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水平なドビュッシー

 五感は色々なものを連れてきます。感情や記憶、別の感覚。時にそれらは現実を邪魔したり過剰に演出したりしてしまうこともあります。

 特に音楽(聴覚)はそう。静かな朝の空気に歪んだギターは似合わないし(人による)、悲しい時にわざわざ暗い曲を聴きすぎると明けない夜の迷子。

 今これを書きながらふと思ったのは、私は自分の感情をコントロールしたい時によく音楽を聴きます。聴くというか、頼るといった具合で。

 また、何かをするときの準備運動としても音楽を聴きます。同じ電車の中でも目的地や用事によって聴く音楽は変わります。仕事に行く前は気分が明るくなる曲を聴くことが多いけれど、帰りはしっとりしたものが多かったりします。人と会う予定の前はテンションが上がる曲を聴いたりします。

 そんな中、自分の気分をフラットな状態にしておきたい時があるのです。

 それは美術館やギャラリーに行く時。
 なるべく自分の心が凪いでいて、思考もちょうど良く巡るような状態にしておきたいのです。

 なんというか、自分の感情や思考を「観たもの」にコントロールさせたいから。先入観から入ると余分が弾かれることがあります。その余分が本質である可能性もあったりして、だから美術館に向かう電車の中では音楽を聴きません。自分の気分が偏ると、先入観が生まれる気がするからです。


 ……というわけにもいきません。耳にイヤホンが突っ込まれていなくも、自分の内面は必ず"ズレた"状態にあります。いつでも。そもそも正しい位置などわからないのだけれど、なんだか違和感を感じてしまう。

 それを正してくれるような曲はないのでしょうか。チタニウムホワイトで上から真っ白に塗り変えるような。水平器を見ながら板の上で転がるビー玉が止まるように。

 だから色々と聴いてみたのです。そして、自分的にしっくりくる曲がありました。今ではその曲を道中に聴くのが美術館へ行く前のルーティンになっています。

 その曲はドビュッシーの弦楽四重奏曲の第三楽章です。


 私は常に音楽が聴こえています。頭の中で。現代病のようなもので、他の人もみんなそうだと思うのですが、どうなのでしょう。気がつけば頭の中に何か音楽が流れていて鼻歌を歌っていたりします。

 それが止まる状況は限られていて、ぱっと今思いつくのは本を読んでいる時だけ。そういえば文章を書いている時今も聞こえませんね。

 この無音の感覚にこの曲は近いのです。あくまで私個人的な感覚ではありますが。


 弱音器をつけた弦楽器で静かに奏でられる優しい旋律。曖昧な調性感。朝霧の様に私を包み込んでくれます。楽しい、悲しい、嬉しい、苦しい。そんなものが全てあるような、ないような。無色透明に近いハーモニー。

 この曲を聴いていると感情や思考を置き去りにしたまま五感だけを研ぎ澄ませてくれる感じがします。だからこの曲を聴くのだけれど、そもそもこの行為こそ先入観を作ってしまっているのかもしれません。兎にも角にも、この曲を聴くところから私の「美術館に行く」という行為はスタートしています。


 そういえば最近は美術館にもギャラリーにも全く行けていません。またこの曲を聴きながら、ひとり静かに電車にゆられたいものです。

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