの男の子の家族が出発するのを見送ったきりだ。ふもとの集落まで徒歩でどれくらいかかるだろう。

「通ってきたのって、こんな道だったっけ」

「同じ道を戻っているはずだけど」

そうしてどれくらいの時間が経っただろう。ますます迷い込んでしまった気がする。山がどんどん深くなるのだ。そびえる木々がおおいかぶさってくるようだ。

もう真っ暗で何も見えない。月も出ていない。かろうじて星明りで空と木の境界がわかる程度だ。清水が流れ出ているのか、ところどころ土が濡れている。ついに足が滑り、地面に手をついてしまった。

わたしはそのまましゃがみこんだ。

「もう無理」

なんでこんなことになったのかわからない。なんであなたとこんなことをしているのかわからない。

来ることを決めたのは自分なのに、笑った時間もあったのに、すべてを棚に上げて男を責めた。抱え込んだひざに顔をうずめた。

男が隣にしゃがみこむ気配がした。男は何も言わなかった。しばらくの間、そのままでいた。ふいに男が言葉を発した。

「明かりが見える」

わたしは顔を上げ、男の指さす方へ目を凝らした。やはり暗い山の中、橙色の光がひとつ、にじむようにゆらめいていた。

「星とか……虫じゃないよね」

「違う、と思う」

わたしたちはふたたび歩きはじめた。

そこは小屋だった。全体が丸太で組まれており、急勾配の三角屋根がある。足場が高く、デッキまでは階段でつながっている。橙色の光は窓から漏れ出したものだった。小屋は樹木に囲まれており、他に人のいそうな建物は見えなかった。

誰かの別荘だろうか。それとも、宿泊施設だろうか。

男と顔を見合わせた。深呼吸して、ふたりで階段を上る。呼び鈴はない。おずおずと遠慮がちに扉を叩き、呼びかけた。しばらく耳を澄ませるが、返答はない。ふたたび扉を叩いた。さきほどよりも少し力を込め、もっと大きな声で呼びかけながら。

居留守を使われているのかもしれない。

デッキから続く縁をそっと歩いて、大きな窓の前にまわりこんだ。レースのカーテンがひかれただけの室内がよく見える。手前には木製のダイニングテーブルがある。四人用の大きさだが、上に食べものや新聞といった生活を感じさせるようなものは何も載っていない。奥に暖炉が見えるが、こちらも火は入っていないようだ。人の姿は見あたらない。入浴中なのかもしれない。あるいは近所に外出中か。近所といっても、その範囲は想像できなかったが。

受け入れてもらえても、もらえなくても、もうここしか行くところはないように思われた。

もう一度玄関にまわり、激しく扉を叩く。声を張り上げた。

ノブをまわすと、開いた。おそるおそる足を踏み入れると、杉の香りに迎えられた。

「こんばんは。どなたかいらっしゃいませんか」

歩みを進める。中は外観から想像したよりも広く、二十畳ほどあるかと思われた。洗面所とおぼしきドアがあったので、耳を当てたが物音はしなかった。壁際にはロフトに続く階段がある。静かに上がると、簡素なベッドが二台置かれていた。オリーブ色のベッドカバーはぴんと張っており、白い枕もふっくらとしている。

「出かけているのかな」

「うん」

ボーン。太くて丸みのある音が階下から響いた。男とわたしは身を固くして、その場で息をつめた。何も起こらなかった。階段を降りると、音の正体を暖炉のそばに見つけた。わたしの背丈ほどある柱時計だった。文字盤は八時を指し、振り子が重たげにゆれている。

わたしはふうっと大きな息を吐いた。

「待たせてもらおうか」と男が言った。

わたしはうなずき、テーブル横の椅子に腰をおろした。

空腹がこたえた。男とわたしは、昼の残りのパンをわけあって食べた。パンは冷たく、ぱさついていた。

何時間か経っても誰も帰ってこない。わたしたちはテーブルでほおづえをついていたが、振り子がゆれる規則的な音を聞くうち、そのまま寝入ってしまった。

ばちばちと激しい雨音で目覚めた。夜は明けたのに、誰も帰ってはこなかった。

窓をわずかに開けて外を見る。悪天候だ。灰色の空が滝になって落ちてくる。ほとんど裸になった木々の間を風がうなっていく。しずくがひっきりなしに枝をゆらす。頬が冷たい。天気が回復するまで、小屋に滞在させてもらうことにした。

家主の手がかりを探したが、表札もポストらしきものも見えなかった。写真やメモ、本などもない。パジャマやタオルは出てきたが、もしもここがホテルなら、どこかに連絡先が書かれていてもよさそうなものだった。

その日も暮れるが、誰か現れそうな気配はない。柱時計が鳴る。ふと目をやるとまた八時だ。振り子は動いているのに、針はとまったままらしかった。

自分たちの食糧が尽きてしまったので、「すみません」と断りながら冷蔵庫をのぞいた。このあたりの土地でとれたものであろう野菜や卵が、庫内にぎっしり入っている。「少しだけいただきます」とキッチンを使った。一応、ガスも通っているらしい。簡単なスープをつくり、ひさしぶりに腹から温まった。

わたしたちは侵食範囲を広げていった。

風呂を使った。緑と白の小さなタイルが市松模様にしきつめられた、清潔な浴室だった。白い浴槽は磨き上げられ、水滴ひとつついていなかった。湯をはり、四肢を伸ばすと疲れが溶け出すようだった。

ベッドも使うことにした。

「いいのかなあ」

「持ち主はこの別荘から家に帰ったんだろう」

「冷蔵庫をあんなに生鮮食品でいっぱいにして? 電気だってつけっぱなしで?」

「電気やガスが通っているなら、持ち主に使用量の通知がいくはずだ。おかしいと思ったら本人が確かめにくるよ」

だから、しばらくここに。男の声が不明瞭になっていく。ひさしぶりに横になり、気持ちよりも体がほっとしたのか、わたしはいつしか眠りに落ちていった。

こうして、何日か過ぎた。はじめこそ委縮していたが、すぐに自分たちのもののように暮らしはじめていた。雨は上がったのに、わたしたちは小屋から出ようとしなかった。

わたしたちは同じような一日を繰り返した。買い物にも行かず、散策すらせず。ずっと小屋にいたけれど、ここに戻ってくる者も、訪れる者もいなかった。

男とセックスするようになった。

しはじめると、なぜ今までしなかったのかわからないくらい、それだけに没頭した。どれだけ声をあげても、誰にも届きはしない。肌を合わせるようになると、男はやはりそう若くはないのかもしれないと感じた。筋肉や肌のゆるみ、すぐ切れぎれになる息が物語っていた。時折、哀れに感じるほどだった。

 それでも続けた。そんなに暇をもてあますぐらいなら、ここから出ればいいではないかと思いながら。だけど、何のために? ここを出て、何があるというのか。

時々、男とリコーダーを吹いた。童謡やわらべうた、昔のヒット曲など、覚えているレパートリーを頭から引っぱりだして何度も吹いた。腕前はお互いにかなり上がった。

あるとき『シシラソ』を吹き終わると、男がぽつりと言った。

「ごめんな」

「何が?」

「こんなところまで連れてきて」

「いいよ」

「似てたんだ」

「誰に?」

「小学生のころ、好きだった子に」

放課後にこっそり教室に入って、その子のリコーダーをくわえたことがある。男はそう打ち明けた。その子は、いつも考えごとをしているような瞳をしていたそうだ。

居酒屋のカウンターで、ちょうどわたしがそんな顔をしていたのだと言った。山道でわたしが離れていったとき、追ってはいけないと思ったのだとも話した。だから、戻ってきてほっとしたのだとも。

 

日々は流れた。

冷蔵庫の中身はふしぎとなくならなかった。戻ってくるであろう住人を意識して、少しずつ使っているからだと思っていた。自分でもわからないくらいの減り方でしかないのだと。

だけど、違った。食材は、使う分だけもとどおりになっているのだ。一枚ずつはいだ白菜の葉、手のひらにのせた鶏肉の重み、瓶の中の牛乳の量。冷蔵庫の中のものだけじゃない。米びつの米や、戸棚のチョコレートだって。

それに気づいたとき、わざと皿を割ってみた。何が起こるか見届けようとしたのに、ふと目を離したすきにのっぺらぼうの白い円に戻っていた。

髪も爪も、男の髭も伸びなかった。お腹が鳴ることもなかった。すべてが同じ輪のなかをぐるぐるとまわっているのに、自分の意識だけがそこから外れてしまったように思われた。

気味が悪いとかありがたいとか、どうなっているのだろうとか、そういうことはあまり考えなくなっていた。ただ、そうなんだな、と思った。ここはそういう場所なのだと。

そして柱時計が鳴る。見なくてもいつも八時だ。

わたしは食事をつくるために立ちあがる。空腹をおぼえない今となっては、食事は形式的なものになっていた。掃除や洗濯、入浴や睡眠だってそうだ。汗も垢もほこりも出ないし、疲れることもないのだから。しなくていいものなら、いっそやめてしまおうかとも考えたが、時間の過ごし方がわからなかった。

「リコーダー吹こうよ」

そう男に声をかけても、力なく首を振るだけだった。わたしはリコーダーを二本とも袋にしまってしまった。この頃では男の口数は減り、表情も乏しく、ぼんやりしていることが多くなった。

それでも男は毎晩かぶさってきて、わたしはそれを受け入れた。男は何かわけのわからないことを叫んでいた。わたしはゆれる天井をながめながら、男がわたしを突き上げる回数を心の中で数えた。それは日ごとに増えていった。

並んで横たわっているとき、男にたずねた。

「ほんとうは、帰りたいんじゃないの」

男はまばたきもせず天井を見つめ、何も答えなかった。

「帰ったら」

男は背を向けた。眠ったのかと思った頃、ぼそっと吐き捨てるような声がした。

「そんなこと、できるかよ」

そして男は再び黙ってしまった。いまさら家族に顔向けできないということか。わたしに対して無責任だということか。たんに気力がないだけなのか。それとも、わたしが思いもよらないような理由なのか。あるいは、それら全部なのか。よくわからなかったが、もう追及はしなかった。

さらに時は流れた。いまがいつなのか見当もつかなかった。同じ毎日の繰り返しに、何年も過ぎたように思えた。だが窓の外では、まだひとつも季節は移っていなかった。

ここでは飢えることも、寒さにふるえることもなかった。一緒に暮らす相手もいた。だけど、からっぽだった。

次第に食事をつくらなくなった。風呂に入らなくなった。ただ横になったままでいることが多くなった。男はわたしに触れなくなっていた。話をすることもほとんどなくなった。リコーダーが取り出されることもなかった。何も成し遂げないかわりに、失敗することもない。何かが進むこともないかわりに、ふるびることもない。何もしなかった。何も変わらなかった。

思いがけず別天地を手に入れたものの、その先のシナリオはお互いに持ちあわせていなかった。

八時をさしたままの柱時計が、時々鳴った。

ある朝、男は出て行った。出ていくとも、すぐ帰るとも、何も言わなかった。男が出たことに気づいたのは目覚めて階下に降りる途中、冷たい風が流れ込んできたからだった。玄関の扉が数センチ開いたままになっていた。「そうだ。ドアは開くんだ」当たり前のことなのに、大きな発見でもしたように感じられた。

「いるの? ねえ」

かけた言葉は木の壁に吸い込まれていった。

窓に近寄ってカーテンをあけた。外は一面、白の世界だった。木の枝なのか屋根なのか、どこか高いところから雪が落ちて、どさっと音を立てた。

小屋の前の道に、男の足跡らしきくぼみが蒼く点々と続いていた。だが、それももう見えなくなりかけていた。

いままでだってひとりでいたようなものだった。けれど、ほんとうにひとりになってみると、小屋はよりがらんとして、果てのない時間のなかに漂流しているように思えた。だが一方で、どこか解き放たれたような感覚をおぼえていた。

素足で立ちつくしていたせいか、急に悪寒がした。ベッドから毛布をとってくると、頭からかぶった。

テーブルについて部屋の隅に目をやると、この小屋に来て以来、まとめて置いてあった男の荷物はなくなっていた。リコーダーの入った袋だけが残されていた。

ひさしぶりに手に取ったリコーダーは、硬くひんやりとしていた。吹口をくわえると、甘く、ほのかに黴くさかった。これだけ、時間が進んでいたみたいに。

男は前いたところに帰ったのだろうか。では、わたしも? だとしたらどこへ? わたしには帰る場所も帰り道も、もうわからなくなっていた。

そっと息を吐きだすと、リコーダーが頼りなく応えた。

わたしは『シシラソ』を吹いた。息づかいと指づかいに集中した。シシラソ、シシラソ……歌詞などいらなかった。音階だけをなぞり、音で頭を満たした。

そうしてわたし自身が一本のリコーダーになったように、ただ繰り返し、繰り返し、同じメロディーを吹き続けた。


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短い小説を書いています。よろしければ、こちらもぜひ。


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