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柴崎友香『百年と一日』書評「時間に触れる33の出来事」

『百年と一日』は時間の手触りを書いた作品だ。

 この短編集は33の短い話で編まれている。ひとつひとつの話は短く、物語的な起承転結もない。人や場所に流れる時間が丁寧に記述された静かな文体の小説だ。

『百年と一日』という作品名は、時間の流れを描いた作品にいかにも相応しい。33の話は一日で終わるものもあれば、百年程の大河的な歴史もある。しかしこの作品名は、単純に時間の長さを強調するために作品に冠されているのではない。「百年」と「一日」。ふたつのことばの間にある「と」は、比較ではなく等号の関係を意味している。

「一年一組一番と二組一番は、長雨の夏に渡り廊下のそばの植え込みできのこを発見し、卒業して二年後に再会したあとで、十年経って、二十年経って、まだ会えていない話」という長い題が付された話では、「一年一組一番」だった女性が、卒業後に一度も再会していない友人である「二組一番」の子どもに出会い、彼に「母といっしょに宇宙人を見たんですよね?」と訊ねられる。実際にふたりが見たのはきのこだが、彼の口にした「宇宙人」ということばは、ふたりが別々に歩んできた数十年分の時間の手触りを伝える呼び水となっている。

 それはことばではなく場所として現れることもある。
「駅のコンコースに噴水があったころ、男は一日中そこにいて、パーカと呼ばれていて、知らない女にいきなり怒られた」というやはり長い題の話では、以前住んでいた家が解体されていく様子を見ているとき、かつて一日中眺めていた噴水のことをふと思い出す男の姿が書かれている。

 百年分、あるいは一日分の時間の手触り。私たちがそれを感じるのはどちらも等しく一瞬の些細な出来事だ。柴崎友香は33の話で33の出来事を書くことによって、ことばや場所に宿る小さな、あるいは大きな変化の現れが、様々な人びとの人生に隠されていることを発見し、それを流れ去った時間の呼び水として読者の前にそっと差し出している。

 本書を読み終えた後、少しだけ注意深くことばや場所に意識を向ければ、きっとあなたの傍にもそれは見つかることだろう。


(この文章は、第2回ブンゲイファイトクラブのジャッジ応募の際に投稿したものを再掲しています)


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