見出し画像

天才になりたかった

『火花』/又吉直樹を読んだ。
読み終えた後、ずっと徳永の言葉を考えている。

天才になりたかったという言葉がやけに重く私の中に響いていた。この本で紡がれてきた言葉たちの重みの一切が、ここに飛び込んできたかのようだった。
陳腐な言葉のはず。それこそ使い古されたセリフのはず。それが、圧倒的な質量を持って私にのしかかってきたのだ。

上手く言葉にできない。
言葉は枠組みとして完成されすぎていて、この私の熱さを表現するには、あまりに冷たすぎる。でも、だからこそ、言葉を尽くさねば。あきらめてはならない、と思う。
この熱さは時間がたてばぜったいに摩耗してしまうし、それに、マグマのような熱さを、そのまま、言葉を使って、彼は私に伝えてきたのだ。不可能であるはずがない。私も、又吉さんのような質量を生み出したい。



はじめて又吉さんの文章を読んだのだけど、その温かさにまずびっくりした。火花は、決してハートフルな話なんかじゃない。世知辛い世界の、彼の生きてきた世界の話だ。
笑いで食っていけない貧しさ。人から認められない悔しさ。芸能界で生きるしんどさ。自分の「面白い」で世間が全く笑わない恐怖。お先真っ暗な将来への不安。
やるせない。情けない。そんな感情で溢れている。
でも、言葉が温かいのだ。読んでいて彼の幸せを願わずにはいられない、そんな優しさに満ちているのである。

徳永が人を信じているからだろうか。やり場のない怒りを、やり場のないまま、素朴に問い掛けているからだろうか。周りのせいにも、自分のせいにも、世界のせいにもしないまま、でもその存在があることをちゃんと認めている。
徳永はどこまでも不器用であるけど、その悔しさを、情けなさを誤魔化しはしなかった。ちゃんと、生まれたまま、扱った。だからこんなに温かいんだろうか。

(私の言葉では、どうしても思いの温度が下がってしまう、臨場感もスピードも足りない。悔しい。この爆発は、何の言葉を組み合わせれば、言い表せるんだろう。)


私が一番好きなところを書いていいだろうか。
最初も最初、花火大会の出会いのシーン。

その人は満面の笑みを浮かべ、「楽しい地獄」と優しい声で囁き、「お嬢ちゃん、ごめんね」と続けた。もう僕は、その一言で、この人こそが真実なのだとわかった。

この箇所。この箇所だよ!
もう鳥肌が止まらなかった。というか、書いている今も、別に止まっていない。
私はこの箇所に又吉さんの全ての才能が詰め込まれていると思っている。

天国じゃないんだ。楽しい地獄なんだ。
神谷は生涯漫才師で、笑いに全てをかけている男で、でも、とてつもなく優しい男なのだ。それが、この二文だけで分かってしまう。天才だよ。
そして、神谷の囁きをちゃんと見ている徳永。そして、それを真実だと言い切ってしまう素直さ。ある意味馬鹿だ。愛しきあほんだら。

こんな彼だから、足掻いている姿が愛おしいんだろう。
いとおしい?いや、そんな瑣末な言葉じゃなくて、全くの他人で、何も彼のことなんか知らないのに、自分から生まれた言葉であるかのように感じる。この言葉なら許せる気がする。

天才になりたかったのだ。でも、なれなかった。ただ、自分が面白いと思ったもので人が笑ってくれたら。そんな優しさだけの天才になれたら。なれなかった。優しくなるには、徳永は不器用で過ぎた。私も、不器用すぎた。でも、なりたかった。

10年分の感謝の言葉すら相方に言えないような不器用さで、徳永は生きていた。彼は夢を追いかけて、追いかけて、そして遂に叶うことはなかった。その真面目さに、泥臭さに、私は自分の奥底に眠る優しさを見るのだ。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?